と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

HP雑考

2012年09月10日 09時57分51秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 ブログのアクセス数というのがあって、その推移も楽しみである。しかし、あまりそれにこだわるとよくない。学校のHPで、そのアクセス数を気にされる方も多く、一喜一憂されている学校も多い。ほほえましい限りである。中には、アクセス数を自慢される方もおられて、これまたほほえましい。

 そんなことから書き始めたのは、ちょっと記事の更新を怠ると即座にアクセス数に影響があるからである。おもしろいほどである。愚生のやっているブログにもう一つあって、柔道教室の広報用である。そちらは逆にあまり更新しない。ほとんどやっていない。ま、入門されてくる方があればいいというくらいの気楽にやっていることであるから、あまりマメに更新していると、勝敗結果を出さなくてはならなくなる。それは本来の趣旨に反する。勝負だけを扱うと、いたいけな少年少女を成果主義に導くことになってしまう。それは本来の目的ではないからである。

 だから、指導者として書いているのではない。勝手に応援しているというだけである。不思議なじじいが書いているというスタンスをとっているのである。

 それでいいだろう、それで。

 今日取り上げたいのは、動画である。学校の広報用に動画を活用して、学校の様子を知らせるのは実に効果的であったからである。情報公開として最適であった。それも授業を公開していくことである。県立銚子の先生方には本当に感謝している。先生方にご協力いただいて、どしどし授業を公開していったのだった。まだまだこの面では学校の公式HPは、発展途上であろう。

 学校の広報用HPというのは、情報が多すぎてなにから見たらよいのかわかりにくい。HP内の検索ができればいいだろうと思う関係者も多いだろうが、まったく様子がわからない人間には若干の不親切を感じる。どこへどう行ったらよいかわからないからである。作っているご自分はよくわかっているのだろうけれども。

 これは最近流行のパワーポイントもそうだろう。ごちゃごちゃと情報過多では、見る気がしなくなってしまう。ポイントを押さえていかなくてはならん。
 
 昨日、Youtubeやニコニコ動画を録画できるソフトを買ってきて、茅屋のパソコンにインストールした。早速、昨日の晩から、能楽研究で有名である「表 章先生」の法政大学の時の特別講義を録画してみた。非常にいい。都合6時間くらい分割してアップしてくださているから、これから私的に繰り返しみて、ノートをとるつもりである。DVDにもしたので、大学にも持参できる。

 司馬遼太郎のNHKスペシャル「空海の風景」も7回分録画できた。よかった。これもまた場所を問わず、視聴できる。

 そこで、思ったのが、こういう動画サイトって、大きなデータベースであるということだ。これを活用しない手はない。ただ見ているだけではもったいない。いろいろな場所で視聴して、メモをノートにして、暗記していくことである。

 どうしてこんないいことに早く気がつかなかったのだろうか。

 参ったね。参った。愚生には、固定観念がある。だから新しいことにチャレンジしていこうとしないのだった。書物からだけが勉強だと思っているところがあるからである。

 改めなくちゃならんですなぁ。

 もっともこんなのコンピュータに詳しい方なら、だれでもやっているんだろうけど。あ、愚生の場合、ちょっと検索用語が特殊であるから、無料版のYoutubeからのダウンロードソフトでは、なかなかひっかけてくれなくて、実は困っていたのである。

 しかし、法政大学もそうだけど、いろいろな学校でインターネット上に公開してくださる情報がある。実に勉強になる。ありがたいものである。本当に。

 そのトップにいるのが放送大学である。愚生はここの大学院にも選科生で在籍させていただいたので、そのありがたみはよくわかっている。むろんここは仕事をしながら学ぶのである。社会人には非常にありがたい大学である。しかも、インターネットを実に効果的に使っている。試験も多くあって、単位認定試験は幕張まで出かける。筆記試験であった。けっこうハードでありましたなぁ。おもしろかったけど。

 生涯学習というのは、ぼ~っとやっているだけでいいというようなものでもない。しかし、したたかな打算の上にあるものでもない。興味と関心だけである。ただし、いつも思っているのは大学やそういう学びの場でじゃまをしないことであろう。理解してくださる方々も多くはなったが、まだ不思議な生き物を見るように邪険にする方もおられるからである。理想と実践の違いであろう。なんでそんなところに行っているんだ?と直接いわれると、ひらすら笑うしかないからである。

 



 謙虚に生きるしかないようである。










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柔道昇級試験でした

2012年09月08日 13時56分37秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 今日は、柔道の昇級試験があった。

 いつも稽古させていただいている我が柔道教室の道場であったから、午前中から出かけた。せめてこれくらいはやらないといかん。最近は、ただ自分の練習をしているだけだからなぁ。

