ふうっ。今週も終わりが見えてきた。昨日は模試からのバンドレッスン。
模試の監督の間、今日の予習ほかいろいろやろうと思っていたのに、国語の問題を解き始めると、今後やるべきことやら、問題への文句やらがいろいろ湧いてきて、それを夢想しているうちに時は流れ、気づくとバンドレッスンの時間になる。部活に丸々出ると、どうしてもその他の予習の時間などのやりくりが厳しい。
「24時間を有効に使う方法」やら、「できる男は帰りが早い」とか、そんな本を5万冊は読んできたのに、効果がないまま人生終わりそうな気がする。
あらためて予習なんかしなくても、相当のレベルの授業をできるのはわかっているのに、ついさらに上を目指してしまう自分の姿勢は、古今亭志ん朝師匠がつねにネタをさらっていた姿と重なるかもしれない。
新人戦の申し込み締め切りが今日で、先日来部員と演奏曲のミーティングを重ねてきたが、なかなかこれという結論が出ず、もう事後承諾にしてもらおうと昨夜遅くに申し込み書をメールし、今日お金を振り込んだ。
今日の練習は、昨日直していただいたところを確認する合奏、そしてその先音楽座さんの舞台で演奏する曲の譜読み的合奏。
基礎合奏をちゃんとやるべきと昨日お話をいただいたのに、やはり曲ばかりさらってしまった。時間がなあ。
土日だ。土日はきちんと時間とってやろう。
冬乃は、わけあって郷里の長野県須坂市を離れ、夫の佐々井君とともに久里浜で暮らしている。山に囲まれた町から海沿いの町へ。家から少し歩いたところにフェリーの停泊した海が見える環境は、最初のうち、冬乃の人生からは大きな違和感を抱かせるものだった。海がどう見えるかの描写は、そのまま冬乃が久里浜をどう見ているか、自分の人生をどう生きているかを暗示させる。そのへんの自然な描き方はさすがと言うしかない。
その海の町に、長い間疎遠であった妹の菫(すみれ)が尋ねてくる。ぼやを出して住むところがなくなり、しばらく一緒に住まわせてほしいと言う。ともに大柄な姉妹だが、ぽっちゃり系の冬乃は、いくつになっても少年のような体型の菫をうらやましく見ていた。そして高校のときに漫画家としてデビューしてしまった彼女の才能も。
漫画家をすっぱりやめ、姉のもとに居候をはじめた妹は、久里浜でカフェを開くことにする。
で、いろいろあって(全部はしょるんかいっ!)、そのカフェはうまくいくんだけど、やめることになる。
山本文緒。学年はいっこ下。30代の頃その存在を知り、「才気あふるる」という言葉がぴったりの文章を楽しんでいた。直木賞を受賞した『プラナリア』もすごかったが、その少し前の『恋愛中毒』は、「恋は人を壊す」という一文で書き出された冒頭から二百数十頁後の最後の一文まで、一つとして無駄な言葉も文もないと思えた作品だった、って記憶がある。きれっきれの言葉群だった。
彼女の15年ぶりの長編という『なぎさ』は、日本語がしっとりと落ち着いている。湿り気がある。
登場人物のほぼすべてが、何らかの形で心を病んでいる、もしくは病んでいく。
主人公の冬乃も、ブラック会社で身を粉にして働く佐々井君も、その部下の川崎くんも、菫も、菫の恋人か友人かわからないようなモリくんも、佐々井の上司も、川崎くんの不倫相手も。
まともな人いたっけ? あっ、少しいたか。冬乃の相談相手になってくれた地元てぃのおじいさん。
登場人物における病んでいる人比率が高いようにも最初思えたが、実は現実の世界とやはり同じかなと思えてきた。
たとえば、はたから見たら聖人君子にしか見えないであろうこの私も、描き方によってはだいぶ危ない生活に見えてしまうかもしれないし、内面のぐじゅぐじゅを言葉にされたならとんでもないことになる。
昨日も、学校帰りにマクドで今日の予習してたら、若者が三人入ってきて、自分が高校をやめたわけとかいろいろ語り出したので、問題を解くふりをしながら、がっつり聞いてた。「それでいんだよ、がんばれ」と声をかけたい気持ちを抑えるのが大変だった。
そういうレベルで考えたら、ほとんどみんなどこかは「病んでる」のだ。
相手にされない異性をつけまわしていると「あいつはあぶない」と扱われるが、かなわない夢を追い求めている人の場合、そうそう悪くはみられない。両者とも精神状態はそう変わらないのに。
もっと言えば、「病んでる」からこそ人間だ。
久里浜へ来てから勤めはじめた会社は過労で退職し、そのあとに勤めたパート先は人間関係に耐えられず辞めた。求人サイトに登録して職探しをしていた冬乃を、一緒にカフェをやろうと誘ってくれたのが妹の菫だった。
もともと料理好きな冬乃は、他人のためにその力を発揮できることに喜びを覚え、「いらっしゃいませ」と声を出す新しい自分が好きになっていく。
店は軌道に乗り出す。ぼろぼろになって会社を辞めていた夫が、立ち直って一緒にカフェを手伝おうと言ってくれた矢先、「店は手放すことになった」と妹に告げられ、その理不尽さに涙する。
~ 頭の中には果てしなく問いかけが駆け巡ったが、不思議と静かな気持ちだった。
街の音に耳を澄ませて、絶望感と無力感に浸っていると、ふと気持ちの底の方で何か不思議なものがかすかに湧いてきて、私は顔を上げた。
… なにか、以前にはなかった力のようなものが湧いてくるのがわかった。私はもう以前の私じゃない。なにもできない私じゃない。
