goo blog サービス終了のお知らせ 

水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

いろいろ

2013年05月19日 | 日々のあれこれ

 昨日は吹奏楽部保護者会。
 活動の説明をして、あとは役員のみなさまにおまかせすると、さまざまなことが決まっていき、今年度も支えてくださる組織が立ち上がる。ありがたいことである。
 来月の音楽座さん公演の紹介をしたら、さっそくチケットを申し込まれる方もいた。
 部員の方は、西部地区発表会に専念してもらおうと思っているが、また秋の公演でご一緒できたらと思う。
 終えて試験問題作り。
 今日は、午前に指揮のレッスン。少しだけいいかんじ。ていうか、何ができないのかが漠然とわかってきた。
 なんとなくできないではなく、どこがだめかという自覚が生まれたのは、ちょっと進歩だと自分で思う。

 「ねえ、先生、まだ観に来て下さらないんですか?」 
 「ごめん、もう少しで試験ができるから、そしたらね」
 「公開初日から待ってるんですよ」
 「ごめんね、マキマキ。たぶん今日に夕方の回に行くからね」
 よおし、みかみさんで辛味噌らーめん食べて力をつけ、一気にやるべきことをやってしまおう。
 あ、昨日の続きも書いてしまおう。

 メンバーの方はよく練習なさっていると思った。
 しつこいが平均年齢74歳で、これだけ声が出て、からだが動くのは驚異だ。
 ただ滑舌がどうにも不便な方はいらっしゃったし、ビジュアルは年齢通りだ(だから、できればシュミーズ一枚になったり、ズボン脱いだりしないでほしかった)。
 これだけ練習している方々に、「お年の割にはがんばっている」という評価の仕方をするのは、逆に申し訳ないと思い、思ったとおり書くけど、公共の建物で練習ができて、世界の蜷川の指導が受けられて、普通に想定できるようなチケットを売る苦労はほぼなさらずにお芝居ができているという幸せを、どれくらい意識されてるのだろう。
 みなさん大人だから、自分のような若輩に言われずとも重々承知しているはずだが、それにしては受け身なんじゃないかなと正直思えた。
 いや、ちがうかな、やはり脚本と演出の問題だろうな。
 老婆役を老婆が演じるのはたしかに自然だ。
 元々の脚本では、「実生活を重ねた老婆が、すなわちふだんは物言わぬ存在が、世間に対して異議申し立てしたらどうなるのか」という部分の主眼がおかれたものと読み取れた。
 秩序を乱した若者を裁く人々に対し、「あなたがたにそんな資格はあるのか」と問いかける。
 世間を騒がせた若者にも「おまえたちは、そんな程度の反逆でいいのか」と問いかける。
 ばあさんたちからみたら、みんなひよっこじゃ! との思いにあふれた老婆のセリフが大事だったにちがいない。
 そしてそんな老婆を若い俳優がそれを演じた。
 たとえば現役高校生の役を、現役高校生が演じるというお芝居がある。
 そんな時にありがちなのは、現役高校生はたぶんこんな風にするのが一番リアルなんだろうという姿を、その高校生が演じてしまうことだ。
 せっかく、生身の高校生がそこにあるのに、かけがえのない個別の身体がそこにあるのに、結果としてきわめて類型的な高校生が演じられておわってしまう。
 これはもったいない。
 それならむしろ、すごいおっさんが、無理して高校生を演じて、役作りに徹底して悩んでうまれた芝居の方が、リアルになることはたぶんある(だから、自分も先日の定演は女装してみたのです)。
 いかにも老婆的な話し方(しかもそれはきわめて自然だ)、老婆的なつっこみ、ふるまい、そんなのを目にして、観客も笑う。
 役者さんも、そんな反応に安心して演じている。
 予定調和も楽しくないことはないが、それだったら、あえてさいたまゴールドシアターでやる必要はない。
 もうひとつ言うと、脚本が圧倒的に古い。
 四十年前なら、世相を鋭くうつしたものと評価されたのかもしれないが、さすがに時間をかけて乗り越えてきた話題だ。昔は、そんなふうにアツくなったよねというトピックだ。演出にも同じことが言える。
 吹奏楽でいうなら誰だろう、清水邦夫って。昔とがった作品を書いてて、今や古典扱い的な方。
 R.W.スミスとかかな。「メトセラ」は昔はやったけど、さすがに今はやらないよね的な。
 たぶん、蜷川&ゴールドシアターに批判的なことを言えるのは、業界人にはいないと思うので、ちょっとかっこよく書いてみたけど、いかがでしょう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鴉よ、おれたちは弾丸をこめる