 武道というのは、身体論的に実にいいものである。なぜか。相手がいるからである。相手との丁々発止から得るものは大きいのである。これを孤独なままやっていたら、想像つくだろうが、面白くもなんもないのである。当たり前である。相手のチカラを利用したり、押したり、引いたりしてバランスを考えていくわけである。これを政治に応用して考えると実にわかりやすい。似たようなことを、霞ヶ関でもやっておられるではないか。(^0^)

 得意技が昔に戻っている。体落としという、タイミングの必要な技ができるようになってきた。20代、30代の時は、力任せのパワー柔道で大外刈りなんかをやっていた。それが、昔に戻りつつある。

 これはありがたいものである。つまり、スリムになったからできるようになったのである。バランスである。愚生の身体的なバランスが、スリムになったことで「ええ案配」になってきたということである。

 「ええ案配」っていうのは、実にいいことである。そっちでもいい、こっちでもいいというような、表面的にはデタラメにみえるかもしれないことが、実はバランスをよく考えた巧妙な手法であったということにもつながるからである。

 家を建てる時も、この「ええ案配」って大事なような気がする。バランスである。極端な西洋風、あまりにも前時代的な和風とかいろいろある。ま、個人の趣味でお好きなようにと申し上げるしかないけど。あんまり言っていると、好きなようにさせてくれと叱られますな。

 これは愚生の勝手な建築観であるから、読み飛ばしていただいていい。

 実は、母方の祖父の弟がこれであった。極端な西洋崇拝で、あんな田舎で洋館を建てて一人で趣味人ぶっていたのだった。かわいがってくれたから、愚生は好きで毎週のように出かけた。隣の町に住んでいたのだ。昭和35年の前後にいろいろなんとか口実をみつけては、この洋館に行っていた。自家用車が珍しかった時代に、独製のカブトムシみたいなクルマでかっ飛ばしていて、妙なヒトであったのだ。時々連れて行かれたのが、友人のドイツ人夫妻のところ。なんだか怖かったけれど、珍しいもの見たさに一緒にクルマに乗っていた。パンがおいしくて、それを食べさていただくのも好きだったのだけれども。食欲優先であったのかな・・・。

 話はあちこち飛ぶが、(いつもそうだ・・・・とほほ)上山春平先生という学者がおられる。京都大学の哲学系の大学者である。その先生の本で、大学時代にいわゆるノイローゼになって、三度死にっぱぐれたことを読んだことがある。ずっと気にしていたのだが、一昨日大学の図書館から借りた「空海」(上山春平著 朝日選書 1992)に、詳しく書いてあった。そのへんのいきさつが。あの大碩学にして、このような苦悩があったのかと暗鬱たる思いでいたのだった。院生室でずっと拝読していた。こころに残った表現もあって、いくつかコピーをしながら、ノートを作っていた。この先生には仏教系の著書を読ませていただいて、本当にすばらしい大学者であると思っていたのである。それはそれで間違いはなかったと思う。

 しかしである。上山春平先生でも心身のバランスを崩されたことがあったのである。自殺未遂をされたとその朝日選書には書いてあったのである。初めて知った。温厚篤実そのものの先生にもそういう蹉跌があったということに驚いた。

 上山先生は、その苦悩を空海によって救済されたとのことであった。天下の大秀才ですら、いろいろとあるのである。否、大秀才であるからこそ苦しみも大きいのであろうか。その点、愚生は仕合わせであることよ。大凡才であるからである。こんなに仕合わせなことはない。まったく。おめでたいかぎりである。還暦になって、まだ他人に教えていただいているんだから。(^0^)

 もしかしたら、上山先生は、「ええ案配」ができなかったのではなかろうかとふと思ったのである。自分に厳格であられたのであろうか。そういう傾向を持っていないと、学者にはなれないのだろうなぁと思いつつ、先生の本を読んでいたのである。空海の伝記資料をA群、B群にわけて実に緻密な文献学的検討をされていた。すばらしいものである。こういう方が、学者というべきものであろうと思った。

 ええ加減とは全く反対側におられる。ええ案配とええ加減とはまったく違うが。 だからこそ、これで良かったのかもしれない、愚生如きが、と思ったのである。

 

 今日は塾がある。夜だからつかの間の駄文打ち。一週間に2コマしかやっていないんだから、これまた何をやっているんだろうかと思うことがある。ま、致し方なし。しょせんそんな程度である。



 それではまた!

