2012年8月4日 養老孟司氏による特別講演「むし・信州・わたしの壁」
生きるための智慧が生涯学習にはある
損得勘定というものが、人間関係を希薄にしている。そう思う。クチさえ開けば、メリットがあるとか、デメリットだからやらないとか聞かされてきた。
会社員のみならず、教育界にも当てはまっていたから、もしかしたら横文字でメリットとかデメリットとか言っていると、格好がぇぇと考えているのではあるまいな?と今朝気がついた。
損得勘定の蔓延が、人間関係を希薄にしているどころか、劣化させている。希薄どころではないのである。まさに劣化である。
損な相手なら、つきあわないという傾向もある。
なんの得にもならないが、つきあっているだけで心穏やかになるというタイプの方もおられる。その人の息づかいを感じただけで、様々な意味での触発を受ける。あるいは、オノレの気持ちが救われるというタイプの方である。精神的に余裕のある方である。
幸い、私はそういう人生の先達に恵まれた。だから、今まで生きてくることができた。
しかし、最近はそういう人生の先達になれるような方々が少なくなったのではないのか。全員が損得勘定でもって、右手にそろばん(電卓)を持ってキリキリと稼ぐだけでは、そんな人材は育ちようがない。
理由があるのだろう。
私なりに考えてみると、それは実にせせこましい狭隘なる合理主義に陥ったからである。キリキリしすぎているのである。せせこましい合理主義に、社会が振り回されている。
そうすると他人のまねをしているのが一番時間のロスがなく、狭隘なる合理主義としては便利になる。他人が工夫して、作ったノウハウを再生産しているのが気楽でいいということになる。だから、ビジネス書が流行る。自分で工夫しなくてもいいからである。ナントカ・セミナーっちゅうのもそうだろう。こういうのは基礎的な知識を得るにはいい。しかし、あるレベルからは自分なりに工夫していかなくてはならない。でないと、自分の人生を生きた心地がしない。
それをである。損得勘定だけでやっていたらどうなるのか。
余裕が吹っ飛んでしまう。自分なりの。
自分の中で、いろいろな事を咀嚼して、考え方を深めていくということができない。
やることが横並びになってしまう。誰でもやっていること、できることしかやらなくなる。工夫がなくなる。
高校の生徒募集も、校長や教員が中学校回りをしていれば生徒が集まるというのも工夫がない。そんなの誰でも思いつくからである。ちなみに私は、中学校回りを殆どやらなかった。その代わり、マスコミを大いに利用させていただいた。教育誌、地元日刊紙、Internet、HP、ブログ、Twitter等々でもって、常時情報発信に努めた。それらについて、中学校や生徒、保護者が注目してくれた。そういうことである。損得勘定ではなかった。あまり昔のことは書きたくないので、これくらいにする。
しかし、今は、生徒募集しても進学は生徒自身が決める時代である。親の出る幕はない。あっても些少である。まだ塾の方が出る幕があるのかもしれない。
これは大学の学生募集でも同じことである。大学の建物を立派にしたから、あるいは都心回帰をしたから受験生が集まるのではない。ましてや、経営コンサルタントに億を超える大金を払って、大学活性化のプランを作ってもらって失敗しているのでは、それこそ時間とカネの無駄である。
慶應義塾を見てもわかるように、創立者の福沢諭吉タイプが発展の基礎を作ると思っているのだ。福沢諭吉は、他人のまねをまったくしていない。ジャーナリスティックに多くの著書をだして庶民に啓蒙をしてくれた。他大学ではどうなのか。あまり聞いたことがない。いろいろな大学の創立者で、福沢諭吉ほどの活躍をした人はいない。しかも、わかりやすく啓蒙をしてくれた。私のようなバカにもわかるようにである。
専門の殻に閉じこもっていることもなかった。
幅広い教養と実践に裏打ちされていた。それがすばらしいのである。そのことでもって、カリキュラムを改善することが最も重要である。そう思う。
そういうことをやらないから、太刀打ちできなくなる。福沢諭吉のようなことをやらないからである。もっとも誰でもできる相談ではないだろう。福沢諭吉クラスの能力がなければ、大学のトップはできないだろうと思っているからだ。事実、そういう立派なトップの方々も多いから、いろいろな大学がまだまだ経営可能なのだろう。よくわからない世界ではある。
つまり、損得勘定でもって支配された競争社会の息苦しさが、ダメにしている。人間を。福沢諭吉のまねをしたらどうかと言っているのではない。そこから自分で考えるしかない。そいうことを教えていだいたと自分では感じている。
昨日、夜遅くまで、ある学者センセの原稿をデジタル化していた。古代史のセンセの原稿である。ある研究誌に送付しなくてはならない。編集担当の末席に入れていただいているからである。入力作業をしていて、実に勉強になった。ふううううむ、こういう書き方もあるのだなぁとか、なるほどこうやって考えるのかと感じながら打鍵していた。
体力に不安があるから、できるかどうか心配していたが、結果的にはなんでもなかった。
もうこれで大丈夫だろう。じっとしているのが良く無いから、できるだけ机にしがみついていることは止めた。歩くことも、動くことも重要であるから、こっちはやっている。
しかし、もっと大事なことがある。それは生きがいである。やることが無くなってしまったらいけない。
だから生涯学習は決して時間とカネの無駄ではないのである。
生きるための智慧である。
(^_^)ノ””””
目からオミズが出てきちゃった。
トーハクに行ってきた。上野にある東京国立博物館である。「みちのくの仏像」展を見に行った。
久しぶりのお江戸であった。いつもながら人... goo.gl/MuJDfW
霊巌洞岩戸観音:熊本県の雲巌禅寺の奥の洞窟にある。平安期の女流歌人・檜垣媼(2=熊本蓮台寺所在)が参拝したことで知られ、家内安全・商売繁盛などを願う参詣者が全国各地から訪れている。宮本武蔵が『五輪書』を著した場所でもある。 pic.twitter.com/sXv8TZK3ZZ
柳田国男がこの町に住んでいた時は大飢饉が起こったらしいので、祭は中止だったのだろうか。北条節句祭の名は祭名として蒐集してあるけれど、詳しくは語っていない。神事の「鶏合せ」は平安時代から続くもので、この期間は鶏肉や鶏卵を食べない。 pic.twitter.com/JXqhnmKauE
【新潟・大したもん蛇まつり】<8最終金、土、日曜日>灯籠流し、喜っ喜大会(じゃんけん大会)、花火大会、盆踊り大会などが行われ、ギネス認定の世界一長い竹と藁製の大蛇が湯沢温泉から高瀬温泉まで練り歩く。全長82.8m、太さ1.2m。 pic.twitter.com/sBim7O2K9x
国立国語研究所『日本語歴史コーパス』との連携サービスを開始!ジャパンナレッジ会員なら、コーパスによる古典語の分析を現代語訳や頭注を参照しながら行うことが可能に!※『日本語歴史コーパス』【中納言】 pj.ninjal.ac.jp/corpus_center/… のご利用には登録が必要です。
『日本語歴史コーパス 平安時代編』の検索結果から、ジャパンナレッジ『新編日本古典文学全集』(小学館)の本文(現代語訳・注釈)へのリンクを実現しました。 / “平安時代編 - 日本語歴史コーパス(CHJ)” htn.to/NjXCE5N
日本語歴史コーパスのジャパンナレッジ連携機能、さっそく使ってみたが、これは便利。中納言で検索した結果の横にでる「JK」リンクをクリックするだけで、新編日本古典文学全集の当該頁のPDFをすぐ参照できる。これを使わないで古典語の研究できるの?というレベル。
ただ大学生は10年前と比べると勉強しているのは事実らしい。
データえっせい: 大学生のマジメ化・ウチ化 tmaita77.blogspot.com/2014/06/blog-p…
随分JKの全文検索が出来る「群書類従」の評判が良かったので当館でもトライアルをする事に。逆に角川の「新編国歌大観」オンラインは北米図書館で上手く動かないらしくもうちょっと様子見。せっかく買ったCDは動かないし無駄な予算支出をしてしまった自己嫌悪でもうCDはコリゴリ。
数日前、文章の書き換えをやったら評判がよかったので、宣伝をかねてまたお見せしましょう。「私は~と考える」を繰り返す人が多いですが、これをやめるだけでも論旨がはっきりします。この例では、他にもフレーズを入れ替えたりしています。 pic.twitter.com/D56UVKMdrU
主語が曖昧になっては困りますが、レポートの場合、考え判断する主語は基本的に筆者なので、「私は~と考える」は不要の場合がほとんどです。そもそも、レポートは、「私」が考えても「あなた」が考えても同じ結論に達するような証拠を示す必要があるわけです。@katsuwow: いつも拝見して…
戦争によって道徳は嗤うべきものとなってしまう。手立ての全てを尽くして戦争を予見し、戦争において勝利する技術、つまりは政治が、かくして、理性の働きにほかならないものとして理性に課せられることになる。哲学が素朴さに対置されるように、政治が道徳に対置されるのである。-全体性と無限-