『四十九日のレシピ』は、亡くなった後でさえ家族を励まし続けようとする女性の姿に、つまりそこに存在しない人の存在感を感じ、その愛の大きさに心打たれたのかもしれない。
愛だって … 。ふふ。なかなか本気で口にだしては言えないけどね。
今年観たお芝居のうち一番泣けたのは宅間孝行さんの「晩餐」だが、自分の好きな人を守ろうとするあまり、自分の命さえ惜しまない登場人物たちであふれていた。
考えてみると、どちらの作品の登場人物も、口に出して「愛してるっ!」とかは叫んだりしてないのだ。
なのに「愛」としか言い様のない思いが、スクリーンから、舞台からスペシウム光線のように発せられている。 明日は、待ちに待った音楽座ミュージカル「ラブレター」を観劇する。
自分も楽しみだけど、部員のみんなにもきっと何か伝わるものがあるに違いない。
46歳の高校教師が、教え子にラインで大量にメッセージを送って問題となり、処分を受けた。
一ヶ月に1000通ということは、日に30通ちょっと。一方的に送り続けていたのだろうか。
はっきりとしないが、ある程度の「やりとり」はあった風に新聞記事は読めて、だとしたら日に30ぐらいは不思議ではない。まあ、毎日となるとね。勤務時間中だったかもしれないし。あっ、相手が生徒だからか。
でもユメタンのキムタツ先生は、生徒からの質問のメールがくると、ちゃんとやりとりするって書いてあった記憶がある。
その学校では「教員と生徒との私的なメール交信を禁止している」とも書いてあった。
そんな決まりごとが存在することに、もともとその学校はどうなのだろうという感じもした。
教諭は「寂しさを紛らわせたかった」と話しているという。
気持ちはわかる。でも、生徒さんとやりとりしたところで、寂しさは解消しないんだよ。
世間の人は46歳にもなって、というだろう。でも、46歳だからこそ、寂しいことがぼくにはわかる。
今日もいっぱい働いて、生徒さんを送りがてら、車のなかで他愛のない話をかわし、寂しさを紛らしてもらった。
こんな商売でもなければ、若い子とこんなに会話する機会はない。ありがたいことではないか。
ラインとかおれも気をつけよう。
明後日の本番に向けた合奏、企画のつめ。
明日は、学校説明会もある。充実した日々。
ダンスの先生を送った帰りがけ、おやつに食べた山田うどんのかき揚げ丼(単品370円)がたまらなく美味しかった。
学年だより「知識偏重2」
みなさんは、入試で1点でも余計にとるための勉強をし続けなければならない(ていうか、いい加減ちゃんとやった方がいいと思う)。
そのために、どのように時間を使うべきか、どんな方法を身につけるべきかを優先的に考え、知識をどんどん取り込んでいくのだ。
その作業にどれだけ誠実に取り組むことができるかで、人としての成長度合いが決まってくる。
まちがっても「勉強ばかりしていると人間性は育たない」などという世迷い言にのっかり、目の前の現実から逃げるようなことをしてはいけない。
「人はなぜ働くのか」と問われたとき、現実的ないろんな理由を説明することはできるけど、根本の理由は「人だから」につきる。人間と人間以外の動物との最も大きな違いがそこにあるからだ。
親のすねをかじっているみなさんにとっては、勉強が仕事だ。
大学に入る、資格を得るなど、現実的な理由はたしかに存在するが、根本的には仕事だと思ってやるべきものなのだ。
~ 「勉強をすきだーっ」と言う人は少ないでしょう。でも「やるしかない! 学生の仕事は勉強だ!」と思ってください。勉強という一つの行為、取り組みを通して、自分を鍛えるということを考えましょう。学生から大人になっても、全て(人生の全ての時間)が己の好きなことばかり、楽なことばかりということはありません。「いやだな!」「やりたくないな」こんなことに、平然と取り組める、続けられるようになる精神力を養うのが、目的だと思ってください。もし、自分の希望や夢(いくつになっても持てるのです)に対して、へこたれず、愚痴らず、とにかくやり続ける精神力を手に入れたら、人生なんて思うようになります。「とにかく、続ける」。これは最高の財産です。 (美達大和・山村サヤカ&ヒロキ『女子高生サヤカが学んだ「1万人に1人」の勉強法』プレジデント社) ~