食い入るように手のひらを見つめていた私は顔を上げた。
店のカウンターの向こう側、コーヒーを淹れて客に手渡ししている制服姿の女性を見る。レジを打って客につりを渡している。少なくともあの仕事は私にもできそうだ。店のガラス窓の向こう、弁当屋がワゴンを出してちょうど納品に来たらしい男性と売り子の女性が話している。売り子も配達も両方ともできそうだ。私の隣でノートパソコンを広げている若いサラリーマン。これは難しそうだが、でも教えてもらえばできないこともないかもしれない。
世界が違って見えた。
… 悲しいのに、生きていけそうな気がした。こんなに泣きたいのに、なんで力がみなぎってきているのだろう。
そんなことを目まぐるしく考えているうち久里浜に着いた。改札を抜けてバスターミナルを見下ろすと、もうそこは見知らぬ町には見えなかった。 (山本文緒『なぎさ』角川書店)~
絶望しながらも、一方で今までと違う自分を感じる冬乃。
妹にひどい目に遭わされたと思う一方で、その経験こそが冬乃を大きく変えていた。
やってみればなんでもできるかもしれない。自分は外で働くのは無理かもしれない、家事しかまともにできないと思っていた自分ではなくなっている。
経験は人を変えるのだ。
経験しか人を変えられないというべきかもしれない。
~ 「私、ちょっと前まで自分は何もできない人間だって思ってたんです。今でも私なんかにできることはすごく少ないって思いますけど、でも今まで自己評価が低すぎたと思うんです。何にもできない、働く自信がないってただ嘆いて、できないんだからしょうがないってどこか開き直ってたところもあったと思います。自己評価が低すぎるのって、高すぎるのと同じくらい鼻もちならないのかもって最近気が付いたんです」 ~
この言葉、なんかよくないですか?
山本さんが、華々しい活躍をした後に心を病んで、しばらく小説をかけずに過ごした日々も、貴重な経験となっているのだろう。
もちろん、そんな経験は本人からすれば、しなくてすむならその方がいいに違いない。
でも、そのおかげもあって、この作品が生まれているなら、読者としては感謝するしかない。
その才能をゆっくりでいいから、今後も形にしていってほしいと願うだけだ。
学年だより「見極め」
~ 「あきらめない」で頑張る姿勢というのは、魅力的で意味のあるものだと思います。
ただし大事なのは、「何に対して、どうあきらめないで頑張るのか」。
たとえば好きな異性がいる。あきらかに拒絶されているのに、「俺はあきらめないぞ!」とつけ回していたら、これはただのストーカー。相手があることに関しては、こちらが一方的にどう頑張ってもダメな時はダメなんです。 (佐藤優『人に強くなる極意』青春出版社) ~
「拒絶」されも、それを望むときにはどうすればいいか。
拒絶されない自分になるしかないのである。
自分が変わらないままで追い求めるのはまさに「ただのストーカー」であり、周囲の人もイタイ存在として見ているのは間違いなく、気づいていないのは自分だけという状態になっている。
それが何であれ、今の時点で自分が望んでいるものと、自分の現状とを考え合わせたとき、「ただのストーカー」になってないだろうか。
松坂大輔選手が「将来メジャーリーガーになって100億円稼ぐ」と小学校の文集に書いていたことが話題になったように、成功した人が、若かりし頃、自分の将来を予言するような夢を紙に書いていたという話はよくある。
ただし考えないといけないのは、「将来プロスポーツ選手になって活躍する」と目標を書いている人は、日本中に相当数いるということだ。実際にはその夢をかなえる人の何倍もいる。
逆に、そのように書かずに、大きな成功を収めた人もたくさんいる。
もちろん「夢は願えば叶う」という言葉を、嘘だとは言わない。
ただし、何を夢と設定するか、そしてそのあとどんな日々を送るかによって、全然結果は異なる。
目標をもつのは大事だ。
たとえ現時点は夢物語のようなものであっても、目標として設定しないことには始まらない。
目標があるなら、その実現に向けての努力を毎日できるかどうかがすべてだ。
一度に何時間取り組んだというより、「毎日」やるという条件はかなり重要だ。
意図的にがんばらなくても、気づいたら毎日その努力をしてしまっていた、という状態になってしまえば、その目標の実現可能性は相当高い。
逆に、よほど無理しないと取りかかれないものであった場合、それは自分に向いてないことである可能性も高い。
~ やはり人にはそれぞれ適性というものがあります。適性のないものにいつもまでもこだわるより、本当に自分の適性に合ったものを探した方がいい。 … 「あきらめない」という気持ちがそうした客観的な判断力を失わせ、かたくなになり、「執着」になると、自分にとって決してプラスになりません。いまの自分の頑張り、「あきらめない」気持ちを冷静に見つめ直して、それが執着になっていないか、まずは見極めることが大切です。 ~
演奏のご案内
11月3日(日)14:00 社会福祉法人「にじの家」ふれあい祭り 招待演奏
演奏曲 潮騒のメロディー、にんじゃりばんばん、RPG、ありがとう、123、オーメンズオブラブ、いつでも夢を、ヤングマン、あまちゃんテーマ
ご来場、ご声援、ありがとうございました!
