と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

寺内貫太郎一家 '98 秋 SP( てらかん )

2018年09月24日 21時08分04秒 | とーま君の流儀2018

樹木希林さんを偲ぶ。。。。。。。。

名女優でしたなぁ。

 

 

 

寺内貫太郎一家 '98 秋 SP( てらかん )

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側にいてくれるだけで良い・・・歌詞がいいのだなぁ~~~~と思うから。

2018年09月24日 08時15分12秒 | とーま君の流儀2018

側にい~~てくれるだけで良いという演歌があったなぁ。あれですよ、あれ。フランク永井の「おまえに」。すてきな演歌でありまする。

 

 

遠藤周作の本で、イエスはなにをした人かというような文章があったと記憶している。その答えは、ただ側にいてくれた方であったというような記述があった。これはなるほどであった。

イエスだけではない。看護師の方々もそうだ。側にいてくださるだけでもありがたい。実に癒やされる。エコノミークラス症候群で入院したときに、ちょっとだけ車いす生活をしていたが、あの時もありがたかった。優しい若い女性看護師で、ほんとうに感謝した。どこに行くのにも車いすを押してくださった。四方山のハナシをさせていただきながら、ボキはありがとうございますと何度も申し上げた。

こんな汚いジジイの面倒を見てくださるのであった。感謝である。こころからの感謝である。この体験は、現在、別の某大学で看護学部の大学生たちに教えている。尊い仕事だと思っているからである。

天使のような方というのは実際におられたからである。

ボキが車いすになったのは、動けるのに動かしてくれなかったからである。立って歩けたのである。病室でタメしたから、間違いない(^_^)。

とんでもない患者であった。ま、そのおかげで今がある。元気で過ごしている。ただし、人生観が変わった。教えていない方の某大学大学院で博士を目指していたのも完全に挫折した。中退をした。

だからここら辺が、ボキの人生折り返し点であったのだ。

そして思った。側にそっと付き添ってくださる方がいるということに気がつかなくてはならない、と。

家人である。古女房殿である。どっちが早くあの世に逝くかはわからない。しかし、それまでは共に生きていかなくちゃならない。大事にしたいことの一つである。

 

樹木希林さんが亡くなった。

このご夫婦もかなり珍妙な夫婦であったと知った。なにしろ共同生活をしていない。いないが、こころの底ではつながっていたのではないのか。周囲の方々から伝わってくる情報でしか知らないけれども。

だから実際に共同生活をしているか、いないかということではない。心的状態として側にいてくれているかということである。側にいても、離れているという心理状態ではアカンのだ。

「仁」という漢字がある。

これは側にいてくれる人間のことを指す。仁は、人と人とが支え合っている意味を持つ。これをいつも念じて生活することである。だから、仁を実践している方は人徳があるとなる。

ボキじゃあとても無理である。人格者のかけらもない。人徳もない。

だいいち、そんな人間ではない。悪行三昧で生きてきたからだ。反省しかない。

しかし、人生の考え方として仁を基盤にしていると、良いこともあるのだ。

損得勘定でもよろしいのである。

仁を基盤にしていると、良いこともあると思っていればまさに良いこともあるのだ。

 

今日は、祭日である。毎日が日曜日のボキには、どうでも良いような話である。孫のところにでも行ってくるか。あ、昨日も一緒に過ごしていたっけ。剣道のライオンズ大会があって、孫のパパが審判をしていたから一緒に見学しに行ったのだった。孫は周囲がパチパチと拍手しているのでまねをしていた。かわゆいものである。手が痛くなっただろうけど(^_^)。

(。・_・)ノ

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9月23日(日)のつぶやき

2018年09月24日 06時28分27秒 | とーま君の流儀2018
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/