特殊な天分に恵まれた人ならともかく、わたしたち一般人が、学校の勉強ぐらいちゃんとできなくて、大きな夢を叶えられるはずがない。
今やっている勉強は、けっして「偏重」と問題視されるほどのレベルにはなってないから。
~ 現在、サヤカさんが勉強する目的は受験だと思いますが、本当はもっと重要な目的があります。
世の中は楽しいこと、好きなこと、簡単なことばかりではありません。そのようなときに、「何にでも平然と取り組める、解決できる、忍耐強く続けられる」という能力を養うための訓練が勉強なのです。目標を決め、計画を立て、自分を管理し、達成するという一連のトレーニングだと考えてください。 ~
そうして、「1点」でもよけいにとるためのトレーニングを続けていくと、自分という器の大きさが変わるときが来る。
昨日の放課後はバンドレッスン、そのあとにアンサンブルをみていただいて、終わったのが10時、メンバーとコンビニに買い出しに行く。
平日にある貴重な休日は、アンコンメンバーのみのプチ合宿だ。
11月14日は、埼玉県民の日でお休みなのです(と、あたかも県外にも多数の読者がいるように見栄張ってみた)。
遅い夕飯のあと、通して時間を計ってみる。いまのテンポ感ではぎりぎりだった。
そのあと、日曜に演奏する曲をアンコンメンバーだけで合奏してみて、スタンドプレーなどを突貫工事で決める。
深夜に合奏してると、その昔合宿にOBが遊びにきて、よし2時から合奏! はいっ! ってやってた時代を思い出したが、若かったなあ。
遅くなってしまったが、それでも朝普通に目覚めてしまうのは、若さではなく年取ったからだ。
シャワーをあびて、セブンイレブンのふんわりハムチーズマヨとコーヒーが朝食。
お休みなので、ネクタイもしなくていいし、週刊文春をひらきながら誰もいない職員室の机でのんびり朝食をとれるのは、幸せな時間だ。
他のメンバーが登校してくる。
午前の個人、パート練習のあと、レッスンで直してもらったことの確認を中心にした合奏。
午後は、スタンドプレーや、踊り子さんの出るタイミングを決める合奏。
さくさくっとだんどりしたかったが、いかんせん曲が吹けてない。
正直難しい曲ではない。でも譜面の音が出ない。吹き方に関する注意も、毎日同じようなことばかりになってしまう。音符をおいながら口先だけの演奏になっている部分もあって、楽器がなってこない。
もう少しなんとかならないものかと思っているうちに時間はすぎ、肉体もつかれてくる。
今月の企画は欲張り過ぎだったかなと思い、居残りの子を送りながらちょっと愚痴ったら、でも先生いろいろあった方が楽しいですよ、と言われて少し立ち直った。
そうだな。それに失敗したって命までとられるわけではないし。
うまくやりたい気持ちをほりさげてみると、その中には俺自身がいいかっこしたいからという部分も混じっているはずだ。
そんなのは忘れて、思い切っていい経験させてあげたい。いい経験になるはずなんだよ。だからもっとくらいついてほしいんだけどなあ。
全身で表現した方が絶対楽しいはずだ。そのために、手を変え品を変えやっているつもりだけど、思うようにならない、ていうか自分の力不足なのがはがゆい。
「世の中は楽しいことばかりではない、そんなとき諦めない人間になるためにも勉強は大切なのです」という主旨の文を学年だよりに書いてしまった手前、あきらめるわけにはいかない。
「人物本位」入試の怪シサ フーコーらの議論から考える
という記事が朝日新聞に載ったのは少し前のことだが、ちょうど教科書でフーコーの話題が出てきたので、「朝日新聞の記者さんも、まあまあ勉強してるみたいだな」と、上から目線で紹介しておいた。
「人物本位」の入試を行うと、「先生からどう見られるか」という意識が常に内在することになり、みんな良い子を演じるようになる、という主旨の文章だ。
