水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

北陸新幹線

2015年03月14日 | 日々のあれこれ

 

 福井県民一般だったのかどうかはわからないが、幼いころ我が町の人々は、国鉄(いまのJR)を汽車、京福電鉄を電車とよんでいた。
 故郷の芦原と、となりの金津町をつなぐ列車がディーゼル汽車だったし、北陸本線にもディーゼルカーが多数走っていた時代だ。
 その国鉄が廃線になったのは、小学校低学年のときだ。
 今思えば、高度経済成長期のモータリゼーションの発展に伴う、不採算路線に整理という動きだったのだと分かるが、こどもの頃はさびしかった。最後の運行の日のキップを、しばらく大事にもっていた。
 芦原までくる汽車はなくなるけど、隣町の金津駅が「芦原温泉」と駅名を変える、そしてそこは、まもなく完成する北陸新幹線の停車駅にもなるということで、町民納得の廃線だと大人から聞いた。
 新幹線がくる。
 広告の裏に日本地図を書き(そのころほんと上手に地図を書けたのだが、のち塾講師のバイトで社会を教えた時、「先生地図うまい」と言われるくらい役に立った)、東海道新幹線を書き、次に北陸新幹線の路線予想図を書いた。
 富山、金沢、芦原温泉、福井 … と停車予定駅を書き込む。
 つぎに高岡、小松も書いてあげたけど、ライバルの加賀温泉駅は書かなかったかもしれない。
 そんなふうに夢をはせていた子供時代から、40年以上が経った。
 気が付くと上越新幹線ができ、東北新幹線が完成し、長野新幹線、九州新幹線も生まれた。
 鉄ちゃんなわけでもない自分のような一般人が感慨深いのだから、長年尽力してきた関係者にとって、今回の開業をどれほどの思いで迎えたことだろう。
 川越東高校の面接に来たときは、金沢を夜出発して大宮に朝到着する夜行で来た。7時間半くらいの行程だった。
 大宮、金沢間は約2時間で結ばれる。日帰りさえ可能だ。自分のなかでは、すでにどこでもドアに近い。長生きさせていただいた。
 芦原温泉、福井と延伸されるのに、さらに数年が見込まれているが、やっと実現が見えてきたと言える。
 ただしこれで、金沢とその他の土地の経済格差は益々広がるだろうなというのが、おそらくかなり確かな経済予測だ。都市の文化レベルは、長年の蓄積でつくりあげられている。
 6年間暮らした金沢という町に奥深さは、貧しい学生の身にもびしびしと伝った。
 観光客が増え、東京の資本もこれまで以上に入り込んでくるだろうが、自分をしっかり持っている金沢の人は、したたかに町を発展させるに違いない。
 銀座や秋葉原で爆買するタイプの観光客との相性がそれほどでもないことも、たぶんいい方向につながるだろう。
 何はともあれ、一度乗ってきたいな。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

県立発表

2015年03月10日 | 日々のあれこれ

 

  県立高校の合格発表日は、本校の新入生が確定する日でもある。
 午前11時から受付にスタンバる。県立の発表後、すぐに入学金を振り込んで来校される方が次々と訪れる。 
 単願合格者の手続き日のように「おめでとうございます!」とは言えない。
 「不本意ながら仕方なく来た」という空気を身にまとっている生徒さんももちろんいる。
 新たな気持ちで頑張っていこうという気持ちをこめて書類を受け取り、よろしくお願いしますと声をかける。
 途中で校長が来て手を差し出すので、もしやと思ったが、文系、理系の両エースが東大に合格したと知らせてくださる。東大だから、そして東大だけが偉いのではもちろんないが、普通の中学校から入学してきて、まじめに三年間部活動をやりきり、予備校も通わずにトップとされる大学に受かってくれるのは、自分たちの仕事の方向性を確認するうえでも、本当にありがたいのだ。
 15時に手続きが終わり、合計482名の一年生を迎えることができることになった。
 新入学生たちに、後悔のない高校生活を過ごさせてあげたい。
 そのためにも、吹奏楽部への強力な勧誘が必要であろう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老人喰い

