自己嫌悪も他人との比較の上で成り立っていることでしかない。なにも悩むことはない。オノレはオノレ。他のヒトのために生きているのではないからだ。
すべてのことを「受け入れる」というのが重要だと思ってきた。反対にすべてのことを拒否していると、なかなかこの世の中を生きていくのが辛くなってしまう。
仕事の面でもいろいろとあった。出世出来ないとか、上司の受けが悪いとか、重大な失敗をしたとか経験させていただいた。今となってはアリガタイものであった。
ボキは、本来自己嫌悪の強い人間である。今でも、時々自分が嫌になることがある。これまで生きてきた時間の中で、多くの方々に迷惑をおかけしてきた。慚愧の思いである。
だからである。
さらに能力もない。今でもない。英単語なんか次から次へと忘れてしまうし。
カミの毛もない。こっちは遺伝でもある。
わはははっはははっはははっはははっはははっはは。
だから独り言のように自分を自分でバカと言ってしまうのである。すこしおかしいのではないかと長女にも言われたことがある。
それほど、自己嫌悪が強いのだ。プライドなんかまったくない。世の中でボキほどつまらない人間はいないと思っているし。
そういう意味では、若い人でいろいろと悩んでいる人にアドバイスできるのかもしれない。
自己嫌悪が強いからである。そして、そこから立ち直ったからである。
その立ち直りのコツが、「受け入れる」であった。
そもそも自己嫌悪するのは、たとえ自分がつまらない人間であったとしてもそういう自己規定を受け入れられないからである。原因はそこにあるのだ。
自分で自分をつまらない人間であるとか、悪業三昧であるとか、そういう自己規定をしているからそれを嫌悪するわけである。
だったら、全部を「受け入れる」しかない。良い点も、悪い点もである。
しかも、「自己嫌悪は天からのプレゼント」だと思えばもっと気楽になる。
嫌悪しているタイプの人間にならないようにと天が注意してくれているのだ。そう思えば良いのである。
父母の期待に応えられなかったからと言って自殺するような大学受験生も多いと聞く。一流の高校に学ぶ受験生である。父母の期待が縛っているのである。
もっとある。W大学に入りたくて、浪人を10数年続けていた人を知っている。新聞販売店にいたのだ。もう30歳を過ぎていたのにどうしてもW大学でないとアカンと言っていた。彼も、生きていたら80代になっているだろう。
つまり、W大学に合格できないという自分を「受け入れられない」のである。
ダメなときはダメ。そういう人生もあるのだ。
ダメだったら、また別の道を歩むこともできるのだ。その道すら閉ざしてしまうようでは一生浮かばれない。
自己嫌悪も比較の上で成り立っているだけのことである。比べないことである。
そんなもんで一生を振り回されたくないではないか。
オノレはオノレ。
他人のために生きているのではない。たまにふれあいがあればそれで良しとしなくちゃならない。
ボキは、そんな風にして生きてきた。だからノイローゼにはならなかったのである。風が吹いてきたら、流されて生きてきた。
淡々として生きるというボキのモットーは、そういうことなのである。
今日は朝ウオーキングに行ったら、途中から雨が降ってきた。
(*_*) マイッタ。
5000歩(Metsで)しか歩いていない。ショッピングセンターでも行って歩いてくるつもりである。
雨が降ってきたのも「受け入れる」しかないからなぁ~~~。天気のことまで、オノレの思うとおりになるわけがないからだ。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