楽しいから疲れない。目の前にある仕事を楽しくやっているからである。
「夢や希望を持って努力せよ」とか「他人を蹴落としても這い上がれ」とか「受験競争に勝つことだけが人生のシアワセだ」とか、まぁまぁいろんなことを言われてきた。そうやってジジイになってみて、これはちょっと違ったのではないのかと思うことしきりである。
特に、夢や希望を持って・・・という部分にはかなりの違和感を感じる。
なぜなら、夢や希望というのは、目の前にないからである。事実、目の前に存在しないから夢となり希望となる。
高級な外車もボキの目の前にはない。
豪壮な宮殿のような大邸宅に住んでいるわけでもない。
誰をも圧倒するようなチョーブランド高学歴もない
なんも欲しくないし、これからはひたすら年金暮らしだから、希望もない。あるわけない。希望なんかとは縁遠しである。それで良いのだ。
そんな程度の夢や希望を持っていると、永久に渇望感でもって悩まされるではないか。
くだらない夢や希望を持っていると、「あれも欲しい、これも欲しい」「あれも足りない、これも足りない」と、足りないもののオンパレードに陥る。そいつはかなり寂しいことである。
自分がなにをしたいのか、どうなりたいのかという自問自答ばかりしているのも、だいぶ危険である。少し離れてみるのも良しである。
価値観を変更してみるのである。これまで、いろんな方々から教育されてきた。特に母親からの影響が大きい。まるで母親の期待どおりに生きてきたような気がする方々は、かなりいるのではないのか。
親が、子どもを思い通りにしたいからである。子どものことはそっちのけ。影響力を及ぼして喜んでいるという構図がかなりある。
だから自立できないのである。子どもがである。自分で生きていけないのだ。自分で考えないから、夢も希望も母親から伝達という名の押しつけをされてそれを自分のモットーにしてしまうのだ。
そしてそれに気がついていないのがいるのだ。
気がついた男女は、強くなる。強く生きていくことができる。そういう男女は、楽しい人が多い。当たり前である。自分で生きているからである。楽しさを自分で見つけて、それなりの努力をしている。
したがって、経済生活もけっしておろそかにしない。銭を馬鹿にしちゃアカン。
聖人気取りで、霞を喰って生きていくから、銭が欲しい人は馬鹿であるとか、純粋ではないと思っている人はちょっと改めた方がいい。
夢や希望やシアワセを追い求めている人は、「自分は楽しいことをやっているのだろうか?」と問うてみたらいい。楽しければ問題なしである。
さ、これからボキは夜のバイトに行く。塾である。千葉市の高校で授業をやってきたから普通は疲れるのであろうが、疲れない。なぜか。それは楽しいからである。
(^o^)/~~~