 

 

 

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真夜中ですが

2012年09月07日 00時01分04秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 昨日は塾のある日であるから、大学に行かなかった。ちょっと体力的に辛いものがあるからである。夜、ちょこっとやっているだけのまるっきりボランティアみたいなモンである。ま、そのことはあまり詳しくは書けない。当然である。アルバイト社員だからである。

 そして思ったのは、茅屋の近くにある農業高校の野球部のことである。愚生は、この高校で教務主任というのをさせていただいていた。さらに、柔道部の顧問もさせていただいていた。夕方まで生徒と稽古して、柔道着を着たまま職員室に戻って、それから教務主任の仕事を夜の九時ころまでやっていたのだった。懐かしい思い出のあるいい学校である。同じ市内の中学校の教師も長いことさせていただいたし、市の教育委員会で映像関係の仕事もさせていただいたから、こころの底から懐かしいのである。

 で、野球部である。愚生が教務主任をやっていたころは、こんなに練習をしていなかったのである。そして弱小チームであったのだ。野球場も草が生えていたのだった。ところがである。今は、全く違うのである。毎日、毎日よく練習をしている。今年の炎天下でも動じないのである。凄い!グランドには雑草の一本も生えていないのだ。

 この地区でも強豪校になったと聞いたことがある。すばらしいことである。校長の学校経営もすばらしいが、野球部の監督・部長にも人材を得たということであろう。組織の活性化というのは、いかに人物を得るかということにつきるからである。政治家だってそうではないか。人物を得ないといかんのである。ま、政治の話はクワバラ・クワバラであるからこれくらいにしておこう。

 一昨日、その学校の正門の前を歩いていた。そしたら、その学校の先生が正門の前に立っておられて、見つかってしまった。駅に行こうと歩いていたのである。大学に行こうとしていたのである。お世話になった恩人大先生である。やぁこんにちわ!と声をかけたら「どこへ行くんですかい?」とのたもう。

 しょうが無いから、正直に告白したんである。笑われるのは覚悟の上である。案の定、いろいろと問答があった。まさか、教わりに行っているとは思ってもみなかったとのたもうたのである。

 いつまでもご苦労なこった。オレってほんとうに変わっているんだろうなぁ。あははである。でも、修士をとった武蔵野大学にはもっと上がいたんだ。86歳の修士の同級生、15の学位と4つの大学院で学んでいるバンク系のエリート。いろいろな方がいたんである。けっしてオレだけがとは思っていないのだ。

 佐藤優せんせは、自分だけで読書生活をしていればいいではないかとある書籍で書かれていたが、それは佐藤優せんせのような方なら可能であろう。4万冊の蔵書を所有して、書斎マンションを借りておられるんだから。そういえば、オレの同級生のT女子大教授も書斎マンションを所有していたっけなぁ。それくらいでないと、人文科学系での実績は積めないんだろうと思うのである。

 それにしてもやればやるほど、凄い世界に足を踏み入れてしまったもんであると思う。到底、オレごときのアタマじゃぁ・・・とほほと毎日言っている。概論的な知識では勝負にならんからである。本当に万巻の書物を読破した上で、論文を書かなくてはならんのである。さらに英語の試験もある。

 それでもオレは鬱にならないのだ。これがオレのいいところだなぁ。(^0^)

 ある意味、絶望ばかりの人生を送ってきたから、耐性はあるのかもしれないのだ。柔道も弱かったし。弱かったから、負けるヒトの思いを考えることができるようになったしねぇ。

 そろそろ来年のことを考えなくてはならない。何をしているんだろうか。まったくわからんけど。そんなことは、一昨日聞いておくれと注意されてしまうかもしれない。それほど、世間はめまぐるしく展開しているのだ。そういふ世界をいかに生きるかということは、非常に大切なことでもある。

 さっき、「空海の風景」を風呂場で読んでいたら、家人に注意された。寝ていると思ったらしい。当然である。真夜中であるから。ソンな時間まで風呂に入って読書していたら、迷惑をおかけしてしまうのである。家族にも。でも、やめられないんだなぁ。

 普段、ジムに夜はいるから、家の風呂には殆ど入らないのだ。家の風呂では読書タイムと決めているからである。風呂で読書はしない方が目のためにはいいんだけれど。あ、ジムにはサウナもあるし、温泉もあるんで。
 
 さぁ、今は真夜中であるけれど、夜が明けたら、まっさきに大学に行く用意をしようっと。読書しないと、学費が無駄になる。そういふこと、そういふことである。

 じゃぁ・・・・・ 
 
 

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禁欲と修行

2012年09月06日 09時17分20秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 窮屈な仕事ばかりやってきたのだなぁと思っている。公務員だから、信用失墜行為は厳格に禁じられていたから、それは当然やらない。やったら生活の糧を失ってしまう。否、そんなことを問題にしているのではなく、なんだか美味いモノを食いたいというような基本的な食欲まで禁じられてしまったような錯覚に陥っていたのではないかと思うからである。まるっきり「宦官」であったなぁと自嘲している。
 
 要するに「萎縮」させられていたのだと思うのである。これだけ教育界が叩かれては、教育公務員は萎縮せざるを得ないであろうと同情してしまう。外から見ていたら、なるほど教育界は叩きやすいだろう。やったことの正否を評論家せんせサマのごとく、あれこれあげつらうことは容易いことである。他者の行為を評論するなんてことは、たいした能力がなくってもダレでもできることだからである。そんなことをおっしゃるけれど、そういうおまえサマはいかがなものでありましょうや?って言われたらどうするのかねぇ。他人の悪口ばかり言ってそれで食っているヒトは。まさか、ヒトをクッテ生きてますってなことは言わないでしょうけれども。

