「海南小記」を読みながら、朝から降っている大雨(よその土地では大雪だ)を、心配しているのだが
「海南小記」という文章がある。柳田国男のである。実に良好な文章である。もっとも、柳田国男のファンだから、おもしろおかしく読んでいるだけなのだけど。
全旅程は以下のとおりである。
1920年(大正9)12月から翌年3月にかけてのことである。のちに出版された本にちなんで、『海南小記』の旅と呼ばれているけど。(松本三喜夫の『柳田国男と海の道』や伝記の「年譜」を参照)
12月13日 沖縄の旅に出発
12月15日 神戸から船に乗り別府へ 別府から九州東海岸を南下
12月31日 鹿児島から徒歩で佐多岬へ
1月3日 鹿児島から船に乗り沖縄に出発
1月5日 那覇に到着(途中、名瀬に停泊)
1月7日 首里で旧王家の尚家を訪ねる そのあと3泊4日で国頭地方を旅する 那覇では伊波普猷と会っていることが多かった
1月16日 鉄道馬車で糸満に
1月21日 宮古島に向かう 船で比嘉春潮と会う
1月22日 宮古島に到着 平良の町を見ただけですぐ船に
1月23日 石垣島に上陸 岩崎卓爾に会う 石垣には5日間滞在 南海岸の村々と御嶽(うたき)を訪れ、石敢当(せきがんとう)を見る
2月2日 那覇に戻ったあと島袋源一郎と斎場御嶽をめぐる
2月5日 那覇の松山小学校で「世界苦と孤島苦」と題して講演
2月7日 奄美大島の名瀬に着く 島内、加計呂麻(かけろま)島を歩く
2月15日 鹿児島に戻る 以後、各地で沖縄のことなどを講演
2月20日 外務省から国際連盟の委任統治委員会委員就任を要請する電報(24日、受諾)
3月1日 帰宅
3月から5月にかけ、朝日新聞に「海南小記」を30回にわたり掲載
私の手元にある柳田国男全集の「海南小記」は、第一巻である。冒頭、「からいも地帯」という文章から始まる。これもまたよし。
次に書かれているのが、大分県である。臼杵の町から保土島に渡り、佐伯から船になる。そして、3の「海ゆかば」の文章になる。海で死んだ人の話を聞いている。幾人もの話をである。
4の「ひじりの家」も印象深い。日向路の月夜に延岡まで車を走らせている。
なかなか沖縄に着かないのであるが、九州の東海岸にある忘れられた島々のこともまた印象深い。無人島のことが柳田国男の洗練された文章でもって書き継がれていく。
ようやく奄美大島に渡ったのが、12「國頭の土」である。13の「遠く来る神」に至ってやっと近づいてきた。沖永良部島に渡る。ようやく琉球の話が出てくる。やっとである。ずいぶん長い前置きである。もっとも、柳田国男の勝手にファンを名乗っているだけの私であるから、前置きが長いと思ってしまうのかもしれない。
ま、いいか。
ここらあたりから、「御嶽」とか「ユタ」が登場してくる。私の目が爛々と輝いてくる。(^0^)
そうなのである。
「御嶽」とか「ユタ」が、私を琉球に誘ったからである。
「御嶽」は琉球の神話の神が存在、あるいは来訪する場所であり、また祖先神を祀る場である。地域の祭祀においては中心となる施設であり、地域を守護する聖域として現在も多くの信仰を集めている。琉球の信仰では神に仕えるのは女性とされる。よって、王国時代は完全に男子禁制。現在でもその多くが一定区域までしか男性の進入を認めていないけど。7つくらいあるらしい。全部行ったことはないのだけれども。もっとも私も四回しか琉球には行っていないから。
① 安須森御嶽(あすむぃうたき):国頭村辺土
② クボウ御嶽:今帰仁村今帰仁グスク内
③ 斎場御嶽(せーふぁうたき):南城市知念
④ 薮薩御嶽(やぶさつうたき):南城市玉城
⑤ 雨つづ天つぎ御嶽(あまつづてんつぎうたき):南城市玉城、玉城グスク内
⑥ クボー御嶽(くぼーうたき):南城市知念(久高島)
⑦ 首里真玉森御嶽(しゅいまだむいうたき):首里城内
もうひとつの方の「ユタ」は、シャーマンである。
「ユタ」は、死者儀礼や死霊供養に密着した。その性格、生態、機能など多くの点で沖縄民間信仰の底辺を流れるシャーマニズムであり、沖縄の民間信仰を支える車の両輪と言える、と櫻井徳太郎は述べている。
ちなみに櫻井徳太郎先生は、おおいに参考にさせていただいた学者である。中退した大学院で。
こんなブログでその全貌を書くつもりはない。書けるだけの能力も才能もない。学力もない。文才もない。だから、ほんのさわりでしかない。
なぜか。
私の読書ノートだからだ。
ま、それもありですな。
こうやって書き込みしていると、自分の勉強になるからである。
書きながら、インプットしていくことが一番いい。
*
今日は、朝から大雨である。
九十九里浜は、あったかいから滅多に雪はふらないのであるが、よその土地では大変なんだろうなぁ。ご苦労様であります。
注意して一日過ごされたいと思う。
それでは失礼します。
Bye-bye