「一休骸骨」がたまらないほど魅力的である。
「そもそもいづれの時か夢のうちにあらざる、いづれの人か骸骨にあらざるべし。それを五色の皮につゝみてもてあつかふほどこそ、男女の色もあれ。いきたえ、身の皮破れぬればその色もなし」
(一休骸骨)
地位・カネ・名誉、人は生きているあいだに色々な物で自分を飾り立てようとする。みてくれの美醜にこだわり、こだわりすぎて我を見失う人もいる。だが、死んでしまえばその皮は腐ってずるりとむけ、下から骸骨が顔を出す。あんたの皮の下にも、私の皮の下にも、あるのはただの骸骨だ。
昨日、居住地にある大図書館から「一休骸骨」(禅文化研究所:花園大学)を借りてきた。箱入りの豪華本である。よくまぁ貸し出しをしてくれたものだ。中古本でもかなり高い。高いから買えない。貧乏年金生活者である。だからだ。
その本が、千葉市の中央図書館にあるというのは知っていた。予約して借りたので、もうちょっと時間がかかるかと思ったのであるが、その日のうちに借りることができた。文学・古典・哲学関係は、居住地の大図書館に書籍を移動させていると聞いていたので、もしかしたら居住地の方の図書館にあったのかもしれない。どっちにしてもありがたいことである。
高い本であるから、扱いを丁寧にしないといけない。
しかし、私は一部コピーをさせていただいた。B4なので、書庫にあるコピー機ではできない。できないから、コンビニで一部コピーをさせていただいた。
今、私の手元にある。嬉しくてたまらない。
ある意味、私の価値観の逆転をしてくださった方が一休さんであるからだ。
そんなことより、「一休骸骨」(禅文化研究所:花園大学)の別冊解説がたまらない。楽しいことかぎりなし。
作家の富士正晴センセと柳田聖山センセの「脱線・骸骨談義」である。前代未聞の談話である。
これまでささやかながら、いろいろ談話を文字にしたものを拝見してきた。しかし、これ以上のものはない。すばらしい。
一休の歴史的な歩みとか、なんとかとかそういう類いのものではまったくない。
闊達に、自由自在に語っておられる。
二人の悟りの世界でありまするよん。
昨日の晩、塾から帰ってきて、書庫のストーブにあたりながらそれを読んでいた。読みながら大笑いをしていた。
楽しくて、楽しくてたまらんのである。
ついつい時間のたつのを忘れてしまった。
記録文であるから、ある程度脚色もしてあるのかもしれない。それにしても、愉快である。
書き出しからふるっている。
タイトルに「葬式ほど色っぽいものはない」と書かれているのだ。こいつは引きつけられる。キャッチーである。こういう冊子のタイトルがあったら、買い手は大勢つくであろう。(私のような変わり者だけかな・・トホホ)
富士正晴センセの言い出しっぺがいい。
「何や、えらいわけの分からんことを書いてあるなあ。」である。「一休骸骨」(禅文化研究所:花園大学)のことをである。
続いて、「何が書いてあるんかと思うたら、何やらもっともらしいことも書いてあるし、そうかと思うとそこら辺に骸骨がさまよい出てみたり、びっくりしたわ、もう。」とある。
これで十分引き込まれてしまう。
富士正晴センセは、筑摩書房から「狂雲集」を出しておられるくらいに、一休さんを研究されているのに、これである。おかしみというものが伝わってくる。悪く言えば、とぼけておられる。意図的に。
関西弁だからもっといい。とげとげしくない。どうも、私は江戸弁というのが今でも嫌いで、なかなかしゃべれない。だいいちまだまだ米沢弁が抜けない。抜けないどころか、抜く気もない。一生涯、集団就職列車少年で過ごすつもりだ。マジに。
江戸弁というのは(つまり標準語)、とげとげしくて、まるで喧嘩しているようだし。気に入らない。私のようなこころ優しい素直な貧乏爺には、耐えられない。とげとげしいからである。
みちのくの方言の方が、あったかくていい。こたつに入っているようである。人情がダイレクトに伝わってくる。もっとも、あれだ。今のみちのくの人は、方言をあまり使わない。故郷に住む甥っ子に笑われたことがあるからだ。今の人は(故郷では)そんな言葉は使わないと言われたからである。私の方言は、生粋の東北弁である。忘れようにも忘れたくない。永遠にである。
ま、そんなことはどうでもいい。
富士正晴センセである。
次の章にこう書いてある。
「死ぬのは、どうしようてわけにはいかんなあ」と。
で、さらに橋本峰雄という宗教学者の死について語っている。癌になられた学者センセで、法然院住職でもあった方である。
「橋本峰雄もね、もうそんなに寿命延ばしてくれんでもええ、言うたらしいんや。そしたら医者っちゅうのは、そういう時に立派なことを言いよるねんで。『死ぬと分かっていても、生かしとくのが医者の勤めです』なんて言いよるねん。『これは医者の儲けです』と言うた方が分かりが早いやないか。」とある。さもありなん。実に楽しい。
続けて曰わく、「昔の医者は違うた。これは寿命や、もう治らんと思うたら、好きなもん食べさして、好きなことさせておいたでしょ。そしたら死ぬやつも納得いくわけや。」とある。これまた愉快なり。富士正晴センセ、絶好調である。
楽しいですなぁ~。
「一休骸骨」は繪書でもある。
だから楽しい。
なにも小難しい顔をして、解釈がどうだのこうだのと考えこまなくてもいい。気楽に読める。いや、読めるというよりも眺めることができる。そして、ついつい一休さんの世界に引き込まれてしまう。
それが案外、一休さんや、後世の一休支持者たちのねらいだったりして。
私はそれでもいい。それでもいいから、もっと一休さんの世界を知りたい。またはじまったよん。「知りたいビョーキ」が。
なんにも知らないからである。
知らない世界が多すぎる。
(^_^)3 フムフム。
だから生涯学習をやっているしかないのである。
また、古女房ドノに叱られてしまうケド。
わはははっははははっははっは。
(^_^)ノ””””