行動経済学者ダニエル・カーネマン氏は、人間の直感的な判断による行動を「WYSIATI」という言葉で説明する。
「WYSIATI」 … What You See Is All There Is
「あなたが見たものが、あなたのすべて」って感じかな。
人が何かを瞬間的に判断する材料にするのは、自分が見たもの、つまり経験がすべてである、ということだ。
論理性やら客観的判断やらはそこには働かず、自分の経験というバイアスがつねにかかっている。
なんか難しい言い方になってしまったけど、あたりまえの感覚だとも言える。
たとえば蛇を見て「こわい」「不気味」と感じるのは後天的に学習した感覚だ。
その経験をしてない人は、たとえば赤ちゃんは蛇を見て怖じ気づくことはない。
蛇をみて泣いてるとしたら、それが蛇であることが原因ではなく、なんか別の事情なのだ。
蛇にかまれると毒がまわって死ぬなんて情報を何らかの形で手に入れた大人は、いつしか蛇を見ると、やばい距離を置こうと瞬時に判断するようになる。
この蛇は色や形状から判断して毒はもってないし、人に対して好戦的な性質はないと思われるから、よしよししてみようとは普通は思わない。
人が何かを見てなんらかの判断を下すにあたっては、経験の蓄積がそれを決めさせているのであり、冷静に客観的に判断しようとしてさえ、自分のもっているものから自由になることはない、という話になるそうだ。
「What You See Is All There Is」
これが実は「バカの壁」の原因だと、勝間和代氏は言う。
養老先生の大ベストセラー『バカの壁』で述べられた、人間と人間の間に存在する、相手のことを理解するのに立ちふさがる「壁」。
人と人、男と女、大人と子ども、日本人と中国人、ギャルとオヤジ、先生と生徒、都会に住む人と地方の人、先生と保護者、部員と顧問、上司と部下、自民党と共産党、馬場と猪木、アキちゃんとユイちゃん … 。
どんな人と人との関係においても、お互いを100%理解することは不可能だ。
理解できないとき、理解してもらえないとき、人は相手をバカとみなして心を閉ざしてしまう。
実は自分の方が強固なバカの壁を築いているかもしれないのに、それには気が付かない。
人は、知らず知らずのうちに自己の内なるバカの壁にしたがってものごとを判断している。
「長島監督」と何回も書いてて、なんの違和感も感じなかったのは、自分のなかにそういう壁があった。
つまりそういう経験があった。
自分の見たものが自分のすべてをつくっていた。
だからね、見てたんだよ、きっと。ミスターのことを「長島」と書いたものを。
そしたら、見てた。
「3番ファースト王、4番サード長島 … 」とコールされ、ボードに記されていた名前は実は「長島」だったのだ。もちろん、「巨人の星」に出てくるミスターも「長島」だ。
長嶋名誉監督の本名は「長嶋」なんだけど、常用漢字表に「嶋」がないため、昔は「長島」表記だったそうだ。
「長島」と書いて違和感を感じるかどうかで、その人の年齢がわかる。
「長島」ってちがうの? と一瞬でも思ったかたは、けっこう年上ですから。
とはいえ、「長嶋」が本名で、ここ十数年間はその表記しかしてないにも関わらず、「長島」と書いて平気だった自分はどんだけ「壁」があついのだろうと思う。
ひょっとしておれだけ?
だとしたら、こんなに長々と言い訳したのがむなしくはなってくるけど。
でも「What You See Is All There Is」という、人のもつ無意識のバイアスの話はなるほどって思ったでしょ。
だから、意図的にいろんな経験を積むことが大事なのだろう。