2013年05月17日 | 演奏会・映画など

 さいたまゴールドシアターをはじめて観劇した。
 演目は「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」。
 この作品をもって初のフランス公演まで行うという話題のお芝居はいかなるものか、平均年齢74歳、蜷川幸雄率いる劇団とはどんなものなのか、興味津々ででかけた。
 パンフレットの解説によれば、清水邦夫作のこのお芝居の初演は1971年、今から、えっと40年前だ(ちなみに高校のとき同級の清水邦夫くんは元気だろうか)。
 あるイベントに爆弾を投げ込んだ罪で、二人の青年が裁判にかけられている。そこへ様々な生活用品をもった老婆たちが押しかけ、法廷を占拠する。孫を守ろうとしたおばあちゃんと、その仲間達である。占拠するや、逆に検事や裁判官、弁護士を裁判にかけて死刑判決を下し、処刑する。あげくのはてには守るはずだった孫にまで死刑判決を出す … というストーリーだ。
 もともとは若い役者さんが老人に扮して演じた作品だ。
 若き日の蟹江敬三(「あまちゃん」のじっちゃん)も、老婆に扮して出演していたという。
 これをゴールドシアターの役者さんが、つまり平均年齢74歳が演じる。扮する必要なく老人だ。
 パンフには、「違和感がなくリアル」「実体験の重みが加わり」初演を凌駕したという演劇ジャーナリストの評が掲載されていた。

 さて、「老人」の言葉は重かっただろうか。
 年老いた役者さんの身体から発せられるセリフは、実体験の大きさに支えられた重みをもっていただろうか。
 残念ながら、自分的にはそう感じなかった。
 老婆の役を老婆が演じることの難しさがあると思った。
 若き日の蟹江敬三が、大杉漣が演じた老婆を観たいと思った。
 (だから、若いおねえちゃんが出ないから不満に思っているというわけじゃないんですよ)。
 自分はお芝居に何を求めているのか。
 人それぞれにお芝居に楽しみはあると思うけど、俺的には、やっぱ非日常性かな。
 そして「異形(いぎょう)」の存在としての役者さんの身体性そのもの(またあ、すぐ国語の評論チックな言い方しちゃって)。
 役者さんて、なかなかそれだけで食べていける人すくないじゃないですか。
 もう、それだけで自分にとっては「異形」の存在であり、自分ができないことを叶えてくれる存在であり、次元の異なる世界につれていってくれる存在だ。
 料金の高い芝居ほど、有名な役者さんほど、異次元に連れていってくれる度合いが大きい、というわけでもないところもおもしろい。
 音楽の世界でも同じだ。
 技術的には圧倒的に劣っているにも関わらず、高校生の演奏が、プロ中のプロの演奏を、聴衆を感動させるという点において凌駕することはありうる。
 その瞬間瞬間にどれだけのものをかけているか、なのかなあ。
 それを思うと、う~ん。世界の蜷川を批判してしまいそうなので、続きはあらためて。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月16日

2013年05月16日 | 学年だよりなど

 学年だより「才能」

 自分のやりたいことは、待っていてもふってはこない。
 自分が何に向いているかどうかも、やってみないことにはわからない。
 また人は、すべての「こと」を経験することはできない。
 自分のおかれた環境において、自分は経験しうるなんらかの「こと」を、やってみて、続けてみて、はじめて自分に才能があるかどうかわかる。
 ではかりに、時間をかけて取り組み、思うような成果があげられなかった時、そのことに費やした時間はむだになるのだろうか。
 そんなことはない。
 目標に向かって努力した経験は、必ずからだに残る。