~ 彼は近代の試験を「教育実践の中に組み込まれた観察の装置」と位置づけた。「たえず見られているという事態、つねに見られる可能性があるという事態」を作り出し、「個人を服従強制の状態に保つ」ためだ。フーコーは学校のほか病院や監獄にも同じような機能があると見ていた。(田玉恵美「朝日新聞11月6日」) ~
記者さんは書いてないけど、そういうシステムでできている空間を「一望監視装置(パノプティコン)」とよぶ。
教科書で出てきた時、こんな話をした。
「みんな、中学校のときを思い出してごらん。3年にもなると内申書を気にしたりして、とりあえず授業中手をあげておこうとか、音楽の授業中、大きな口あけて歌ってるふりしようとか、思わなかった? そういう状態がパノプティコンにいる状態ということなんだよ。」
そういう状態のなかで人は、「従順な『主体』」に変わっていくと、教科書では表現されていた。
従順な「主体」か。
そうなるんだよね。パノプティコンのなかでは。
そういう学生を、本来大学が求めるべき「人材」と呼ぶとは、思えないのだ。ほんとしつこいけど。
めったにないけど、満員の映画館で、作品もよくて、みんなで一体感をもって笑える空間に居合わせたりすると幸せだ。先日渋谷で観た園子温監督「地獄でなぜ悪い」は、まさにそれだった。
逆もある。広い客席にぽつんと座り、周囲を気にすることなくさめざめと泣いていられるのも、いい。
公開二日目の日曜夕方、南古谷ウニクスのお客さんは4人、「四十九日のレシピ」を味わうのに、このうえない環境だった。
原作を読んで感動したのは、いつ頃だったろう。話の細かい点は覚えてないが、キャストといい、作品全体の雰囲気といい、読んだときのしみじみ感を思い出した。
キャラクターを作りすぎたかなと思った箇所はいくつかある。岡田くんのブラジル人青年役、原田泰造の不倫相手の女性を悪者にしすぎたこと、石橋蓮司のお姉さん淡路恵子さんも強すぎた。永作博美さんも、お芝居のうまさは言うまでもないのだから、あと10%演技抑えめでもいい。
亡くなった石橋蓮司の奥さんの若いころを演じた荻野友里さんが、昭和な感じがよく出ててすごくよかった。
そして、二階堂ふみがとんでもなくいい。キュートかつ達者。「地獄でなぜ悪い」よりさらに2ランクぐらい上、「ヒミズ」のころとは別人だ。どこまで器が大きいのか見当が付かない。男子で、このレベルの若い子がみつからないけど、たんに自分の嗜好ゆえだろうか。
石橋蓮司さんは、ほぼすべての日本映画に出ている感覚があるが、主役あつかいのは初めて観る。
その実力と存在感は圧倒的で、川を眺めて佇んでいる姿をみるだけでこみあげてくるものがある。そこに、亡き妻との若いころの思い出が重ねられたなら、号泣せずにいられようか。
人は亡くなる寸前に自分の人生を一瞬にして思めぐらすという。
ほんとかな。そんな気もするけど、最近思うのは、自分のことより、身内のこととか考えてしまうんじゃないかな、って。
たとえば、仮に自分がまもなく生を終えるとわかったら、そりゃあ未練に思うはずだし、やり残したこともあるし、こんなこともしておきたかった、あの人に会っておきたかった、ぶんぷくのカツ丼をもう一度食べに行っておけばよかったと悔やんだりもするだろう。ただ、それ以上にやはり残される身内のことは考えるだろう。自分が心配するほどのことはないとは思うけど。
自分がいなくなった後、お父さん(夫)は大丈夫かしら、そうじは? ごはんの支度は? ああ心配だ、そうだレシピを書いて残しておこうと書きためた妻の気持ちは、わかる気がする。
自分が死ぬ寸前でも、ごはん食べたか、湯冷めするなよ、帰りが遅いときは気をつけろ、明日は弁当いるのか、とか言っている状態。
そんなことを思うのも、自分が人生の後半に入っているからだろうとは思う。
11月11日(月) 西部地区高校音楽祭@武蔵野音大バッハザール
川越東高校演奏 酒井格「たなばた」
合同オーケストラ演奏 シベリウス「フィンランディア」
全員合唱「大地讃頌」
無事おわりました。遠くまでお越しいただき、ありがとうございました!!
