山形県米沢市 ~上杉鷹山ゆかりの地を巡る~
細井平洲先生上杉鷹山公 敬師の像について〈米沢市普門院〉
第25回 理想の指導者 上杉鷹山 【CGS KAZUYA】
第1回 後編 上杉鷹山に不景気脱却の秘密を学ぶ【CGS 偉人伝 本田卓】
第1回 9歳で借金120億!?上杉鷹山は米沢藩をどうやって復興させたか【CGS 偉人伝 本田卓】
お江戸の仏像展に行く
Kindleのタブレットを昨日買った。前から欲しかった。なぜなら、私はAmazonの電子書籍が大好きで、以前からKindleで読んでいたからである。さらに、最新型は、メールもwebのsearchもできる。ただし、スマホのように電話はできない。
電話は不要である。
かかってこないし、かけない。かかってくるときは、配偶者からだけである。買い物に行って、私が迷子になりそうなときだけ。つまり、ショッピングセンターの中でどこにいるのか?ということを聞きたい時だけ。
それに、外出する機会は殆どない。あっても2時間程度である。大学で授業、塾で授業(90分)程度だ。教えてもらっている古文書講座、中国語とか男の料理教室もそんなに時間を食うわけではない。
要するに徹底的に暇なのである。
だから積極的にジー様生活を送る以外にない。
それが私の予防注射である。病気になった最大の原因が消極的に生活をしていたからである。簡単に言えばじっとしていたからである。似合わない。じっとして読書三昧を気取っていたから、アウトになっちまった。バカである。
能力と相談しながら、静かにジー様生活を送っていれば良かったのに、完全に血迷った。
もう退学した大学とは縁が切れてしまった。
そう思っていたら、昨日塾で相談された。
男子高校生である。
ある私学の高校にこの4月から通う生徒である。英語を一緒にやっていた。志望大学を聞くのも講師のマニュアルにあるので、聞いてみた。そしたら、退学した大学の看護学部を受験したいとのことであった。笑ったな。そうか、そうかといろいろとadviceをした。
なんといっても、私は三年間も通学したのである。内部事情にはとてつもなく詳しい。大学院は、修士が二年。博士が三年である。規定上は。その博士三年にいたのである。残念ながら、学業劣等、健康不安で退学した。しかし、これ以上の宣伝材料はない。聞かれたら答えることにしている。
だから、いろいろと話をした。
希望を持ってくれた。少なくともそう思う。さらに、非常勤講師をさせていただいている大学にも看護学部がある。あるからそっちも宣伝しておいた。最終的にどの病院に勤務したいかでもって、進学先を選んだ方がいいよんということも言った。国立(県立)大学にも看護学部があることも言ってみた。そしたら知らなかった。そういうことを。希望だけは大きい方がいい。もっともっと伸びて欲しいからである。マジに。
もっと笑ったことがあった。
私は、これまで塾でバイトをするために自学自習してきた英語と数学のノート(国語だけはノートがない)を紙袋に入れて塾に持参しているのだ。それを時々見ながらやらないと、とてもじゃないが授業を行うことができないからである。
そして、そのノートに興味を持ったのが、昨日の男子である。
写メで写さしてくださいと言うのである。
笑ったなぁ~。
快諾した。
別れ際にそう言ったのである。数学も見せて欲しいと言われたのでそっちも見せた。ぱちぱちと写していた。こんなんでいいのなら、何でも協力しますよと爺らしく柔らかに言った。
感謝していた。
さわやかなスポーツマンである。そういう若い塾生から、エネルギーをいただいているのだ。こっちの爺は。
病気になったときは、さすがにめげた。
亡父・亡母と同じで60代で人生が終わっちまうのかよーと思った。ICUに入れられても、意識ははっきりしていたし、その日の午前中までは、クルマも運転していたのである。まるっきり病人になったという自覚がない。ないからピンピンしていた。こういうのは困る。病気になったという自覚がないからである。どこも痛くないからである。
しかし、ドクターから(5人)宣告された。それでもって、とうとう納得した。これでデタラメ生活は終わったと。そして、それから大病院のベッドであれこれと考えて、大学院生活を終わることにしたのである。決意ってやつだ。もうこれ以上のデタラメはやっちゃいけないという天の意志であると、しみじみ思った。論文だけは書いた。それが今でも財産になっている。
方法論も教えていただいた。さらに、師匠は高名な日本古典文学の学者である。こういう方と三年間も一緒にマンツーマンで授業をしていただいた。感謝である。もっと若ければ、私もついていけたのかもしれない。しかし、潮時というものはある。そもそも無理だったのである。博士になってみたいというのは。将来展望もないし。
養生していきたい。
それしかない。
だからゆとりで学べるコースに変更した。老人クラブと、老人大学である。
楽しみである。
実に楽しみ。
捨てる神あれば、拾ってくださる神もあり。
今日はこれから高速バスで、お江戸に参上する。
みちのく仏像展を見てくる。トーハクである。東京国立博物館である。一人で行ってくる。こっちも楽しみである。なにしろ、オイラの出身地であるからだ。
ああ、早く会いたい。仏像に。しかもみちのくの。
待っていてねぇ~。
※特別展「みちのくの仏像」(トーハクのHPから引用)
本館 特別5室 2015年1月14日(水) ~2015年4月5日(日)
東北地方には魅力的な仏像が多く残ります。本展では、東北の三大薬師と称される、黒石寺(岩手県)、勝常寺(福島県)、双林寺(宮城県)の薬師如来像をはじめ、東北各県を代表する仏像が出品されます。
ういういしい「最年少会員」である。カミの毛もふさふさの。
老人クラブに加入した。年会費1400円である。年である。月では... blog.goo.ne.jp/tym943/e/c17f6…
