学年だより「この先(3)」
この先、就職活動の時期を迎えるまでにやるべきことがあるとしたら、「やりたいことさがし」ではなく、自分のスペックを上げることだろう。
そのために効果的なのは、オタクになることだ。
とくに自分の選んだ学部学科の内容についてオタク化することは有効だ。
Aを学びたいと思っていてB学科にしか受からなかった場合でも、そのBを徹底的に深めていくと、Aとも通ずる中身にも触れられるし、自分が当初考えていたAとかBとかの枠組みがいかに表層的なものであったかにも気づく。
抽象的な言い方になってしまったが、AとBには、ほんとに何を入れてもあてはまることに、いつか気づいてもらえるだろう。
それくらいBをやると、相当直接的に就職活動での武器にもなるものだ。
サークルやアルバイトでもいい。漫然とではなく、のめりこんでみると、自分の血肉になる。
アルバイトはしょせんアルバイトにすぎないと言うけれど、いやいや働いている社員さんよりも、気分良く働いているバイトさんの方が、いい経験を蓄積できる。
~ 何年か前、武術家の甲野善紀先生とレストランに入ったことがあった。私たちは七人連れであった。メニューに「鶏の唐揚げ」があった。「3ピース」で一皿だった。七人では分けられないので、私は3皿注文した。すると注文を聞いていたウェイターが「七個でも注文できますよ」と言った。「コックに頼んでそうしてもらいますから。」彼が料理を運んできたときに、甲野先生が彼にこう訊ねた。「あなたはこの店でよくお客さんから、『うちに来て働かないか』と誘われるでしょう。」彼はちょっとびっくりして、「はい」と答えた。「月に一度くらい、そう言われます。」
私は甲野先生の炯眼に驚いた。なるほど、この青年は深夜レストランのウェイターという、さして「やりがいのある」仕事でもなさそうな仕事を通じて、彼にできる範囲で、彼の工夫するささやかなサービスの積み増しを享受できる他者の出現を日々待ち望んでいるのである。もちろん、彼の控えめな気遣いに気づかずに「ああ、ありがとう」と儀礼的に言うだけの客もいただろうし、それさえしない客もいたであろう。けれども、そのことは彼が機嫌の良い働き手であることを少しも妨げなかった。その構えのうちに、炯眼の士は「働くことの本質を知っている人間」の徴を看取したのである。 ~
「働くとはどういうことか」という漠然とした問いは、考えて答えの出るものではない。
まして、やりたいことが見つからないから働かないなどというのはもっての他で、まずは体を動かすところからしか始まらない。
~ 「働くとはどういうことか」、働くとどのような「よいこと」が世界にもたらされるのかを知っているのは、現に働いている人、それも上機嫌に働いている人だけなのである。 (内田樹「働くことはどういうことか」『日本の論点2010』文藝春秋より)
働くとは、唐揚げを7個上げてもらうことなのだ。