学年だより「知識偏重」
報道で知っている人も多いと思うが、数年後に大学入試制度が大きく変わる流れになってきた。
センター試験が廃止され、大学受験の資格試験が実施される、各大学はさらに人物重視の入試を実施して合格判定する、というものだ(あんまり興味ないですか? そうですか)。
こういう提言がなされると、現状の、つまりみんなが体験している高校の勉強や大学入試に疑問を抱いてしまうかもしれないので、そういうことはないということだけは言っておきたい。
この提言をした「教育再生会議」は、「知識偏重の1点刻みの入試」になっていることが、現状の大学入試の問題点であるという。
「知識偏重の入試から脱却し、意欲や適性も含めた多面的な人物評価で大学進学者を選抜する」ことによって、「グローバル社会に通用する人材を育成」したいそうだ。
では、今の入試制度を生きてる若者は「人材」になれないのか。決してそんなことはない。
みなさんは、入試で1点でも余計にとるための勉強をしている。
これは決して価値の低い作業でもないし、使えない人への道を歩んでいるわけではない。
むしろ、今の課題に、より誠実に取り組もうとすることで、人として成長する。
「受験勉強に偏った生活をしていると、人間性がゆがめられる」という通俗的な問題意識にとらわれてしまっている方が、提言をした人の中にきっといるのだろう。もしくは本当の勉強をした経験の不足している方が。
みなさんはまさに今、入試で1点でも余計にとるための勉強をしている。
微分方程式が解けるようになること、仮定法過去を理解すること、遺伝子の配列を知ること、論語の一節を読むこと … 。
これらに時間を費やすのは、人生のむだだろうか。
たしかに、入試が終わってしまえば、その後の人生では全く必要でなくなる知識も多い。
しかし、その知識を得るために身につけた勉強方法、思考方法はそのまま知的財産になる。
計画を立てて物事に取り組む姿勢、困難を乗り越えて目標達成のためにがんばった経験は、身体にすりこまれる。
~ 「受験勉強を通して学べることは、勉強の知識だけではない。」ということです。
受験勉強を通して、磨いたスピリットは、大学へ行った後も社会へ行った後も結婚した後も、家族を持ってからも、必ず、役に立つのです。
受験勉強は「人生の基盤」を作る。という事なのです。
「ただひたむきに勉強している自分は、今までにないほど成長している。」という事に気が付いたのです。周りの人から信頼されるようにもなりましたし、ずいぶん雰囲気も変わり、人間関係もうまくいくようになりました。 (中谷彰宏氏の言葉) ~
むしろ、今の日本の若者を成長させる汎用的なシステムとして、受験勉強以上に効果的なものは、なかなか見つからないのだ。
じゃ、「タトゥーの方入店お断り」は大丈夫なのかな。
たとえば銭湯では今や一般的な約束だ(そういえばその昔、故郷芦原温泉の実家にまだ家風呂がないころ、「惣湯」とよばれる銭湯に通っていたけど、土地柄もあってか立派な彫りものをまとった人も一緒に入っていたし、普通に会話してた。今はだめなのかな)。
けど、これも先日、生活風習としてタトゥーをしている外国人が来日し、銭湯に入れなくて「差別だ」と訴え、議論になったはずだ。