 愚生だって、自称大論文を評することができる。自分が書いていないからである。さらに、学者せんせの評価まで勝手にできるんである。当たり前である。自分と関係ナイからである。勝手に、ブツブツつぶやいていればいいだけだ。それに、オレの場合はこれからの人生展望がなんにも開けていないから、好き勝手に勉強していればいいだけの話だ。ごまをする必要もないしねぇ。もっともこれまでもそういうごまを持っていなかったからなぁ。

 それでも世間様には謙虚に接している。ご指導をいただいたら謙虚にお聞きしている。指導するのが仕事のヒトには、その指導の内容について逆襲したらいかんのである。たいした根拠も無く成立した普遍的真理と称するモノを否定されたら、それで食っているヒトは立つ瀬が無いではないか。いかんぞな。そんなことをしたら。泣きわめかれる。それが生きがいなんだろうから、ね。(^0^)

 昨日、ブッダのことを書いた。「禁欲と修行」。要するに愚生にはできない相談だ。当たり前である。庶民だからである。しかも最低レベルだし。愚生なんか。そのことを考えていたら、禁欲と修行は教育界にも要求されているんだと気がついたのである。学校の先生たちは、僧侶と一緒であったのかとはたと気がついたのである。そうか、そうか、それならわかる。つまり、そういう水準のことを他者から要求されていたのである。他者にはできないから、である。要求するのは自分にできないから要求するわけである。

 今の愚生と一緒では無いか。自分にできないことを、禁欲と修行集団に要求をするわけである。それならダレにでもできる。前振りを「オレにはできないけど」とやって「だからアンタ、やってちょう~だい」って懇願しているようなもんである。

 なんか一番重要な視点を喪っているような気がしてならない。つまり、全部他人にやってもらうという姿勢しか見えてこないからである。なんでもかんでも他者の責任、誰かが悪くて、政府も悪い、社会も悪い、そしてこれが一番重要なんだが、自分はイケメン系(美人の)正義の味方だという論理である。おかしいねぇ。笑ってしまいますな。

 なんだか、知識と行動がちぐはぐというか、メチャクチャというか、バランスを欠いているというかそんな気がしておるのだ。ブッダと空海の関係だって、ブッダが顕教、空海が密教である。知識と行動の関係にある。こんなところに持ち出して欲しくない方もおられているだろうとは思うが、ホントに、愚生は知と行動ということを考えざるを得ないからである。ある意味道徳教育の「知と実践のズレ」ということとも関係してくるのだけれども。

 あ、「知と実践のズレ」って知っておるヒトは、知っておるだろうけれど。これって、道徳教育の最高の観念ですなぁ。詳しくはまた別の機会に書いてみたいケド。要するにズレているから行動が問題にされるわけですよ。ホントに。だから僧侶並みに厳しいことを言われるわけである。

 



 今日は、これから県立図書館に行く。今日は塾でアルバイトだ。夜。夏ばてになっているから、学校はお休みである。あまりにもハードだ。還暦のじぃさまがやるこっちゃない。たまには、お休みもしないと健康に良くない。と、言いつつ図書館に行くのだから、やっていることはあんまり変わらない。

 ポメラという機械に、昨日まで書いていた駄文を「秀丸」というエディターに落として、さらにそれをポメラに保存してでかける。あそこも本学の図書館に負けず劣らずいい図書館である。冷房もきいちょるし。なんてったって、40年近くも冷房無しでやってきたからなぁ。学校の教員時代は。最後の県立銚子高校の時だって、校長室に冷房はござんせんでしたからねぇ。まったく「禁欲と修行」を地でいっちまったですな。世間の方は知らないだろうけれど。

 県立図書館ではちょっと古典にあたる。書いた文章の根拠を調べて続編を書かなくてはならん。楽しいもんである。実に楽しい。こんなの書いたってダレも読んでくんないってぇのが、オレらしくっていい。(^0^)

 



 では、行ってきまぁす。


 

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昼ご飯を食べるのも忘れて

2012年09月05日 20時28分28秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 いろいろな意味で誤解をしていたのが、ブッダである。民俗学的にずっと周辺部分から追求してきたが、かなり愚生はこの方を誤解していた。インド思想的には、何人かいる哲人の一人であろうし、信仰として彼を意識していないので、分析的に読む習性がついていたからである。それはそれでいいんだろうと思っている。あくまで分析的に接しているのだから。もっとも熱狂的な信者からは叱られてしまうのは覚悟の上である。