2015年03月09日 | おすすめの本・CD

 

  『老人喰い』は、いわゆる「オレオレ詐欺」がどういう「システム」で行われているかを知ることができる。
 そう、システム化されているのだ。ここまできちっと統制のとれた形になっているとは想像もできなかった。
 事務所に集い電話をかけるプレイヤーたち、それを束ねる人、名簿の供給者、「受け子」とよばれるお金の受け渡し役 … 。
 電話役になる人たちの研修の様子や、勤務の実態、またマニュアルの内容なども、実に詳細かつリアルに説明されていて驚く。よくここまで踏み込んで取材できたものだと。
 読んでいると「詐欺」に対する感覚がマヒしてきて、けわしく燃えていた憎悪の心をいつの間にか冷ましてしまった。
 彼らのなかに罪の意識がないのだ。むしろ、ムダに貯め込んでいるヤツらから、金を引き出して社会にまわしている善なる行為と、本気で考えている。
 研修を受けている若者が、詐欺のどこが悪いのかと問われて答えに窮する場面がある。
 「だって、お金だけもらって、それに相当するモノを渡してないではないか」と答えながらも、モノと交換にならない売買関係ならいくらでもあることにも気づく。

 たしかに、具体物ではないものに、われわれは莫大なお金を払っている。
 映画やお芝居や音楽にしても、客観的な基準によって数字に換算される何かがあるわけではない。
 「感動」とか「元気」とか抽象的なものを得たといっても人それぞれだ。
 100グラム何円とかで手に入るモノに比べたら実に不確かなだ。
 美しいものに触れることができた喜びに支払うなら、有名な美術品も、アイドルのライブも同じだし、キャバクラにはまるのと、結婚詐欺の境目を確定するのは難しい。
 夢を売る商売なら、負けてないぜ。
 文武両道、かけがえのない高校生活、豊かな人間性の醸成 … 。
 誰も数字で測ることができないものを、われわれは売り物にしているではないかという気持ちになってたら、こんなインタビューの文句が載っていた。
 大学に入学したものの、経済的事情で進路変更を余儀なくされ、この稼業に足を踏み入れた若者の声だ。


 ~ 「俺はよくよく考えて、大学というか、高校も含めて学校ってもんが日本で最悪の詐欺だって思ったんです。もちろん大学があって教育を受けた人間が日本を支えてるっていうのは分かるんだけど。でも例えば、元々俺は薬学部志望だったんですけど、薬学部って6年制になって、親が全部払うと生活費なんか込みで2000万ぐらいかかるんですよ。もちろんそこそこ収入はあるけど、何年で元が取れるんだよって。
 薬学ならまだしも、文系学部とかFラン(Fランク大学=底辺大学)とか、限りなく詐欺じゃないですか。高い金払わせて『なんとなくキャンパスライフ』って夢みたいなものを売って、そんで卒業しても元取れるような仕事がなくてですよ。『大卒者は仕事を選んでる』って言う奴もいますけど、それこそふざけんなって思う。大学にかけた学費と時間があるから、その割に合わない仕事は選べないのは当たり前だろ。」 (鈴木大介『老人喰い 高齢者を狙う詐欺の正体』ちくま新書) ~


 もちろん本書の主旨は、虚業と実業の境目の曖昧さをついて、詐欺を正当化することではない。
 若者たちが、なぜこんなにも「老人喰いのシステム」に絡め取られていくかという現実を明らかにするものである。
 刻苦勉励して学問を積めばひとかどの人間になれる、経済的貧困から抜け出せる、裕福とまでは言えなくても真面目に働けば健康で文化的なそれなりの暮らしができると、多くの日本人が信じていた時代があった。
 現代史の何年かのスパンをきりとれば、たしかにそういう社会は存在した。
 でも、今はどうか。若者たちが多かれ少なかれ漠然と感じている格差と閉塞感は、こういう対策を講じれば解決するというものではなくなっている。
 振り込め詐欺組織の面々の、能力の高さやバイタリティを感じるがゆえに、その力を別方面でなぜいかせないのかとはがゆく感じる。
 彼らの置かれた暮らしぶりは、川崎市での少年殺害事件の背景と全く同じものであるはずだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シンフォニーからソロモン