じゃ、人格によって大学に入れるかどうかが決まるのは、差別にはあたらないのだろうか。
人物入試になれば、面接の比重も大きくなるだろう。
面接では、受験生の見た目も大きく左右する。純粋な見た目以外でも、試験官の好みのタイプというのはあるもので、結果としてかなり恣意性の高い合否判定になるだろう。
ただでさえ忙しい、入試業務などやってられないと嘆く大学の先生が多いなか、恣意性を低めて入試の精度を高めるための十分な時間やコストが割かれるとは考えにくい。
かりにそれが成功し、きわめて正確な人間判断が可能になりました、ということになれば、今度は逆に救いようがなくなる。
つまり、入試に落ちることは、学力の不足ではなく、人としてダメだしされたことになってしまうから。
根本的に、有為な人材を育てるために入試を変えねばならないという発想自体に問題があるのだろう。
けっこう前だけど、朝日新聞「声」欄に、こんな投書があった。
~ 東大は大学改革より入試改革を 無職 宇佐美勝利(横浜市青葉区 70)
東京大学が、秋入学への全面移行を見送って4学期制を導入する方針を固めたという。浜田純一総長の主導で2011年に改革の大花火が打ち上げられたが、今回、秋入学を見送ったのは正しい判断だったと思う。
ただし、4学期制にも疑問が残る。会社決算は四半期決算として3カ月、もしくは中間決算として半年で流れをつかむ。2カ月ごとでは落ち着いて学問に取り組むことは難しいのではないか。長い人生の中でじっくりと腰を落ち着けて勉強できる期間は、若い時では大学ぐらいだ。2カ月単位でひとつのことを学び、成果を出せと言われてもその期間に学んだことは身にはつかないのではないか。
東京大がまず大学の先頭となって取り組むべきは入試改革だ。多額の金をかけて学校や塾へ通い、解答のコツを身につけた学生が合格できる大学が多くては、卒業生も金太郎あめのような、独自の思考力がない人ばかりになる。そうした卒業生が学閥をつくり、形成されるような日本ではますます国が成り下がる。
思い切った入試改革をして、小手先だけではなく応用力のある学生を集める努力をしてほしい。そうすれば海外からも学生が集まる好環境ができるだろう。 ~
現実を知らずに、観念だけでものを言うとこんな風になるという典型的な文章だ。
たとえば「解答のコツを身につけた学生が合格できる大学」とあるが、そんな簡単に東大の問題は解けません。
「入試改革をして、小手先だけではなく」と書かれているが、人物重視の入試が行われるなら、高校現場ではそれこそ面接の練習やら、とりあえずのボランティア体験やら、小手先対策を山ほどやるようになるのは目に見えている。
一番の問題は、大学の教育力を考えてない点だ。
かりに、「知識偏重、1点刻み入試」で、思考力の足りない生徒が入学してきたとする。
それを、変えてあげるのが大学ではないか。
それまでの価値観を疑わせ、物の見方をひっくりかえさせるのが、学問の力ではないか。
今の入試では応用力のない学生しか入ってこないし、その学生は四年後もそのまま卒業することが普通だ、というのなら、大学っていらなくね?