 確かに彼が説いたところの、いろいろな苦しみからの解脱という観点からは、窮屈な印象を持ってしまう。そしてなかなか愚生のような凡人にはできない相談ばかりである。だから易行と言われる宗派も出てきたのであろうと思っている。全てを縁起説で説くのは、非常に魅力的であるから、それはそれでいい。問題は、解脱できないでうろうろしている愚生のような一般ピープルをどうするかである。

 今日は、大震災の時に鴨長明がどう考えたかということをずっと書いていた。彼も大震災を経験しているからである。

 院生室に個人としてTabletを持ちこんで最初はすらすらと書いていたのである。だいたい資料についてはわかっているから、ノートを見ながら打鍵していた。ちなみに、このTabletは便利である。キーボードがコードでつながっていないから、ちょっと離しても書けるのだ。膝の上でもOKである。なんて言ったけかな?あ、Bluetoothとかいうのだったかな。最初トラブルがあって、なかなか使えない機能だったけど、なんどかやっているうちにできるようになって、重宝しているけど。

 ところがである。長明の宗教的な役割という視点から書いていたら、あ、ちょっと待てよとなってしまった。これは今週中には、ある方にメールで送るものであるから、デタラメは書けない。それでそこでストップしてしまったのである。

 で、冒頭の仏陀のことになってしまったのである。修士の時は、いろいろと勉強させていただいたから資料も結構持っている。それで、考えこんでしまった。つまり顕教としての仏陀教という観点からしか見ていなかったことに気がついたからである。最近、空海を勉強していて、視点が違っているのにちょっと不安になったからである。

 空海は明るい。欲望も否定しない。あるいは、煩悩とか空虚さからも自由自在である。さらに、山岳修験道で選択したのは、どこまでも明るい四国の地であった。故郷だからということもあるだろう。

 司馬遼太郎の「空海の風景」という中公文庫がある。これも105円で買っていて、読んでいなかった文庫である。否、ちょっと読んだのだが、その時点では愚生の問題意識があまりにも低かった。つまらんから捨てておいたのである。空海について興味が無いと、いかに司馬遼太郎さんと言えども、読者を引き込むことは不可能である。司馬さんの他の小説のように、伝記文学みたいな傾向も全くないのが「空海の風景」であるからだ。この文庫に「龍馬がゆく」を想定されたらがっかりする。全く違うからである。実際、愚生はこの「空海の風景」はまったく面白くなかったからである。これまでは、である。司馬ファンであるから余計にそう思ったのかもしれないが。

 怖いものである。それほど自分のよってきたるところの問題意識というものは、自分に影響をするのである。

 この「空海の風景」は、司馬さんによって書かれた空海論であると思う。それほど、司馬さんらしくないのである。まるで論文を拝読しているような気分になる。もっとも、かなり柔らかい小説風の論文、あるいはエッセーというものであろうか。

 NHKスペシャル「空海の風景」も見た。かなり以前のものであった。Youtubeにあった。分散してあったが、二時間近い。もっとも、この夏に高野山に実際に行っているからという体験上のものも大きい。高野山は二度目であったが、問題意識を持って行くのと、そうでないのとではまったく違う印象であった。

 それにしても顕教と密教の相違点に気がついたということは、これからの愚生にとっては大きい課題である。これまでもインド思想を中心として、模索ばかりしてきた。素人ながら、知らないことばかりであった。これからもっと勉強をしていかなくてはならないことばかりである。だから、くだらない駄文を書いて喜んでいる場合ではなかろう?って言われてしまうのである。すっこんでオレ!というわけだ。(^0^)

 でもすっこんでいたら、理解ができなくなる。愚生は書きながら勉強しているんだから。都合のいい凡才である。(もっとも、このBLOGは日記ですからなぁ・・)

 そんなわけで、昼ご飯を食べるのも忘れて没頭していた。あっと気がついたのが2時頃であった。急いで学食に行った。そして、例のミニ丼をいただきたいのですがと申し上げたら、売り切れごめん。天ぷらソバをいただいた。300円なり。おいしかった。食堂の片隅で、ひっそりと食べていた。そしたら、県立銚子の卒業生(看護学部一年)からお声をかけていただいた。お久しぶりです!ということであった。元気に過ごしておられる。安心した。すっかり大学生らしくなってきた。ある意味感心したのである。こんなつまらない愚生にもお声をかけてくださることに感謝である。人間嫌いでは看護師という尊い仕事はできない。そして、こういふ優しい心根の看護師さんに、お世話になるときはお世話になりたいものであると思った。できるだけ先がいいが。具合が悪くなるのは。憎まれっ子世に憚るではないが、まだまだ愚生は元気で生きられるような気がするから、そんな機会は来ないであろうし、来て欲しくないんだケド。(^0^)

 もっとも、卒業生看護師ではかえってこちらが恐縮しちゃうかな。居住地にある大病院にもたくさんかつての生徒さんが働いておられる。偶然出会うとほんとうに恐縮しちゃう。こまっちゃうなという心境である。

