学年だより「私たちはどこへ向かうのか~高部大問氏の教え~(2)」
~ 「あなたが今までに一番がんばったことは何ですか?」 ~
就職面接の第一問として、どんな職種でも必ず問われる質問だ。
前任のリクルート社で人事に携わり就職の面接官も務め、また営業に移ってから全国各地で様々な会社と関わってきた高部氏はそう言う
それほど普遍性をもつ問いということであろう。
大学名や研究内容よりも、この質問に対する答えの方が、よほど重視されるそうだ。
このように問うことで、問う側は問われる側の何を知ろうとしているのか。
その人の「考え」ではなく、「考え方」を知るためだ。
どういうことか。
将来お医者さんになりたいという希望を持つ、A君、B君二人がいた。
二人の「考え」はこのように表明される。
A君「医者になりたい」。B君「医者になりたい」。
二人にそれぞれ理由を尋ねる。
A君「幼い頃、身内の大切な人が生死にかかわる大きな病気をした。それを救ってくれたのがお医者さんだった。その頃から、自分もいつか人の命を助けられる人間になりたいと思っていた」
B君「これまでいいお医者さんに出会えてこなかった。自分が医者になって人の役に立ちたい」
これが「考え方」だ。表面化された「医者になりたい」という「考え」は同じでも、それを支える「考え方」部分には大きな違いがある。氷山のイメージに近い。
人の個性は、「考え」ではなく、「考え方」に現れる。
面接では、それを掘り起こすための質問をしていくという。
横道にそれるが、そもそも「問い」とは、その問いに対する直接的な「答え」を求めていない場合がほとんどではないだろうか。
先生が言う、「K君、このゴミ捨てておいて」。K君が答える「ぼくですか?」
「ぼくですか?」は疑問だろうか。まれにそういう場合もあるが、拒否や抗議、もしくは反抗や猜疑心の表明である場合が多いはずだ。
親が「勉強してる?」と尋ねるとき、実質は不満の表明だし、つきあっている彼女から「わたしのこと、好きなの?」という問いが発せられたなら、けっこうな危険信号である場合が多そうだ。
その人は、そう問うことで、何を知りたいのだろう?――「問いの対象化」と名づけたい――と一端立ち止まって考える姿勢は、今後何に対しても必要になってくる。
今後とりくんでいくことになる本格的な入試問題においても、この感覚が必要だ。
出題者は、この「問い」によって何を求めているのだろうか、と。