見返りはまったくないのだけれども、自分が生き生きとしていれば相手も変わると真実思っているから。
見返りを期待しない生き方をしているから、尾畠春夫氏が魅力的に見えるのだろう。まさに現代において、希有な方である。マスコミもそっとしておいて欲しい方でもある。ますますお元気でご活躍をしていただきたい方の一人である。
そもそもがである。相手がどうであろうと、同氏は笑顔なのではないのか。あのすてきな笑顔で被災地を回っておられるのだろう。実際の現場を見たわけではないから、何ともいえないのだが。
山口県の周防大島で4歳の男児を発見したときもそうだった。ヒーロー気取りは一切なかった。さらに、男児の祖父がお風呂にも入って欲しい、食事も一緒にと懇願したのに辞去された。
なかなかできないことである。
自分の方から笑顔であることが大事なんだと、教えていただいた。相手がどんなに不機嫌であっても、笑顔なのである。
たぶん、同氏はあいさつも誰とでもできるのであろうと思う。これまた実際の同氏を見たわけではないから、なんとも言えないのではあるが。
相手の状態なんか眼中にないのである。こういう方々は。自分の生き方が確立している。だから自己完結という言葉を使っておられたのだ。
相手の反応を待っているのでもない。ただひたすら自分があいさつをしているだけである。そういう意味で自己完結しているのだ。
こういう態度は見習いたいことである。
どんなに相手がつっけんどんであっても関係ないのだ。偉そうに威張っていても関係なし。
あいさつをしても、相手がしてくれない場合もあるだろう。それでも、関係なし。自分からひたすらあいさつをするだけだ。
ある作家の文章にあったような気がするが、こういうことである。ある大寺院のトップ(確か天竜寺の管長さんだったような気がする)が毎日のように散歩の時にあいさつをしていた。誰に対してもである。ところが、どうしてもあいさつを返さない不機嫌なじいさんがいたそうな。散歩の時に会う男性で。
管長さん、そんなことには一切かまわず、毎日毎朝あいさつをしていた。そしたら、あるとき突然くだんのじいさんがガバッとひれ伏しあいさつを返したとのことである。しかも3年もたってからである。
こういう話にボキは弱いのだ。
管長さんは誰彼の区別がない。偉いからあいさつしているのではない。同じ組織にいるからあいさつをしているのでもない。学校だって同じである。同じ学校にいるからあいさつをするのではないのである。
今月から働いている千葉市の某高校でもそうだ。あいさつが飛び交う。良いことである。しかもそれが学校経営の基本になっているようだ。好ましい学校である。
こういう学校があるのだ。
良い体験をさせてもらっている。もっとも、来年の3月までの運命しかないのだが。
今日も生き生きと過ごさせてもらおう。
NHKラジオの英会話講座も、デクティーションでもって学ぶべきだとある文庫本で教えていただいたし。実践してみようと思うから。
やることがたくさんあって楽しいもんですなぁ。見返りはまったくないのだけれども。
オシマイ。