 世迷い言ばっかり書いているから、世間が狭くなるばかりである。そろそろ世間一般なみに、おとなしくしていればいいものをとは思う。思うだけで、一切行動にむすびつかないのが、愚生の最大の欠点である。


 わかっちゃいるんだけどねぇ。 

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根底に明るさがないと

2012年09月04日 23時40分09秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 毎日暑い日が続きます。高校以下の学校在校生諸君も頑張っておられるんでしょうねぇ。まったくまったく大変であります。もっとも、それが仕事と言えば仕事。学生は学ぶことが一番大切でありますから致し方なし。

 愚生も今日は院生室を抜け出して、図書館に。今日は留学生の学生、院生(修士)の卒業式でしたから、院生室にいたらいろいろ邪魔になるだろうと思って図書館で、作業。能楽源流考という15センチはある暑いじゃなくて厚い本をじっくりと読んでおりました。基本書ですから、やるっきゃないんです。原文が難解でたまりませんが、家でコピーしたのをノートに切り貼りして漢文を読解作業。これまで学校の管理職で学問活動のこういう作業を怠っていたから、難行苦行。
 
 道遠しでありますなぁ。どこまで続くぞ茨の道。

 今日は早くから大学にいたので、帰りは三時台の電車にしました。求名駅で電車を待っていたら、妙齢のお嬢様とご両親とおぼしき3人がベンチに座っている愚生のワキに。ああ、良い風景だなぁと思っていました。卒業式(修了式)に出席されたのでありましょう。会話が聞こえてきます。日本語ではありませんでした。遠い国からお嬢さまの卒業式か修士の修了式に来られたのでありましょう。たいしたものであります。実にたいしたものであります。修士論文の研究発表会や、院生室で見かけたことがありましたから、修士をとられたのでありましょう。母国に帰られて前途洋々たる未来が待っておられる。いいものであります。素直に応援したいものであります。

 図書館では、駄文に欠かせない唯識論をノートに再度まとめておりました。これが難物なんであります。専門の僧侶でも理解しがたい分野であります。だから、時々愚生はもう出家した方が早かったダンと喚いているんでありますが、まったくなんでこんなのをやっちまったか。

(はれぇ。。。今日は珍しく丁寧体の文章になっている)

 やりたいから、やっているんですが。当たり前でありますな。そして、どんどん興味が拡散していっている。民俗学的な傾向を示し始めているから、要警戒であります。今日も、本学図書館から5冊お借りして、また明日から院生室で読書活動。ところどころコピーをしながら、コメントを書き込みながら、(図書館の本ではないですよ=ノートにです)100枚もある分厚いノートを使ってアタマの活性化に取り組んでいますよん。

 そして愚生のもう一つのテーマである柔道。そうです、今日は火曜日。稽古日だん。楽しみだん。さっき稽古してきて、帰ってきたんです。小学生が一杯いて楽しかった。幼稚園の生徒もいて、こっちに今晩わ!って言ったら、「ダレ?あのおじいさん・・・・」だって。笑っちまったですなぁ。かわゆいことかぎりなし。「ぶひぃ・・・・じっちでしゅよぉ~~~~~~」って迫ったらキャッキャ言いながら道場の中を逃げ回っておりました。否、そうじゃなくて愚生は稽古台。投げられてばかりいました。
 
 そんな柔道なんか、研究活動にはなんにも関係ないし、そんなのやっているより基本書を少しでも読み進めないといかんのでしょう。第一、こんな武道なんかやっていたら、研究者として立っていけないだろうと叱責をうけそうだ。? そんなこたぁないですな。研究者にはなれっこないでありますから。アタマが良くないからねぇ。オレの高校はけっこう優秀だったから、大学の教授がいろいろいるんです。同級生に。ホントに。中には神父様までいるから、実に変わった高校だったんです。そういうのに言われてしまいますな。「往生際が悪すぎる」ってね。(^0^)

 そうじゃぁなくて、身体論的に柔道はいいものであります。西洋的な文化と東洋的な文化といろいろミックスされていたほうが、精神衛生上はいい。そのことを専門に書かれたエライ学者先生がおられて、愚生はそれもお借りしたんです。修士の時に、実に参考になった学者先生であります。湯浅泰雄先生という方。全集本が本学にはあって、これも垂涎の的。明日から読書三昧にまたなりますなぁ。

 鬱々と毎日を送らんほうがよろしいですよ。所詮、たいしたことはないんですから。ダレもが天才になれるわけじゃぁないし。消極的に考えて、失敗したらどうしようとか、ダレかに笑われっちまうなぁ、こんなんじゃとか。そんなの考えないほうがよろしい。ここにいい見本がいる。愚生ですよ、愚生。笑われても、馬鹿にされても、一切気にせず、西に困った方あれば行ってナニカチカラになることアリマスカと聞き、東に悩んでいるヒトあれば、グチヲキキマショウって言うのが愚生の仕事でありましたからねぇ。それが教師というものでありましょうから。宮澤賢治みたいなのがある意味理想だから。愚生にとっては。

