わくわくしないと、なにをやっても面白くないのだ
わくわくすることがないと、なにかの専門分野に興味関心を持っていきながらあちこち資料を読みこなすこと、すくなくとも研究の維持発展はできないのだろうなぁと思う。学会誌には、そういうわくわく感があふれている。楽しいものである。書いている若手研究者が楽しんで書いているのがあきらかにわかるからだ。しかも、若い研究者がいくらでも出てくるから、そういうような学会誌を見ていると読んでいるこっちも楽しい。
だから無理をして、楽しくもないものを読んだり、見たりしないほうがいい。
たとえば、能である。千駄ヶ谷の国立能楽堂でつまんなそうにしている人もたまにいるが、寝ている人もいる。能楽には、精霊のパワーもあるから、寝たいときは寝てもいいと基本的に私は感じているのだが。
一番つまらないのが、能楽の解説書を見ながら席に着いている輩であろう。
解説書を見ていて、舞台を見ない。そりゃなんで?と思う。あらすじがないと理解できないというのなら、あらかじめ読んでくるべきである。
しかし、知識優先というのは能楽にふさわしいのであろうか。単純に楽しめばいいだけで、なにも格好をつけて知ったかぶりをしない方がいいとも思うのだが。
さらにその知識を周囲にまき散らさない方がいい。
迷惑なだけである。
私の好きな鬼舞でもそうだ。
知識優先で見ていると、面白くもなんともない。わくわくするようなものがないと、見る気もしない。
それでいいのである。それで。
で、考えたのが、去年の年末までに投稿しようとしたゴミ論文である。結論から言って、投稿を断念したのである。なぜか。わくわくするものがないのである。
書いてみたかったことは明確であったが、自分がわくわくしない。これは困った。いちおう15000字にはなったが、つまらないのだ。結局断念した。
面白くないからだ。書いていて。つまりオクラ入り。永久に浮上しない沈没船である。
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人と会っていてもそうだ。
会って、あ、こいつはわくわくするだけの器を持っているな、話をしたらどれだけでかい話をするだろうかと期待してしまうような人間が、たま~にいるからだ。だから、そういう人間と会うのは実に楽しい。
立場とか、地位とか、金持ちかどうか、アタマがいいか悪いかなんていうことはまったく関係ない。
器である。器。
お、なんか違うぜこいつは、というのがあるのがいいのだ。マジに。男でも女でもである。
ふざけ半分でも、人と違った生き方をしてきた人は輝いているからだ。
小説もそうだ。
義理で読んでいる小説なんか、まったくつまらん。時間の無駄である。常識だから、文学部に入っているから、クラスメイトが読まないと恥だというから・・・というようなくだらない理由で仕方なしに読んでいると、空しくなっちまう。
面白いから・・・という理由だけでいいのである。それすら感じなければ、つきあっている必要はない。
女だってそうだろう。綺麗なだけで、中身がなかったら、クチをきく必要もない。化粧と服だけしか興味のなさそうな基地外みたいなアホとかいるからだ。
男だってそうだ。中身のない男もたくさんいるからである。仕事と学歴、愛車しか自慢するもののないアホとか、いっぱいいるではないか。
そういうおめぇはどうなんだ?と聞かれたら、アタシャ逃げるしかないけどねぇ~~~。
わははっはははっははは。
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さ、今日はこれから塾がある。ボランティアみたいなもんである。
これも高望みして、経営陣に加わりたいとか考えないほうがいい。
所詮ボランティアみたいなものであるから。
では、これくらいにします。
Bye-bye