指導者でもないのに、指導者ズラをしているのはいかがなものか。退職したら、そんなもんは綺麗さっぱり忘れるこっちゃ!
昨日の老人大学退学騒ぎは、まだ私のこころを動揺させていたようである。なぜ退学して行ったのか、そんなに人間関係というのが面倒なものなのかという疑問があるからだ。
あらゆる組織というか、グループというものはそうなんだろうとは思う。さんざん現役時代に鍛えていただいたからである。バカバカしいくらいに。だからもうそんなくだらないことからは、卒業したいと思ってきたのだが、他人はそうではなかった。
基本的に人間というのは、人間関係というしがらみからは卒業できないものなんだろうなということである。
家族だってそうなのであろうなぁ。
離婚したりするのも、愛が冷めたとかいうのではなく、人間関係の齟齬なのだということなのだろう。不倫とか、そういう行為をしたのなら、離婚もあるだろうが。
しかし、人間関係の齟齬をきたした原因と目される当事者が、相変わらず平気の平左で居座りを続け、まったく無関心にいられるというのも問題がある。オノレのバカさに気がついていないからである。
他人を傷つけて、それでも我関せずというのは、分裂気質であろう。自分の加害性というものに気がついていないからだ。あるいは、知っていても知らないふりをしているのであろう。
人間に二面性があるというのはわかる。誰にもそう言う傾向はある。しかしである。老人大学ごときで、のぼせ上がって指導者でもないのに、指導者ズラをしているのはいかがなものか。
学校の教員でもそんなのはいない。謙虚さがあるからだ。特に私は謙虚でありたいと思って生きてきたから、誰にも前歴のことは言わない。
そういうもんだと思ってきたから。
退職したら、特に厳守していこうと思っていたからである。威張り散らしてなんになるというのだ。地位とか名誉なんて、風が吹けば吹っ飛んで行ってしまうだけである。それがわかっていたから、退職してからはまったく好々爺である。それが普通であろうと思ってきたし。
老人大学の他人が現役時代になにをしていたのかということもまったく興味がない。聞きもしない。それがマナーだろうと思う。
そんなことを聞いていたら、あんたの貯金はいくらあるんだい?と言っているのと一緒である。
そんなもんに答えるバカはいないだろうに。
だから、老人大学にもジャージで行く。あるいはフリースを着ていく。
当然であろう。
ましてや、ビジネスバックを片手にネクタイをしていたら、実にイゴコチが悪い。
普段の格好でいいのである。
気取りは良くない。
ある意味、ステータスを意識しないことがジジババの特権であるからだ。
あ、オレにステータスなんてなかったか。
わはははっははっはははっはっっっはは。
お後がよろしいようで。
さ、これから古文書講座に行く。これもまたジャージである。末席を汚しているからだ。
それでいいのである。それで。
Bye-bye