 根底に「明るさ」がないといかんです。特に10代、20代の時には。そういう性癖を無理してでも身につけた方がよろしい。なんだかわかったようなふりをして、方丈記の鴨長明のように隠者として生きたいとか、欲望を否定して無の境地になりたいとか、そんなのムリムリ。やるだけ無駄でありますよん。

 特に、エリートといわれる高校とか、大学に進んだヒトほど、自分を特別視してしまいますから、余計悩んでしまうんです。誰しも天才にはなれっこないんです。一流大学を出ても、高校の教員で終わるヒトだってたくさんいるんですから。だから、天才なんてなろうと考える方がおかしいんですがな。

 明るく、めいっぱい努力して、駄目だったら仕方なし。
 ある意味そういう割り切り方が大切でありますよ。
 

 今日唯識を勉強していて、こっちはこころの問題であって、行動面をまったく問題にしていないから、やはり東西の両方の文化を吸収すべきだなぁと思ったからでありました。またまた、駄文を書いてしまったケド。
 (^0^)













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困ったもんだ

2012年09月03日 22時42分16秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 Twitterとgoo(拙ブログを載せているサイト)の連携が良くなくて、Twitterに書いたことが反映されない。困ったもんだ。こんなことを書いたんであるが。↓

>要するに情報収集にあんまり時間をかけないことが大事だということを佐藤優せんせに教わってからは、馬鹿丁寧にきちんと、完全に、美しくというスタンスを捨てました。ノートをとることが最優先で、あとからあとから忘れていっては、なんにもならんですからねぇ。

 愚生はコンピュータのこと「も」、まったく意味不明でよくわからんから、しょうが無いんでこっちに日記風に書いている。ま、どんなことが起きてもそれに対応できるというのが、生き残るための方策であると日頃から信じている。だから、それもあり得ることである。
 
 そんなチカラを入れて書くようなことじゃないけれども。

 マスコミが防災のことを実によく取り上げてくださっている。ありがたいかぎりである。安全教育一筋で四〇年近くやってきたからである。しかも、最近は防災教育とか地震とかの学者先生の論文も、大震災以来驚異的に増えている。何万の単位である。愚生のやっている分野に比べたら、何十倍である。実際、愚生は毎日のように大量の論文を拝読しているからわかるのである。院生室から全国の学者の論文を覗くことができるのである。しかも、有料論文サイトも大学が費用を出してくださっているので見られる。だから助かるのだ。むろん専門分野を実に大量に読んでいる。なかなかはかどらないけれど。 


 政治がきな臭くなっている。どうも教育公務員時代の癖が抜けなくて、無色透明の意見しか書けない。そういう習性になってしまったようである。関心は非常にあるのだ。ただし、書けない。臆病なんだなぁ。政治に関しては。

 思想・宗教問題もそうだった。しかし、こっちは最近やっと呪縛が解けたような気がする。退職の効用である。むろん思想史としての宗教問題というスタンスでもあるから、若干無色透明の傾向はあるが。雑宗的なのである。なんでもやる。だから信仰問題ではないのである。最近、非常に興味を持っているのが、高野聖から来ているところの高野山である。空海である。今書いている駄文も、もう1万字になったが、こちらの知識が無いと書けない代物である。中世の放浪藝について、全国を放浪しながら布教をして行った高野聖の影響を見ているのである。これは実に面白うてならぬ。
 
 今年の後半から、郷土史の仕事を始めることになっているので、興味のある分野とリンクしている。けっこうなことである。趣味と一致しているんだから、こんないいことはない。(^0^)

 雑学なんだねぇと思う。いいんだ、これで。なんでもやってみようと思っている。どこへでも出かけてみようと思っている。だから、本学を卒業したくないのである。いつまでも学生でいたいのである。そしたら、学割の効いた切符で全国の民俗学対象地を見学できてしまうではないか(^0^)

 あ、ちなみに学食で食べる「ミニ丼」なるものも実にいい。ミニと名前はついているが。愚生には食べきれないほどの量がある。しかもである。料金が200円である。涙が出るほどありがたい。年金生活者には、とてもとてもありがたい。今月の13日までは、味噌汁もついているのだ。今日は、それに50円のサラダをつけて食べた。250円だ。ありがたい、ああああ、ありがたい。

 しかし、こんな愚生だ。本学から、出ていってくれ!と言われたらしょうが無い。諦めるしかない。一番それが怖い。能力不足による中退である。あり得るなぁと思っている。なにしろアタマが悪い!反省的に悪い。?・・反省的に悪いってどういうことだ。よくわかんないが。ガキの頃から反省ばかりしているからなぁ。
 