 ~  君たちの才能は「1」かもしれないし、「5」かもしれない。
 でも、それは自分たちで得たんじゃない。親から与えてもらったもの、神様に与えてもらったもの。
 だけど、努力は自分で覚えるものです。
 誰でも頑張って「5の努力」をすれば、「5の筋力」を得ることができます。 
 それを得ることができたら、この世界が駄目でも、他の世界で絶対成功できます。
 なぜか。この世界が駄目だったら、次に見つけた新しい世界に「5」をかける。
 そうやっていったら、そのうちにちゃんと自分に合う世界が見つかって、成功するんです。
 「5の筋力」を持っているやつは時間がかかっても絶対成功する。 (島田紳助『自己プロデュース力』ヨシモトブックス)


 くりかえすが、うまくいくかどうかは、やってみないことにはわからない。
 自分の才能が5なのか、1なのか分からない。
 ただし努力は、5をした場合には、5の筋力としてからだに残っていく。
 多くの人が「努力は裏切らない」というのは、こういうことではないだろうか。
 島田氏は「この世はすべて才能だ」と言う。
 どんな仕事、どんな分野でも、5の才能を持つ人間と、1の才能しか持たない人間とがいる。
 5の才能を持つ人間が5の努力をしたとき、25という超一流の結果が生まれる。
 ただし、5の才能を持つ人間が1の努力しかしない場合には、5の努力をした2の才能の人間に簡単に負けてしまう、と。
 おのれの才能の多寡を案ずる前に、まずは努力してみることが大事なのだろう。
 大人の世界になると「過程ではなく結果がすべて」とか言う人も増えてくるが、実際にはそんなにたいそうな結果を残している人なんて、そうそういるものではない。
 勉強でも、何をすべきかとか、この勉強に意味があるのかという疑問を抱いてるヒマがあったら、とりあえずやるだけやってみた方がいいのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西部地区打ち合わせ

2013年05月15日 | 日々のあれこれ

 西部地区吹奏楽連盟の会議にでかけた。
 事務局の一員でありながら公務を理由に欠席させてもらうことの多い会だが、川越高校という近場で開催されるときぐらいでかけないとクビになってしまう。
 会をしきるのが川越市の演奏会でもお世話になる本田先生と、昨年全国大会に出られた西部の若きエース中畑先生である。代替わりは自然とすすむものだと思う。
 なかなか若い世代が出てこないよね的な発言をされる先生も吹連にはいらっしゃるが、言ってるその方が居座りさえしなければ、いくらでも若い人はいるのだ。そんなことを口に出せる機会はないけど。
 西部地区研究発表会の準備の作業をし、当日のこと、今後のことなどを確認した。
 写真撮影は一切禁止を徹底することが確認できたのはよかったと思う。
 録音・録画も禁止しましょうと提案したが、自分の団体にかぎり後ろの席から撮っていいことは維持された。
 機会があればまた言おうとは思うけど、なかなか一息にはね。
 来場される親御さんも、幼稚園や小学校の発表会の感覚でいらっしゃるから、客席でふつうにビデオをとり、ふつうにフラッシュをたこうとする。
 「すいません、撮影禁止なんです」と会場係を仰せつかったときはお願いしてまわるけど、「なんで?」と言われるのも仕方ないのだ。
 そういう文化を生きてこられたのだから。
 でも、自分の前の席に座ってる方がビデオを撮ってらしたら、ふつうに考えれば気が散る。
 映画館でさえ、あれだけ携帯の電源をきろう、液晶見るのもだめと言ってるのだから、やっぱ演奏会はだめでいいんじゃないかな。
 ていうか、そういうことを啓蒙するのも、こういう分野の部活動の顧問としての仕事だと思う。
 むちゃくちゃ大きい言い方になるかもしれないが、文化の担い手としての矜恃がなかったら、ほんとは顧問やっちゃいけないんじゃないかな。
 ライブは一回こっきり。記録するためにあるのではなく、演奏する側も、観る側も力をあわせて感動するためにある。
 その啓蒙ができないまま、生徒の私語だけをなくそうとするのも、実は難しいのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コラボレーション

