「イケメン薄命」では、たまったもんではない
家系に短命の親がいるとちょっと参る。亡父が60歳、亡母が64歳で亡くなったからだ。もしかしたら、佳人薄命ではないが、「イケメン薄命」であって、イケメンの私も薄命で終わるのかもしれないと怖れおののくからである。
まだ死にたくはない。たとえそうなっても、最期の際まで「死にたくねぇ」とわめいていたい。そうなのだ。この世に未練はたっぷりとあるからだ。妙に悟り切った高僧のように、すまして静かに死んでいくことは、私には不可能であろう。あっという間に、意識を失って死んでしまうかもしれないが。
しかも、身も心も震えるような美女にも会ったことがない。女優の原節子さんのような美女にである。(冗談だけど)
それに、やることがいっぺぇある。
古文書だって、まだまだである。本当の古文書というか、近世の古文書だってまだまだ読めない。所詮初級クラスである。だからである。だから欲張っているのだ。
古文書というと、居住地の古文書講座で塾頭みたいなポジュションにある教育界の大先輩に(私の義務教育時代の)、激励された。健康問題が勃発して死にそうになったと申し上げたのである。そしたら、「オレより10歳も若いのに何をやっているのだ!」という手厳しい(あたたかい)指導をいただいた。本当である。大先輩は70代。そして今なお、古文書読解を趣味として、毎週講座に通っておられる。私は初級だけだけれども(隔週)、彼は上級コースもやっているから毎週になる。私も早く実力をつけて、毎週古文書講座に参加できるようになりたいもんだと心底思っている。
中学校理科の教員だったのに、凄い人である。こういう人は短命で終わることはないだろう。あくまで計画的に生きて、死ぬときも時間を計って、もしかしたら自分でストップウオッチを持って、「あと何秒」とかつぶやいていくのではないのかと思うくらいである。私もそうしたいからである。(^-^)/
塾でのバイトもまだまだである。国語の他に数学と英語もやっているが、特に数学が難関である。高校生の数学に至ってはまったく歯が立たない。立たないからと言って、座っているわけにもいかない。だから、高校生の数学は無理である。やらない。やらせてくれないように仕向けた。謙虚に生きていれば、そういう無理難題は降ってこない。できないのに、見栄を張ってさもできるような顔をしないことである。こっちは、エリートではない。むしろ劣等生であったからである。地道にコツコツと生きてきただけである。だから、出来ない子の心情はよくわかる。わかるから、決して責めない。正解を出したら、いつも褒める。そして自信をつけさせる。それが効果的であったから、私を指名してくださる生徒もいるのである。元***であったから余計宣伝効果もあるらしい。塾にとっては。そりゃそうだろうと思う。思うけれども、私の根本に「人は褒めて育てよう」というのがあるからだ。マジである。欠点指摘型というのは誰でもできる。アレダメ、コレダメとすべてを禁じて、親や教師のためだけを考えているといつかしっぺ返しを喰らう。そうなってからは遅いのである。
育つときは、育つのである。
放っておいたって、子どもは育つ。ただし、その時、その時で適切なadviceは必要である。その「適切な時期」というのを、間違わないことである。だから、子育てというのは、むしろ「親育て」でもある。親が育っていないと、子育てはうまくいかない。そのためなら、いくらでもボランティアで、adviceしてさしあげたい。誰もそんなことを言ってくる人はいないが。
ダメだというと、中国語講座もダメだなぁ。台湾でまったく通じなかった。中国語が。しかたがないから英語に変えたら、台湾の美人書店員(ちなみに私は誰でも女性なら美人に見えるのだよん)が恐怖で震えていた。怒っていると判断されたらしい。最後は、身ぶり手ぶりであった。笑っちまった。ホントは、日本語が通じるのだそうだが、日本人で中国語の書籍が欲しいというバカは私くらいだろうから、対応できないのだろう。仕方なし。
しかし、めげずに中国語講座は受ける。今日は、居住地でやっている中国語講座の申し込みに行く。月に2回しかないから、けっこうマスターするのには難関である。だからNHKのテレビ講座もやることにした。私の家のテレビが毎週探して、録画できるのを昨日初めて知ったからである。笑ってしまうくらいに、電気機器のことについて知らない。知ろうとしない。バカ丸出しである。
ついでに、英語のテレビテキストも買ってきた。こっちも初級である。「しごとの基礎英語」というやつだ。7月にカナダとアメリカに行くからだ。ちょっとは会話の勉強もしておきたい。
拙ブログの自己紹介にも「旅が好き」と書いてあるし、事実、旅は私の人生の一部であり、すべてであるからだ。
可能ならば、芭蕉のように旅から旅をして死にたい。マジである。どうせ、時期が来たら死ぬのである。誰でもそうだ。100%である。
そこから逃れることはできない。
誰だって死ぬ運命にある。
どんなに美女であっても、死ぬ。
現代人は、そのことを忘れている。
いつまでも永遠に生きていられると勘違いしている。
だから、不倫だの、浮気だの、愛だの、恋だのと世迷い言を言っていられるのだ。
あるいは、現世のことしか考えないで、みっともない経済バトルしかやっていない。最近起きた、某家具メーカーの父と娘の経営権争いのバトルなんか、呆れるというよりも、おぞましくなった。
死ぬということから逆算して考えると、そんなことをやっている暇はねぇだろうにと思ったからである。
いつまでも生きているという前提からは、なにも産まれない。
なぜか。
その前提はあり得ないからである。
「生老病死」の観点のない思考styleは、およそあり得ない前提を生きるしかないであろう。
あり得ないというと、「とーま君はイケメンである」という前提もだ。
わはははははである。
さ、今日もイケメンとーま君はいきいきと過ごす。
楽しくね。
(^_^)ノ””””