ま、実際現実としてそうなっている部分もあるから、問題なんだけどね。
日本の若者をなんとかしなければならない、ではまず大学入試を変えてなんとかしよう。
こんなんじゃ、若者の前に大人たちの頭の中をなんとかする方が先じゃないかと思ってしまうのだ。
先日、「佐藤治彦のモーニングリポート」(NACK5)で「ホームレス入店お断り問題」が話題になっていた。
八王子のあるマクドナルド店にそういう主旨の張り紙があって、「差別ではないのか」と問題になり、表現が変えられたという。
実際の貼り紙は「当店の利用にそぐわない(不衛生、ホームレス等)と判断した方の利用をお断りさせて頂きます」との文言だったそうだが、これは差別なのだろうか。
長時間聴いたわけではないが、番組にはやはり二方面の意見があったようだ。「ホームレス差別はいけない」派も、「飲食店に不衛生な人が来たら断るのはあたりまえ」派も。ホームレスを生み出す社会に問題があるという変化球もあった。
不衛生でなくても迷惑なお客さんはいると自分は思うけど、じゃどこで線引きするのか言われたらと難しい。
ホームレスでも清潔ならいいのかとか、きれいなお姉さんでも香水のきついのは迷惑だろうとか、各論を言い出すときりがない。そうなると、問題の本質はホームレスかどうかではなくなる。
現実問題として、マックでグラコロバーガーをおいしく食べていたときに、ふと気が付いたら隣の席にいかにもホームレス風の方が座り、においも気になってきたという状況におかれたなら自分はどうするか、どう思うかという、当事者として考えてみないといけないだろう。
おれなら、帰る。それって差別ですか? ちがうんじゃないかな。
で、こうやって正直に書くのも大丈夫かなという思いはあるけど、多くの人がたぶんこういう問題は慎重に語るであろうこと自体も問題で、慎重すぎるゆえにまた問題の本質から離れていく場合があるのがやっかいだ。
放送での佐藤さんの発言がそうなっていると思えた。
佐藤さんは、繰り返し「ホームレスの方」はと言う。
だいたいね、「浮浪者」という言い方が差別的だという判断で、カタカナで表現されるようになったのだ。
使われていくうちに「ホームレス」自体になんらかの差別性をみんなが感じ始めるようになってしまった。
だから自分は差別心はありませんとアピールしながら語るには「ホームレスの方」と言わざるを得ない。
自分もインタビューされたら、立場上、仕事上、かなり慎重に同じような物言いになってしまうだろう。
そしてみんなが慎重になりすぎたり、もしくは批判を恐れて語ること自体をやめてしまうと、差別は潜在化し、しかし決してなくならないという状況になる。
今の日本は、この問題にかぎらず、そういう状況ではないだろうか。
先日見た「42」という映画は、大リーグのチームで初めてプレーした黒人選手を描いていた。
わずか数十年前のアメリカの話だけど、人種差別が公然と存在し、野球場では黒人と白人では観客の入り口も観戦する場所も分けられている。
だから当然、ジャッキー・ロビンソンがフィールド内に現れたとき、大ブーイングが起こる。
それ以前に、チームの選手達が「あいつとはやれない」という嘆願書を出す。
それを断固としてはねのけ、世間の荒波からできるかぎりの防波堤になったのが、オーナーのリッキー(ハリソン・フォード)だった。
リッキーのもとにも、「あいつを使ったら殺す」という脅迫状が山のように届く。
このオーナーの存在がなかったら、メジャーリーグの様子はずいぶん、ひょっとしたら今でもちがっていたかもしれない。
そして、ジャッキーには実力があった。
ヤジにもビーンボールにも、本来味方であるはずのチームメイトからの嫌がらせにも耐える不屈の闘志があった。
ジャッキーのふるまいに、チームメイトも変わっていく。
何より、道なき道を強い意志で歩み続けるジャッキーの姿に心動かされたのだろう。
しかし、相手チームの監督が発する差別的なヤジは、日本人の自分が聞いてても、それが映画上の役だとわかっててもムカついた。
ジャッキーはよく耐えた。おれには無理だ。
そんな彼だったからこそ、人々の偏見を少しずつかえていき、球史に名を残す存在となれたのだ。
今も、年に一度、彼の功績を称え、全メジャーリーガーが背番号「42」をつけて試合をするという話は、知らなかったし、知ってから泣けた。
単純といえば単純なんだけど、差別している人ははっきりわかる。
差別されている人もはっきりしている。
それはよくないという人と、それでかまわんという人がはっきりわかれて対峙しているのだ。
だから差別している側に「おまえはよくない」と言うことができる。
乗り越えるべき困難が顕在化している。
「まあ、そのへんは大人の感覚で」とか「よけいなことは言わない方がいい」とか「いや、差別だなんて、そんな気はさらさらないですよ」と言い合ってる我が国とは、風土がちがうと思った。