2013年05月14日 | おすすめの本・CD

 鈴木雅之の「OpenSesame」は、いろんなアーティストといろんなコラボの仕方をして出来たアルバム。
 先日BENIさんとデュエットしてるのをテレビで見かけたけど、若いおねえさんとデュエットしてて普通に見える年齢不詳の不良おじさん、というかむしろマーチンさんの方が落ち着きがないくらいに見えた。
 業界では大御所だろうに。
 自分も落ち着かずエラそうにならずにいたいと思う。
 「ねえ、いくつなの?」と眉をひそめられるくらいのことを相変わらずやってこうと思えた。
 さだまさし、槇原敬之作品との相性がよかったことは予想通りだが、よく知らない若い人の作品がとくによかった。「22時までのシンデレラ」とか。
 そうそう、先日本校でライブをお願いしたAJIさんも、コーラスで参加しているではないか。
 車で聴いてると、つい窓を開け風を感じながら254バイパスを渋井から木野目までかっとばしたくなる。
 なんてったって俺の愛車はアウトバーンをかっとばすポテンシャルあるから。
 なんにせよ、マーチン健在! と叫びたくなる作品だ。

 牛丼好きですか? イエス。
 焼きそば好きですか? イエス。
 焼きそばをおかずにごはん食べるのは好きですか? イエス!
 牛丼に焼きそばのせたの好きですか? イ、イエース!!
 すき家さんのカレー南蛮牛丼は失敗作だと思うが、焼きそば牛丼はありかもね、と今日はじめて食べてみて思った。
 そえられた青のりをふりかけ、液体ソースをかけて、あれ?焼きそばには何か足りないな、そうだ紅ショーガだと思いつき、ふと前方を見ると、紅ショーガが山盛りおいてあるではないか。そうだよ牛丼屋さんだもの。
 この時、すき屋さんの研究開発チームの発想が一瞬にして目の前に広がった。

 何か新しいトッピング開発できないかなあ。
 ネギ卵、キムチ、チーズ、明太子、山かけ、おろしポン酢 … 。
 もうやるだけやってます。これ以上は、むしろお客にひかれます。
 フォアグラとかトリュフは食材として無理だし、アイスとかチョコは下手物あつかいになるだろうし … 、
 ばかやろー! 何かみつけろ! あの山田うどんのアグレッシブさを見習え。
 でも、 … 。
 待て、そういう時には基本にかえろう。基本てなんだ、お客さまの気持ちになることだろ。
 よし、おまえら、今お腹減ったな。減った気分になれ。店のカウンターに座った。さあ、何食べたい? ふつうの牛丼の気分じゃない、へんなトッピングも食傷気味だ、さあ、どうしたい? 何が見える?
 チーフ、紅ショーガが見えます。
 あたりまえだろ、牛丼に紅ショーガはつきものだ。
 逆に考えたらどうでしょう。
 逆?
 はい、牛丼に合うものを考えるんじゃなくて、たとえばこの紅ショーガに合うものは何かって発想はできないのかなと思って … 。
 おい、ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、メインは牛丼に決まってるじゃねえか、それがおれたちの基本 … 。
 いや、まて。おもしろいかもしれない、その発想は。
 でも、チーフ … 。
 そうだよ、牛丼がメインで、そのおともじゃない。そうだ、トッピングじゃない、コラボレーションだ。
 コラボ … 。
 そうだよ、コラボだ。紅ショーガに合うものはなんだ。Aとxは合う、Bとxは合う、だとしたら、AとBのコラボは可能なはずだ。
 たとえばAがさだまさし、xがラブバラード。じゃBに鈴木雅之をおいて、そのxを歌っても、きっと心にしみる曲になる。
 そうか、Aが牛丼、xが紅ショーガですね、じゃBは … 。
  … 。
 あれか。
 そうですね。
 いけるかもしれない。

 食べながら、いまおれ何食べてるんだっけ? という気分になってきたのは、通常のコラボレーションを超えた次元のものになっていたからかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月14日

