あまり湿っぽく生きないことである。しかも、他人の不倫だ、恋愛だなどということでもってオノレのタノシミにしない方がいい
世の中にはどうでもいいようなことを、さも・・・・と大げさに取り扱うことが多い。特にタレントや、人気商売の方々に多い。だからかわいそうになってくる。スケートの羽生選手もそうだ。タレントのベッキーさんもそうだ。
どうでもいいようなことを針小棒大に扱っている。
タレントとか、人気商売の方々に行動をちゃんとしていないといけないというのは、ある程度わかるような気がする。しかし、やっていることは我々凡人と大してかわらないではないか。アタシャ、やったことがないけど。マジに。なにしろ、相手がいないから(^0^)
つまり、こういう程度のことは(不倫だの、恋愛だの)、江戸時代のかわら版とかわらんではないかと感じるからである。
そんなつまらんことより、世界が平和であることを私は望んでいるのだが。全世界がきなくさいからだ。
政治でなんとかならんのかねぇ~。
心配でならないのだ。
これから生きて行かなくちゃならん孫もいるし、もっと広げて言えば、全世界の子どもたちがかわいそうだからだ。これから消滅していく私なんかよりも、子どもたちに命の保障をしてあげなくてはならないではないか。
そう思いません?
ホントに。
自分のことだけ考えてこんなことを書いているんではない。どうせ、自分は消滅していくのである。
だから逆に命の大切さを思うのだ。
これからの方々の命を。
なにも大それた高い視点でもって書いているのではない(と~ま君の視点如きもん低レベルであることは知れたことだ)。当たり前のことを言っているつもりである。
そもそも庶民というのは、悪知恵のかたまりである。
悪さの限りをやってしまうのが、庶民である。庶民は、全部が全部こころ優しい善人ばかりとは限らない。これは体験上そう思う。博打も好きだし、事実それでもって破産したり、居住地にいられなくなるという輩は実に多い。
江戸時代からそうだったということで、九十九里の哲人大原幽学が登場してくる。あの方は、現在の農協組織を作ったとかなんとかと書かれている。しかし、その前提にあるのが、庶民たちが、博打で破産したり、娘を売ったり、やくざと関わりをもっていたという当時の時代様相があることはあまり喧伝されない。だから大原幽学は改革に乗り出したのである。
しかし、東日本というのは湿っぽいなぁと思う。暗い話題が多すぎる。西日本の庶民たちのようにおおらかに生きられないのかねと思う。夜這いだって、西日本中心だったし。民俗学的には。
博打は東も西も関係ないのか。人間の性(さが)なのかな?わかんねぇけど。競馬も国家的事業だしなぁ。
あまり湿っぽく生きないことである。しかも、他人の不倫だ、恋愛だなどということでもってオノレのタノシミにしない方がいい。
バカバカしいではないか。
そんなことどうだっていいではないか。
もっとも、拙ブログでこんなあふぉ~を書いているオレもオレだ。バカバカしい。
ま、いいか。
どうせ惚け防止のためにやっているだけだからだ。
今日は、朝から天気がいい。
一日なにも予定がない。
こういう日は、読書するにかぎる。
メモ片手に。
それではそろそろ退散する。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