波瀾万丈よりも、毎日がなにごともなく普通に淡々と過ぎていくことがありがたい。居住地の神社でもお礼を言うだけでお願い事はしたことがないし。宝くじも当たったこともないし(^_^)。
仕事をしている時代には、毎日が同じことの繰り返しでつまらないとも思っていた。しかし、あるときからかなり変化した。やることが大変化した。学校をよみがえらせるために粉骨砕身努力した。この時期が実に楽しかった。成果も出た。
しかし、だからと言ってそれがなんになろうか。自慢して言っているのではない。
なにも起きない、変化しない、一見つまらない日常であっても良いのだと最近は思っている。
淡々として生きている、あるいは淡々と過ぎていく今のこの瞬間が幸せの本質なのではないだろうか。
波瀾万丈という生き方がある。そういう名前のテレビ番組もある。しかし、波瀾万丈というのは周囲から見たらそう見えるだけであって、波瀾万丈の生き方をしているご当人は自覚がないのだろうと想像している。
生きているただ今が、すべてであって、なにもオノレの生き方が波瀾万丈だとは思っていないからである。
ボキだって、新聞配達しながら苦学したことを従兄弟たちに波瀾万丈だと言われたことがある。従兄弟たちにすら、ボキの生き方は普通じゃないと受け止められていたのであった。本にしてみないかとも言われてしまったが、それはいくらなんでもできない。才能がない。やる気もない。
なにも事件が起きず、毎日普通の生き方をしていることがありがたいのである。天からの最高のプレゼントだと思っているのだ。朝、目が覚めたことも奇跡である。本当なら、昨夜のうちに死んでいたのかもしれないからである。
そして、やおらウオーキングに出かける。朝日が上ってきたら最高である。パワーが伝わってくる。今朝もすでにMetsで5000歩は突破した。しかも早歩きである。おかげで、血糖値も正常で、糖尿病の薬ともオサラバしてもう二年になる。
なにかが起きてくれたら最高なんだけど、という言い方は危険である。幸せというのがあっちから来てくれると思っているからである。幸せというのは、来てくれるものではない。むろん、こっちから迎えにいくものでもない。
今、現在がすでに幸せなのである。本来、幸せなのである。手かせ・足かせから自由になっていることが、幸せというものである。
水前寺清子さんの歌に「幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだね」というような歌があったような気がする。でも、ボキは、この歌は、ちょっと違うような気がするのだ。努力が前提にあるのだろうけど、努力しても精一杯努力しても駄目だったらどうするのか。
そうじゃないような気がする。
失敗しても挫折しても受け止め方次第なのである。
今のこの瞬間を大切にしていれば、道は開けるような気がするのだ。
今朝のウオーキングで毎朝寄ってくる神社がある。家人の女子校時代のクラスメイトが神主をしている神社である。拝殿にむかって、作法通りにお辞儀して「ありがとうこざいます」とお礼を言ってきた。ちなみに、ボキはお願いごとを一切しない。病気治癒もお願いしない。宝くじが当たりますようにともお願いしない。100歳過ぎまで生きられますようにともお願いしない。
ここから先は神様こそ知るである。
わはははっはははっははっはははっははっはははっははは。
(^_^)ノ””””