2013年05月14日 | 学年だよりなど

 学年だより「素振り3」

 ~ 問題は毎日やれるかどうか。その1点なのです。
 野球の素振りもそう、英語の勉強もそう、ダイエットもそう、仕事もそう。
 続けていれば何らかの結果を出すことはできます。
  才能なんて要らないと凡人の僕は確信しています。要るのは続けること。
 その1点だけです。
 そうすれば人生において、何らかのものを遺すことができると思いますね。
 四の五の言ってないで、とにかく始めること。そして続けることです。
 生徒たちには周囲に深く感謝をし、基礎練習の反復を飽きることなく続けてほしいなと願っています。そうすれば何らかの結果がでるはずです。 (「キムタツブログ」灘高キムタツ木村達也オフィシャルサイトより) ~


 何らかのことに才能があるかどうかは、どうすればわかるか。
 それはきわめて単純で、「そのこと」を続けられるかどうかだ。
 やらなくていいことでも、周囲からやめた方がいいと言われてさえ、やらずにいられないものがあったなら、それは才能を発揮できるものである可能性がきわめて高い。
 逆に、ものすごく上手にできることであっても、継続してできないことについての才能はない。
 体育の時間にサッカーをした。ものすごいキレキレの動きをするA君がいた。
 A君は本当にものすごい才能をもっていると、みんな思った。
 でも毎日継続して練習してスキルを高めていかなければ、A君の才能は開花せずにおわる。
 A君より素質の点であきらかに劣るB君がいた。
 しかしB君は、毎日毎日地道に練習を積み上げ、ふつうにゲームをしたら、A君よりもいい動きができるようになった。
 この場合、結果的にはA君ではなくB君の方が「才能のある人」と世間一般に認定されることになる。
 どんな世界でも、同じ構造ではないのろうか。
 マンUの香川選手が、もし子どものころサッカーがそんなに好きではなく、友達と放課後に「ちょっと遊ぶぐらいの人だったなら、今プレミアリーグで活躍する人生を送っていない。
 イチロー選手が、週に二三回の練習しかしない人であったなら、メジャーリーグで首位打者になることはなかった。
 草野球や草サッカーで、「あいつ、才能すごくね?」といわれる子どもはけっこうたくさんいるのではないか。
 むしろ、そこからどんな毎日を送るかの方が問題なのだ。
 逆に、毎日続けることができるものがあるなら、それは自分のものになっていく。
 もちろん勉強も同じだ。昔かしこかったとか、併願でどこ受けたとか全く今は関係ない。
 今目の前にあることを続けられるかどうか、それがすべてだ。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その理解はやばいかも

2013年05月13日 | 日々のあれこれ

 今朝、「あはれ」の現代語は「やばい」だという文章を読んで、「ちがうやろっ!」とつっこんだ国語教員は日本中に相当いたにちがいない。
 天声人語子は言う。

 ~ 心なき身にもあはれは知られけり、とは西行の歌である。心なきことでは西行どころではない身ながら、勇を鼓して「あはれ」を知りに出かけた。 … まず、予習である。大野晋編『古典基礎語辞典』を開く。「もの」とは〈決まり、運命、動かしがたい事実〉などを意味する。「あはれ」は〈共感の眼差しで対象をみるときの人間の思い〉である。その思いの底には悲しさや哀憐がある。 … 美術館の石田佳也学芸部長は「もののあはれの共有の仕方や伝え方は時代とともに変わる」と語る。石田さんは昨夏、花火を見る若者が「やばい」と連呼するのを聞いた。感動詞あはれの、これが現代版である。(朝日新聞「天声人語」) ~ 

