先週最後の「あまちゃん」には胸がしめつけられ、嗚咽をもらしそうになったけど、うしろで娘がパソコンに向かっていたので、「はあ?、何泣いてんだよ、のめりこんでんじゃねえよ、エロおやじ!」(どんなキャラ?)とか言われたらヤので、こらえていた。
先週は、おじいちゃん、お父さんとの別れ、そして初恋の人との別れ。それは親友との別れをも意味する。
東京から北三陸に来て、いろんなものを手に入れたアキがいっきにいろんなものを失っていく急転直下の展開。
あこがれの先輩に恋心をうちあけて断られるシーンでは、アキ以外は視聴者もみな失敗することがわかっている状態だったから、よりせつなさが募るという心憎い展開になっていた。
思えば、週の前半、「先輩はアキのことどう思ってるんですか!」と詰め寄るユイの様子が見事な伏線だった。
冷静なユイが、アキのことに対してだけ興奮してつっかかっている姿。
あれ? ひょっとして、アキだからではなく、先輩のことだから? そういえばそれを予感させるシーンがあったような … 。
こうなると、橋本愛ちゃんはサブテキスト(口ではそう言ってるけど、内面はちがう様子)を演じわける天才だから、びしびし伝わってくる。
それに対し、アキちゃん役の能年玲奈ちゃんは、そういう表現をいっさいさせず、気持ちをそのまま表現させ続ける役作りで、演じさせ方でも対比が明確になっているのが巧みだ。
喪失感。
まえも書いたけど庄司薫の「赤頭巾ちゃん」シリーズから、先日出た「多崎つくる」まで、青春時代とは喪失の時代なのだ。それこそが本質と言ってもいいかもしれない。
先週観た「ハイバイ」という劇団の芝居は、ある家族の一風景を描いた「て」という作品は、同じ時間帯を視点をかえて演じ直す構成になっていて、サブテキストが観客にはっきりと示されるものだった。
寝たきりになっているおばあちゃんがいる。
ずいぶん具合が悪くなっているので、家族みんなで集まろうという流れになる。
家を出て暮らしている次男や長女が帰って来て、おばあちゃんの部屋でいろいろ話しかけている。
伝わっているのか伝わってないのか定かではないが、おばあちゃんは、なんの脈絡もなく「昨日ね、こんなことがあったのよ」と話しはじめる。
そこに、隣の建物で暮らしている長男が現れると、「ほんと、一回しかなかったことが何回もあったことになったり、ないことがあることになったり、たまったもんじゃねえよ」とおばあちゃんを攻める口ぶりで会話に加わってくる。
「そんな言い方しなくたって、いいだろ。それにおばあちゃんちの応接間を自分の部屋みたいに使うな」という弟とけんかになる … 。
このくだりにあたる時間帯が、おにいちゃん視点から再度演じ直される。
すると、観客は「なるほど、こんな思いがこもっていたから、あんな憎たらしい言い方になっていたのか」と納得する。
数年前はじめて「ハイバイ」公演を観たとき、これを定演のお芝居でも使ってみようと思って「ふれふれ龍馬」のとき入れてみた。
今回再々演(ぐらいかな)の「て」を観てみて、あらためてよくできたお芝居だと思った。
サブテキストを直接演じ直すことによって、演じ直されない他の登場人物も、きっといろんな事情があるんだろうなと思わせることになる。
するとすべての登場人物のひとつひとつが、意味あるものとして台詞が立ち上がってきて、立体的になる。
それは、舞台上の人物だけでなく、自分たちもそうなんだよなあとしみじみしてくるのだ。
音楽の立体化は、どうすればいいのだろう。
立体感のある演奏という言い方があるけど、うまくイメージがわかない。