2015年03月07日 | 演奏会・映画など

 学年の先生方で食事会にでかける。日の出桟橋からの東京ベイ・クルージングレストラン「シンフォニー」。
 夕暮れ時の東京湾を約2時間遊覧しながら、バイキング形式の料理を楽しむプランだ。
 山手線、ゆりかもめと乗り継いで乗船待合所に向かうと、はとバスが何台も駐まっている。はとバスの会社が運営している船だった。バスから降りて船に向かう団体客が多いが、幅広い年齢層でアベックも多い。
 「ご用意でできましたのでどうぞ」と言われて向かった料理のテーブルは、予想してたよりもバラエティにあふれていた。おいしい。乗船料込みで6200円だから、過大な期待は禁物と心していたが、充分な内容だ。
 カレーがおいしいといっておかわりしてる同僚がいた。バイキングでカレーを大量に摂取できるほど若くはない。かといって、食べずに終わるのもくやしいし、料理も一通りは味わいたいと思うぐらいには枯れてないさ。
 高校生の頃来たかったな。いや、高校時代だと逆に、ちまちま盛られた小洒落たオードブルの値打ちはわからなかったか。いろんなものをおいしいと思えて、元を取るくらいに食べれる年齢って実はかなり幅が狭いのかもしれない。カレーもちらし寿司もそばも食べてスイーツも山盛りにしていた30代同僚がうらやましい。
 夕方出発し、曇っていたのでサンセットは楽しめなかったが、暗くなったあとの東京湾の夜景は実に美しかった。
 さおりやユッコたちに、こっちも楽しんでもらいたかった。
 おなかがくちくなった後、デッキで風に吹かれた。岐阜から来られた女性グループに方々に「写真撮って。きれいにお願い!」と声かけられて、「まかせてください」と普通に撮ったけど、彼女たちをはずして後ろの夜景だけを撮ったら「富岳百景」みたいかなと、国語の先生的なことも思う。

 乗船を終えて、みんなで浜松町まで歩き、そこからは単独行動をとらせてもらい、ナイトショーで「ソロモンの偽証 前編」を鑑賞しにいった。
 軽いアルコールと満腹感で、やべ途中で寝るかもと心配したが、いざ映画が始まると全くの杞憂だった。
 冒頭、尾野真千子が演じる大人の藤野涼子が、教員として母校を訪れるシーンからスタートする。
 なるほど、こうきたか。原作の文庫本で書き足された、その後の「ソロモン」のシーンだ。
 その涼子の視点での回想という形をとるので、状況説明がしやすい。
 文庫なら6巻にもなる長編を前後編とはいえ、映画の尺に収めることがまずは大変だったろうから、適切な手法だ。

 そして18年前の事件の朝。
 ウサギ小屋の世話係で早く登校した涼子は、雪に埋もれて亡くなっている級友の柏木を発見する。
 警察は自殺と断定するものの、「本当は突き落とされたのだ。ボクはそれを見ていた」という投書が送られ、学校内外に波紋が広がっていく … 。

 藤野涼子役をする藤野涼子さんは、全国からの応募によるオーディションで選ばれたという。この映画の前まで素人さんだったとは思えない。ていうか相当なトレーニングを積んできたのだろう。
 今年の主演女優賞は間違いないのではないだろうか。
 他の生徒さんたちもみな上手だ。原作を読んでたときのイメージと、登場する姿とが、重なってたり全然ちがってたりするのも楽しい。神原君はイメージ通りだったけど、柏木君はけっこうちがってたな。三宅さんもよかった。
 脇を固める大人たちがまた豪華な芸達者ばかりで、だからこそ、みんなメジャーな方々なのに、中学生たちをじゃましないようにほどよいオーラの出し方をしているところがプロとしか言いようがない。
 一瞬たりともダレた部分がなく、緊張感を持たせ続けられる。今年観た作品のなかでもっとも短く感じた2時間だった。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三上