 『古典基礎語辞典』を繙いたのはえらい。でも、きっと経費で買ったんだろね。
 国語の教員は、自分で6825円で買って手元においていおくのだ。
 ひいて意味を調べた以上、それをちゃんと理解して使わないと。
 たしかに若者たちはいろんなシーンで「やばい、やばい」言う。
 たのしいとき、おもしろいとき、おどろいたとき、おいしいとき、かっこいいものをみたとき。
 源氏物語の登場人物も、いろんなシーンで「あはれ」に感じる。口にする。
 「やばい」って訳すとはまりそうなところは確かにある。
 一つの言葉にいろんな情感が表される点では似ているのだが、やはり内実は異なる。
 しみじみとした情感に満たされたとき、若者は、少なくともおれの知っている若い人たちは、「やばい」とは言ってない。
 花火を見た若者が発した「やばい」は、おそらく天空にひろがるきらびやかな色と光の絵にむけて発したものだ。
 「あはれ」を使うなら、その花火の消え去ったあとだろう。
 空に広がった花火をみて「やばい、やばい」と連呼した若者も、花火大会の終わったあとの河原を二人で歩きながら、しみじみと「来年もいっしょに見れるといいね」と片方が語りかけ、「見れるに決まってんじゃん」と言いながら「来年、このまま故郷にいるのかな」とか「去年いっしょに見たあいつはいなくなっちゃったなあ」とか思いながら「もののあはれ」を感じている。
 その漠然としたせつなさ、やりきれなさを、おそらく彼らは「やばい」とは言わない。
 
 天声人語を書き写して日本語の勉強をしようとする高校生っているのだろうか。最近は「天声人語書き写し帳」という本もあるけど。
 たとえばお年寄りが手を動かす運動のための書き写しならいいかもしれないが、「よい子」は使わない方がいいんじゃないかな。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藁の楯

2013年05月12日 | 演奏会・映画など

 土曜は吹奏楽部保護者会役員さんとの懇親会。
 卒部された代のお母様とあれこれ話すことができてよかった。
 会場は大宮駅東口から数分の「京○」。オニオンサラダ、生春巻き、餃子、ミニトマトとホタテの串揚げ、牛肉たたき、マグロのカツ、あとなんだっけ、ライスコロッケだ。最後にストーンアイス。おいしかった。同じぐらいの値段の他の居酒屋さんに比べて、けっこうグレード高いのではないだろうか。
 一次会で失礼し、帰省していた妻と大宮で待ち合わせてからいったん帰宅し、バイト帰りの娘を迎えに行き、長い一週間が終わった。
 なぜ長かったのか考えてみたら、家事を担当する日があったのと、今年の東大の問題を分析する週だったからだ。もちろん自分なりに毎年解いて授業に反映させてるけど、きちっとレポートにして提出せよとのお達しがあって期限が設定されたので、へえ信頼されてないのかなと少し思い、現代文は全体の構造図を、古文漢文は全訳、書き下しをつけて、提出しておいた。
 あけて日曜は、指揮法のレッスンに出かけ、学校にもどって課題曲の合奏。
 がんばったので、南古谷ウニクスへいき、サイゼリヤでトマトソースのパスタとサラダをいただき、「藁の楯」を観る。
 「先生のブログ、けっこう参考にしてるんですよ」と言っていただいたので報告すると、これは観て損はないです。
 幼女を暴行し殺害した国丸容疑者の首に、10億円の賞金がかけられる。
 「国丸を殺してくれた人には10億円進呈する」と広告を出したのは、殺害された幼女の祖父だ。
 祖父は経団連の会長を歴任し、日本の各界に顔がきき、莫大な資産をもっている。
 10億円か … 。10億あったら、心売るかな。
 10億くれるって言われたら、たいがいのことは言うこと聞くだろう。人殺しだとちょっときびしいけど。
 億とか言わずとも、もっとわづかなお金のために法に背く行いをする人はたくさんいるし、我が身をふりかえっても、今の生活を守ると言い訳して、言いたいことを言わないままにしてきたことは山ほどある。
 10億の賞金めあてに正常な精神状態を失ってしまう人のことを、はなから否定できる人は、そんなにはいないのではないだろうか。
 そんな犯罪者を福岡から東京へ護送するために莫大な税金を費され、護送にあたった警官、SPの何人もが命を落とす。その極悪犯罪者を守るためにである。
 設定は極端ではあるが、今の日本の社会の矛盾をものすごくわかりやすく描き、見応えがあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月11日

