ただ淡々とひたすら淡々と頼まれごとをこなしているだけである。楽しい。実に楽しい。
頼まれごとを引き受ければ、おもしろい展開が待っている。今まで考えてもみなかったような人生が待っているからである。これは実感である。それをである。不遜にも断ってばかりいると相手にされなくなってしまう。
頼んだ方が、相手にされないとわかってしまうと、ナンダあいつ!となってしまう。声をかけたくても、かけにくくなる。当然だろう。
だからと言って言われたことを全部引き受けることもない。経済的に無理ならば断ってもいい。あるいは借金の申し込みは断るべきである。友人関係が破綻するからである。
これがボキの生き方の基本なのだ。
頼まれごとをしていながら、ひたすら流されていくのだ。目の前にある仕事を淡々と淡々とこなしていく。それでもって他人に感謝されたりしたら、こんな喜びはない。ありがたいものである。
今週はそういう頼まれごとを通して、実に充実した一週間を過ごしていた。第五番目のアルバイトである。千葉市まで出かけなくてはならないのがちょっとしょうもないが、これまた時間がたっぷりある。電車の中で過ごすことができるからである。往復3時間。中国語の勉強もしていた。帰りは寝てしまったけど(^_^)。
第五のアルバイトでよく話をする御仁もできた。専門が一緒だから、話に花が咲く。親切な御仁である。いろいろと教えてくださる。これが良いのである。
こっちが腰を低くして、教えを乞うとたいていの方は指導してくださる。事実、なんにもわからないから教えてくださいと願っているからである。こっちがである。
世の中は、そういう関係性でてきているのだ。
わからなければ聞けば良し。
メモでもとっていれば一大データベースになってしまう。だから、ありがたいのである。
それをである。
さも大物であるかのように振る舞い、威張っていたらアカン。所詮たいしたもんではないのである。ボキが特にそうだが、ボキは一介の庶民である。ゼニもなければ、カミの毛もないではないか。
わははははっはははははっはははっははははっはは。
強欲に生きていたらアカンでっせ。
世の中の全部のゼニを集めることなんかできないのだから。
たとえ集まったとしても、あの世まで持っていくことはできないではないか。
執着しないことである。
さわやかに生きていくことである。あのスーパーボランティアの尾畠春夫氏のようにさわやかに生きていくことである。尾畠氏だって、頼まれごとをしているだけであって、なんの執着もないではないか。
見習いたいことの筆頭である。
今日はこれから本日二つ目のアルバイトである塾に行く。
これまた楽しいものである。
タダひたすら流されているだけだから。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