母心の大切さは、古来変わっていないのである。思いやりの心で子育てをすべきである。とりわけ男の子は、母親の存在がでかいと思うから。
母親が「思いやりの心」を持って子育てすることによって、いい子供が育つ。ということを何かの本で読んだが、然りである。まさにこのとおりである。
ともすると、母親というのは、子供を「自分の思うとおりにしたい」という欲求にかられる。それが母親としての愛情だと錯覚する。そりゃそうだろう。自分の腹を痛めて出産したからである。自分の所有物だと思っているだろう。だから、子供に対して要求度が上がる。厳しく接してしまう。
そして、途中で子供の反抗にあって挫折する。
一流大学に入れれば、我が子は生涯仕合せだろうと思う。それはそれで反面当たっているから一概に否定はできない。それもまた母親としてのありがたい側面でもあるからだ。
しかし、だからと言って無制限に厳しくしてもよいというものではないだろう。自分の人生が失敗したからせめて我が子には成功してほしいというのはよくわかる。でも、だからと言って我が価値観を押しつけるのはいかがなものか。
我が子をコントロールしたいという我欲の現れなのである。
子供にしてみればおおいに迷惑である。
母親からの独立が妨げられるというものである。いつまでもかまっていることはないのである。
ほっとけば子供は育つ。
特に女の子はとりわけ丈夫に育つ。このあたりは、女性陣特有のたくましさである。
我が孫たちを見ていても、女児はたくましい。生命力にあふれている。健康的でもある。弱弱しさがない。だから女は怖いのである。たくましいからである。
よく言われることで、女性は繊細で、風が吹けばなよなよとしているというのは、ありゃ嘘である。
後天的に学習した結果、生きるための方法・手段として女はそういう能力を得たのである。
つまり、男女差別があったから、女性は我が身を守るために弱いようなふりをしてきたのである。男は戦争、女は家庭にあるべしという文化があったからである。ある意味、生きていけないのであれば、そりゃ当然の行為であったろう。
しかし、女はたくましいのである。なんといっても、出産できるのだから。男は絶対耐えられないであろう。
生物学的にも女性優位である。男は、付け足しで生まれてきたようなものである。そもそもが不要なのである。動物界でもそうではないか。一人の雄がいれば事足りるのである。ライオンだって、雄が一頭いれば、群れは維持できるというではないか。選択権は雌のほうにある。選ばれなかった雄は、ずっと孤独のままである。
ある意味人間界と一緒である。否、人間のほうが、動物界から発展してきたのだから、女性上位は古来からの文化であったのだ。
今日も千葉市にいた。午後3時41分の電車で居住地まで帰ってきた。充実している。これまたアルバイトをやってきたのであるが、良いものである。選択権がこちらにあって、アルバイトを選んでいるからである。自主性と言い換えてもいいのかもしれない。
記事のアップが遅くなってしまったのは、そういう理由による。
さ、もう寝よう。
明日も生きて目が覚めることを願いつつ。
(笑)