2013年05月11日 | 学年だよりなど

 学年だより「素振り2」

 『ユメタン』のキムタツ先生は、勤務する灘中学高校の野球部顧問をされている。
 ゴールデンウイーク中、練習試合に勝ったあとブログにこう書かれていた。


 ~ 試合が始まってあれこれしてもしょうがない。実は勝負なんて試合前にだいたい決まっていたりするものです。
 普段、問題意識を持って練習できているかどうかが最大のポイントですよね。これって仕事でも何でも同じですけど。
 英語の勉強もだいたい同じです。
 ただ単に長文の問題集を解いているだけで英語力が上がると信じてる人は幸せです。でも絶対に上がりませんから。
 過去問を解いていれば模試の成績や入試の点数が上がると信じてる人と同じです。
 大事なのは、まずはモチベーション。ヤル気。生きる気力。
 その上で反復的なトレーニング。今日3時間やっても明日はゼロではダメです。それなら今日1時間、明日1時間、明後日1時間のほうがいい。
 結局は野球も英語もダイエットも仕事も何もかも同じですね。 (「キムタツブログ」灘高キムタツ木村達也オフィシャルサイトより)  ~


 木村先生は、「授業もやって部活もやって、よくそんなにたくさん本が書けますね」と言われることが多いという。たしかにそう思う。
 でも木村先生は、いや別にヒマだからと答えるそうだ。時間の使い方がうまいとかいう意識もないが、ただ他人と違う点がひとつあるとしたら、毎日やっている点ではないかという。


 ~ もし他の人と違う点があるとすれば、毎日やっているという点かもしれません。毎日同じことをやっているだけです。 … 本ってだいたい200ページぐらいです。
 これ、10日で書くのは専業作家でないときついものがあります。
 僕のように授業の準備やシミュレーションに時間をかけるタイプの教員は10日で200ページを書くことはちょっときつい。
 毎日20ページですからね。
 でも毎日4ページなら書けます。
 それなら50日で1冊は書けることになります。
 毎日続ければ2ヶ月に1冊のペースで書こうと思えば書けるのです。
 問題は毎日やれるかどうか。その1点なのです。
 野球の素振りもそう、英語の勉強もそう、ダイエットもそう、仕事もそう。
 続けていれば何らかの結果を出すことはできます。


 ね、やっぱり素振りなんだよ。とにかく毎日。 ~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手の変幻

2013年05月10日 | 日々のあれこれ

 ~ 「ああ、ここはほんとうに素晴らしいところ。手を伸ばせば、何にでも手がとどくわ」(音楽座ミュージカル「とってもゴースト」) ~

 「手の変幻」の最後の部分を教えながら、このセリフを思い出した。

 ~ 美術品であるという運命を担ったミロのビーナスの失われた両腕は、不思議なアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。 ~

 手は、人間が他者と世界とどう関わろうとしているかの象徴である。
 「交渉の手段」であり「媒介の方式」である。
 それをビーナスは失っていながら、他者との交渉が断たれるどころか、かえってあらゆる交渉が可能な存在になった、なんと皮肉なことか、と筆者(清岡卓行)は言う。

 ただ、われわれは両腕を失っているわけではないが、手を伸ばそうと思えばいろんな方向に伸ばせる。
 いろんなものをつかもうとすることができる。
 けっきょく、あるかないかの問題ではないのだろうか。

 天海祐希さんが体調を壊されて「おのれナポレオン」の舞台を降板された。
 無念だったろう。
 このお芝居のチケットはプラチナだった。抽選予約ではずれて、まあしょうがないかなと思ってたのだが、新都心ムービックスさいたまのパブリックビューイングの券を入手できたので、日本のお芝居のひとつの頂点はどんな感じになっているのかと楽しみにしてた。
 天海さんが降板され、宮沢りえさんが代役をつとめると知り、それはそれで語りつがれる舞台になるかなと期待してた。
 でも、さすがに一日半で本番は無理だったようだ。
 今日は幕があいたのだろうか。
 何にせよ、この状況で手をあげた宮沢りえさんの「男気」はたいしたもんだと思う。
 三井のリハウスのCMでこんなかわいらしい生き物がいるのかとおじさんたちを驚嘆させてから幾星霜、いまやおしもおされぬ女優さんだ。お相撲のおかみさんになってなくて、おれらにとってはよかった。
 
 手はどんな方向にも伸ばせるけれど、同時にいくつもの方向に伸ばすことができないところが、人生の妙だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする