「川越市民会館を使用するのも今年で最後です」とパンフのあいさつを書きながら、ふと過去を振り返りたくなった。
第一回定期演奏会は上福岡勤労福祉センター。この時、「定期」と名付けたかどうか定かでない。
翌年は、当時指導をしていた小山先生が、人数も少ないしそんなに練習してないのだから開かなくていいと言い、自分もそのつもりでいたが、どうしてもやりたいとの声が高まって急遽第2回を、川越東高校大講堂で開催した。とはいえ、星野女子高校吹奏楽部の方に何人もの助っ人をお願いした。
第3回からは川越市民会館の中ホールにあたる「やまぶき会館」で実施。
途中一回だけ所沢ミューズで開いた。第7回だったかな。
再びやまぶき会館にもどし、二部にちょっとした小芝居を入れたりするようになる。
パソコンに残っているファイルを開いてみると、第13回から大ホールをお借りするようになっている。
やまぶきでは部員がステージに乗り切らないという物理的問題が、大ホールに替わった第一要因だ。
今年が23回だから、大ホールでも11回の演奏会を開かせてもらったことになる。
ただ、途中にブランクがある。第20回がもうすぐ迫ってきた、準備がおくれているからスパートかけようぜと言ってたときに先の大震災が起こり、その年は会館が使用できなかった。できないことはなかったが、「いつ停電になるかわからないので、責任もってお貸しすることはできない」と言われたからだったと思う。
「思う」だって。もう忘れているのか、たった四年前のことなのに。
でも、いいかな。忘れてはならないこともあれば、忘れていいこともある。忘れた方がいいこともある。
今も忘れられないことはもちろんある。
演奏会の中止を決めたときにミーティングで泣いてた三年生がいたこと、なんとか形だけでもと音楽室で卒業演奏会を開いて最後に自分も泣いたこと。
そっか、かりに市民会館が借りられたとしても、電車が動かず練習に出てこられない子がいたのだ。学校を使っていい時間も極めて制限されていた。
自転車をこいで学校から帰るときの風の冷たさは、けっこうはっきり覚えている。
学校で行ったその演奏会には、ご家族の方とOBだけをお招きしたが、今よりも交流が多かった星野高校の斎藤智徳先生がわざわざ三年生を見送りにきてくれた。
まさか、その後、斎藤先生を見送ることになるなんて思ってもみなかった。
24年て、長いようで短い。第1回の時は20代だった。24年後も演奏会やっている自分などかけらも想像してなかった。
「53歳のおれがこんだけやってるんだぞ、もっと気合い入れて踊れ!」と昨日一年を叱ってしまったが、自分だって昔はそんなに気合いは入ってなかったし、「時間は大切だ」と商売柄口にはするものの、本当のところ心底そうは思ってなかったのだ。
過ぎた時間は取り戻せないということを、このごろやっと本気でわかってきたような気がする。
残りの人生で一番若い今日という日を積み重ねていくしかないのだ。つきあってくれてる子供達には本当に感謝したい。