昨日は吹奏楽部保護者会。
活動の説明をして、あとは役員のみなさまにおまかせすると、さまざまなことが決まっていき、今年度も支えてくださる組織が立ち上がる。ありがたいことである。
来月の音楽座さん公演の紹介をしたら、さっそくチケットを申し込まれる方もいた。
部員の方は、西部地区発表会に専念してもらおうと思っているが、また秋の公演でご一緒できたらと思う。
終えて試験問題作り。
今日は、午前に指揮のレッスン。少しだけいいかんじ。ていうか、何ができないのかが漠然とわかってきた。
なんとなくできないではなく、どこがだめかという自覚が生まれたのは、ちょっと進歩だと自分で思う。
「ねえ、先生、まだ観に来て下さらないんですか?」
「ごめん、もう少しで試験ができるから、そしたらね」
「公開初日から待ってるんですよ」
「ごめんね、マキマキ。たぶん今日に夕方の回に行くからね」
よおし、みかみさんで辛味噌らーめん食べて力をつけ、一気にやるべきことをやってしまおう。
あ、昨日の続きも書いてしまおう。
メンバーの方はよく練習なさっていると思った。
しつこいが平均年齢74歳で、これだけ声が出て、からだが動くのは驚異だ。
ただ滑舌がどうにも不便な方はいらっしゃったし、ビジュアルは年齢通りだ(だから、できればシュミーズ一枚になったり、ズボン脱いだりしないでほしかった)。
これだけ練習している方々に、「お年の割にはがんばっている」という評価の仕方をするのは、逆に申し訳ないと思い、思ったとおり書くけど、公共の建物で練習ができて、世界の蜷川の指導が受けられて、普通に想定できるようなチケットを売る苦労はほぼなさらずにお芝居ができているという幸せを、どれくらい意識されてるのだろう。
みなさん大人だから、自分のような若輩に言われずとも重々承知しているはずだが、それにしては受け身なんじゃないかなと正直思えた。
いや、ちがうかな、やはり脚本と演出の問題だろうな。
老婆役を老婆が演じるのはたしかに自然だ。
元々の脚本では、「実生活を重ねた老婆が、すなわちふだんは物言わぬ存在が、世間に対して異議申し立てしたらどうなるのか」という部分の主眼がおかれたものと読み取れた。
秩序を乱した若者を裁く人々に対し、「あなたがたにそんな資格はあるのか」と問いかける。
世間を騒がせた若者にも「おまえたちは、そんな程度の反逆でいいのか」と問いかける。
ばあさんたちからみたら、みんなひよっこじゃ! との思いにあふれた老婆のセリフが大事だったにちがいない。
そしてそんな老婆を若い俳優がそれを演じた。
たとえば現役高校生の役を、現役高校生が演じるというお芝居がある。
そんな時にありがちなのは、現役高校生はたぶんこんな風にするのが一番リアルなんだろうという姿を、その高校生が演じてしまうことだ。
せっかく、生身の高校生がそこにあるのに、かけがえのない個別の身体がそこにあるのに、結果としてきわめて類型的な高校生が演じられておわってしまう。
これはもったいない。
それならむしろ、すごいおっさんが、無理して高校生を演じて、役作りに徹底して悩んでうまれた芝居の方が、リアルになることはたぶんある(だから、自分も先日の定演は女装してみたのです)。
いかにも老婆的な話し方(しかもそれはきわめて自然だ)、老婆的なつっこみ、ふるまい、そんなのを目にして、観客も笑う。
役者さんも、そんな反応に安心して演じている。
予定調和も楽しくないことはないが、それだったら、あえてさいたまゴールドシアターでやる必要はない。
もうひとつ言うと、脚本が圧倒的に古い。
四十年前なら、世相を鋭くうつしたものと評価されたのかもしれないが、さすがに時間をかけて乗り越えてきた話題だ。昔は、そんなふうにアツくなったよねというトピックだ。演出にも同じことが言える。
吹奏楽でいうなら誰だろう、清水邦夫って。昔とがった作品を書いてて、今や古典扱い的な方。
R.W.スミスとかかな。「メトセラ」は昔はやったけど、さすがに今はやらないよね的な。
たぶん、蜷川&ゴールドシアターに批判的なことを言えるのは、業界人にはいないと思うので、ちょっとかっこよく書いてみたけど、いかがでしょう。