人間は万能の神でも仏でもないのですから、人を完全に理解することもできないし、良かれと思ったことで人を傷つけることもあります。そういう繰り返しの中で、人は何かに許されて生きているのです。
「質」は知覚の彼方に離れているのではない。彼岸のものでも此岸のものでもない。「質」は単に物質的でもなく、一元的に精神レベルのものでもない。主観でも客観でもないもの―「質」は抽象的なものではない、五感で確かに知覚できる、それでいて同時に別の何かだ。
中世の高野聖は全国を行脚して「一度参詣高野山 無始罪障道中滅」一度高野山へ登れば罪過は悉く消え、心身が清浄になるという唱導を行ってきました。#koyasan pic.twitter.com/OX5grxf4UA
向源寺十一面観音立像:聖武天皇の命で泰澄が制作。浅井・織田の戦火のため、安置されていた光眼寺は焼失したが、観音を篤く信仰する住職巧円や近隣の住民は、観世音を土中に埋蔵して難を逃れた。後に巧円は浄土真宗に改宗し、向源寺を建立した。pic.twitter.com/7POXcAlx31
高野山開創1200年の記念大法会が50日間の日程で2日から始まりました。「一度参詣高野山 無始罪障道中滅」。一度高野山へ登れば罪が消滅する、との意味だそうです。(し)
t.asahi.com/hkll pic.twitter.com/PHVDVwmxkP
鳥のうんちシール vvstore.jp/feature/detail… 鳥の糞は汚いといった人の共通認識を利用した自転車盗難防止グッズになります。この春、自転車を新調した皆さまぜひ! pic.twitter.com/Bx9x9Su044
昔から人間は3つの夢を持っている。ひとつは空を飛ぶこと。ふたつめは変身すること。もうひとつは動物と対話すること。この要素を満たすものをマンガに描くと、必ず当たる。
ああ、病になって幸せだなあ。私をもっと尊い境涯に生かすために、今までの生き方の間違いを根本主体が教えてくださるために、この悩みがあるんだな。この悩みでの生き方の間違いを根本主体が教えてくださるために、この悩みがあるんだな… bit.ly/1gFsclo
100RT:【岡谷市で山火事】
長野県岡谷市川岸西2丁目付近で3月31日、大規模な山林火災が発生
breaking-news.jp/2015/03/31/018…
消火活動は難航し避難準備情報が出されるなどしましたが、3日間で無事鎮火。川岸夏明地区 pic.twitter.com/GEVN3jfmtx
「能」に興味をもつ人は、小津(安二郎)先生の映画に好感を持つだろうし、小津映画のファンはその画面の中に能のたたずまいを感じるにちがいない。
新しくなった南アジア展示と東南アジア展示。HPでは主な展示品を紹介しています。週末はぜひ展示場で本物をご堪能ください。南アジア→minpaku.ac.jp/museum/exhibit… 東南アジア→minpaku.ac.jp/museum/exhibit… pic.twitter.com/nu4MW2XuEA
モノ考えるなら鉛筆とノートがよろしい。それもA6版みたいなミニメモではなくA4程度の紙にバンバン書いて考えるのが自由に考えられていい。時間と空間の認識の問題を「思想」向けに音楽の問題として考えている。
今日は自宅にPCの電源を忘れてきてしまった。結果このコンピュータで腰をすえた仕事が出来ない。(Finale 2014のインストールとかは電池で全部やってけど)で、本のページをめくり、ノートに鉛筆でメモをとり、いまは帰りの電車で他にやることがなくネットにアクセスしている訳ですが^^
.@hagiwara_ryo 今日は本郷三丁目から新宿に丸の内、出力屋に寄り、1、2杯飲んでから西武線という航路。どーってことない日常と、それを超えた成果を狙う仕事と ですね^^
ってか若き人文社会学徒の諸君、昔のように数学は閾の高い学問ではない。計算機に突っ込めばそのままシミュレーションの絵が出てくる位にファンシーで身近な道具だ。僕など演奏や作曲の片手間にいいじってなんとかなっている。水掛け論的な言葉の応酬に陥る莫れ、どうせなら演奏で相手に有無を言わすな
教務から 表現は悪いけど くるくるぱあな S1タームとかなんとかいう授業時間割が送られてくる。 教務は完全に被害者で、濱田氏がくるくるぱぁなだけの話だが 6コマひと学期の軽薄短小でどういうカルチャーセンターをやれというのか。大学というものを根本的に舐めているのがほぼ自明と思われる
若き人文社会学徒の諸君、悪いことは言わない。数学を自分の道具として縦横に身につけたまえ。30年後、安定した教授職のポストと共に、何をいっていたか、僕の死後に理解するだろう。自然言語の水掛け論でいった言わないの類は全部洗い流されて終わるから、その一部にならないように注意し給え。
積分を一つ書いて、あとは解るだろ! と投げ出せれば本当に楽なのですが そういう方法はとらず、丹念に説いてゆく、このスタイルは、Erwin Schroedinger やMax Bornのそのテの努力を見なければ絶対にやっていなかった C.P.スノー的な絶壁の谷間を渡る問題設定^^;
昨日は部局の始業式というか新入生ガイダンスというので15年ぶりに出てみたのだが、教官紹介で「専門は」「専門は・・・」って皆さんおっしゃるんですよね。学際融合ってって作った部局だったと思うんだけど、結局専門なのかな?とか思いながら聴いた。
糖尿について「細胞レベルの贅沢病」という観点が成立しうるように(母は糖尿でした)ガンについて「細胞レベルの退化病」と考えるとき、ある種の飢餓療法で全身が非常事態を迎えるとむしろしゃきっとして克服できるというのはわからなくない話です。「体内環境療法」的な免疫向上の考え方はできそう。