 だから、反省のあまり、大量の読書とノート取りと駄文書きをやっちょるのだ。でないと追いつけないではないか。それほど本学のレベルは高いのである。夢にまで出てくるのだ。退学問題が。今朝もそれで目が覚めて、起きてしまった。文章が書けなくてじりじりしていたのである。夢の中のと~ま君が。そりゃ当たり前であろう。他者の目に触れるようなところにばかり原稿を送っているからである。神経を使う。これは、実に精神衛生上良くない。良くないが、やるしかない。これまで学会活動なんてやってきたことがないから。なんの実績も無いからである。

 やってきたのは学校経営というこれまたかなり面倒なことばかり。だから、学会活動まで手が回らんかったのだ。しかし、学校の管理職で学会活動までやっている方となると、それはある意味、ニーチェの言う「超人」だわなぁ。愚生の狭い人間関係ではそういふ人がいなかったねぇ。先生方にもいなかったな。学会活動をやって、大学の先生になっていった人。あ、いたか。二人いた。一人はE媛大学。もう一人は東京歯*大学。思い出した。しかし、この二人は定年まではやらなかったな。もっとも能力があるから、トラバーユしたんだろうけど。オレじゃぁ無理だったわなぁ。

 空海で思い出した。
 顕教と密教の差異である。これはこれで驚いたことであったが、なんてまぁ大天才なんだろうと思う。こんなに勉強をした空海が、大学を中退しているのだ。しかも、儒教批判をされたのだという。確かに儒教は、現世の栄達や、生き方のコツを教えるわなぁ。利も教える。そういう意味では、現代教育と傾向性を一にする。現代教育は、経済用語で語るから、ね。
 
 空海はそれが嫌だったのだそうだ。国家のエリート官僚になるための大学に行っていたのだという。それをある意味否定したわけだ。面白い人である。なかなかである。最澄も注目したワケだ。

 これから何年かかるだろうか。あらゆる興味対象について大論文を拝見して、さらに古今の大哲人の著作を見ていかなくてはならない。レーニンの著作もまだ机の上で鎮座したままである。(*_*) マイッタ。あ、左側には、エミールもある。こっちもノート取りをはじめたから。あああああああああああああああああ、オラはやっぱ、能力不足だよん!

 困ったもんだ。
 

 
 

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防災訓練でした

2012年09月02日 14時27分53秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

上記はNTTの通信防災に関するメンバーのデモでした。しかし・・このバイクなかなかいいです。

またツーリングに行きたくなっちまった。

 

このふくろは命綱であります

 

 平成24年9月2日(日)、居住地の防災訓練が行われた。大震災で14名も亡くなった地である。真剣さがある。本当に真剣である。

 愚生は町内会の評議員というのをさせていただいているから、当然参加させていただいた。こういうつながりは、退職後非常に重要である。仕事にかこつけて、(ホントは大して忙しくもないのに)これまで地元のことを放っておいたから、せめての罪滅ぼしである。オオイニ、地元のために働かせていただく所存である。しかしだ。各学校のHPなんかを見ると、地域と一体とか、なんとかとかやたらに地域、チイキ、chiikiと書かれているが、あれって「チイキ」と意識した時点から、上から目線だなぁ。学校って、そもそも村落共同帯にあったんだけど、わかって書いているんかね、と思う。公務員なんてそんな偉そうな仕事じゃあるめぇしと在職中から思っていたんですよ、マジに。(^0^)

 それにしてもよく降ったなぁ。雨!憎たらしいほどよく降った。テントがテントにならなくなっちまった。かわいそうなのが、消防団や自衛隊の隊員諸君である。あるいは市役所の方々。ご苦労様でございました。申し訳ないくらいでした。愚生は傘をさしていたから。それになんのお役にもたてないし。

 非常に勉強になったのもあった。日本安全教育学会というのにも入会させていただいておるんで、危機管理や安全教育等々についてはかなりの興味関心があるからである。なんてったって、大震災では被害を受けた土地であるからである。防災教育の大切さは身に染みているからである。

 知っている人にも会った。四方山の話もした。前の仕事のことも多かった。・・・・もういいや。なんも話したくないんである。ひねくれているとか、なんと言われても、もういいんである。どこの学校がどうしたこうしたとか。(^0^)/ウフフである。拘っていないんである。そんなヒマはないんである。もう別の世界で非常に多忙なのですが。

 今日もこれから真夜中まで、読書とメモ書き、そして駄文書きをせにゃならん。どこかで他者のためになるのかもしれないと密かに思っているし、タブンそうなることでありましょう(^0^)

 まだ中身は明らかにできないけど。

 

 そんなたいそうなことをしているわけじゃぁないから、なにを血迷っておるかと空海さんあたりにぶっ飛ばされるかな?

 アハアハッハハハハッハッハ

 

 

 

 

コメント (2)
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/