11月。今年も残すところあと二ヶ月か。
今月本番が4本あるので、あわただしく過ごしている間に師走になってしまうのだろう。
一時間目の空き時間は、そんなことを思いながら予定表を見ているだけで終わってしまった。
二時間目は普通に教科書の現代文。「私を置き去りにする身体」という文章で、相変わらず「デカルトの二元論は … 」というところからはじまる。
ていうか、直接書いてなくてもすべての評論はこの議論を前提にして読むべきなのだろう。
三時間目は、大講堂に集まって人権啓発映画「ほんとの空」を観る。
映像が流れ始めたとき少しざわついたので、静かにしようねという主旨の言葉を絶叫したが、人権映画観るときに(そうでなくても)、大声で罵倒するようなしかり方はいけないと反省した。
作品は、日本人のかかえる人権に関する問題がてんこ盛り状態で、しかし各題材が消化不良になっているわけでもなく、役者さんの演技の質とあいまって、いい出来だったと思う。
白石美帆さんが中学生にお母さん役で、そうかこんな役をやるようになったんだと思いながら、かなり萌えた。あと、中学生役の二人の少年が実に上手だった。
思えば、昔は笑うしかない作品もあった。貴重な時間をつかって無理矢理見せてごめんねと言いたくなるようなのが。
こういう映画こそ、潤沢な資金と、最高のスタッフでつくるべきなのだ。
中途半端な出来のもの(今日のはちがうけど)を見せるくらいなら、時間はかかるけど、普通の映画を見せた方がいい。
「おくりびと」とか「嫌われ松子の一生」とか、教材になる作品はいくらでもある。
是枝監督にオファーをだしたら、ものすごいのを作ってくれるにちがいない。
午後は、明日のにじの家演奏にそなえて、ひととおり通したり、しばらくやってない曲を思い出したりする合奏。 最後に合同オケの「フィンランディア」をちょっとだけ確認し、楽器の積み込み。
居残り組をこれから送って業務終了である。
教科書を使わない、週に一回の国語演習の時間を、学年11クラスのうち8クラスもたせてもらっている。
やることは、徹底的な試験対策。センター試験、二次、私大の入試で1点でもよけいにとるためにどうしたらいいかを教える授業。まさに「1点きざみの知識偏重」が私めの仕事だ。
2学期後半からは現代文の演習で、1回目は、模試に出た「新しい博物学」という文章を扱う。中学校時代に読んだ子もいるかな。
中学校の教科書に載っている部分と異なり、近代科学との 対比が明確に述べられている部分だ。
「要素還元主義」「ミクロ」「サイエンス」「分化」と言った言葉を四角で囲む。
一方「博物学」「自然哲学」「総合知」といった言葉を丸で囲む。
四角で囲んだ言葉が含まれている文には、「~てしまった」「~ねばならない」という表現が用いられていることに気づくことで、筆者の批判の方向性を把握してもらう。
論理的とは、まず「異・同」を明らかにすることである。
これは宇佐美寛先生の教えだ。
問題を解くとき、とりあえず漠然と読んでいる子がいまだ多いように見えるので、この単語は、文は、段落は、それぞれ四角なのか丸なのかと問い、文章を構造化してを把握する作業の練習をする。
2回目は、現代評論を読むために必要な基本知識について話した。
たとえば「物心二元論」とか「機械論的世界観」とか。こういう言葉は、意図的に参考書や問題集を読んだ子でないと知らないままに終わる。
もちろん、自分でしっかり問題演習を積めば自然と身につくが、そこまで現代文に時間を割ける子は本校にはいない。
そして、この近代的思考、近代的価値観をしっかり身につけておくことで、入試のときにちゃんと点がとれるし、大学に入ってから学ぶ学問の土台ともなるはずだ。
こういう勉強しなくてよくなるのかな。
「機械論」とか教えるよりも面接の練習をせよという時代が来るなら、もちろん対応するけど。
さしあたり、入試で1点でも余分にとれるようになるために、論理的に読み、解く練習をしていこうと思う。
ちょー「偏重」しよう。