2015年03月06日 | 日々のあれこれ

 今日から学年末試験。
 3年生がいないので、1年生の試験監督に入る。
 純粋にはじめて行くクラスだったので、緊張しながら入り、吹奏楽部員を発見してみたが、全力で他人のフリされた。
 一年前に校歌の独唱をした先生だ、ぐらいには見てくれただろうか。いや、眼中に無いな。
 その昔欧陽脩が、「馬上、枕上、厠上」と頭の働くベストプレイスを述べた。
 「乗り物に乗っている時」、「布団で寝ている時」、「便所の中」がいい考えが思いつく「三上」だという教えは、千年を経てもほぼ当てはまるのが面白い。
 そう「教え」だな。
 冷房のきいた部屋の立派な机に向かってる時に勉強ができるのではない。
 電車の中でも、便所の中でも充分勉強できる。
 子供部屋より、リビングで勉強する子が伸びるという話も、これに通じる。
 ちなみに自分にとっては、「東上線の中」「学校のトイレ」「ドトール」が三大プレイスだが、「教室」も匹敵する。 試験監督、とくに模試の監督中が一番いい。授業中にもけっこうひらめく。
 日に一時間でも、こうして監督を与えてういただけるのはありがたい。
 むしろ、職員室より教室にいたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分のために使える時間

2015年03月05日 | 日々のあれこれ

 

 大学入試も国立後期を残すばかりで、今は阪大後期を受ける子の添削指導だけになった。
 その問題を読んでて、ふと隣のページにある英作文の問題が目に入った。

 

 ~ 二十四時間は、あっという間だ。特に睡眠が三分の一近くあるわけで、実質はもっと短い。生きていくために必要な時間があり、人間関係や社会のために拘束される割合も無視できないほどあるから、自分が自分のために使える時間は、残りのほんの僅かなものになるだろう。 (森博嗣『常識にとらわれない100の講義』だいわ文庫) ~


 なるほどと一瞬で納得し、じゃ「自分が自分のために使える時間」とは、どういう時間を指すのだろうかと、さらさらと動き始めようとしていた赤ペンをとめてしまった。
 「生きていくために必要な時間」は、食事や衣服を身につけたりお風呂に入ったりする時間のことだろう。
 仕事は? ここに入るのかな。
 たとえばお弁当を作る時間は? 
 自分で好きなものを作成し詰めてる作業は「楽しみ」サイドにも寄っているので、「自分のため」扱いになるかな。
 スーパーに並ぶようになった菜の花を昨夜買ってきて、ゆでて、純粋なおひたしにした。
 あまっただし汁で、ついでにだし巻き玉子も作る。何作ってるの? とよってきた娘にいいかっこしようと出汁を多めに入れてしまったせいか、後半はけっこう巻きくずしてしまった。学生時代、結婚披露宴用の仕出しの準備をするアルバイト先でだし巻きを担当し、「いつでも雇ってやるぞ」と言われた腕は衰えていた。
 でも、だいじょうぶ。巻き簀でぐるっとしておけば、形はばっちり整えられる。
 この二品に、鶏肉とピーマンの味噌炒め、焼き鮭が今日のおかず。お弁当は自分だけの日だが、家族が昼に食することであろうと多めに作るのは、自分のためか、他人のためか。
 おいしいと思いながら食べる時間は、生きるための時間か、自分の時間か。
  添削は? もちろんその生徒さんが受験で結果を出すことが唯一の目標ではあるが、そのことが自分のことのように嬉しいし、働いている実感もある。これは他人の時間か、自分の時間か。
 「家事を賃金計算したらいくらになる?」という話題が、先日NACK5でとりあげられていた。
 家族のためにご飯を作るのが義務感だったら「他人のための時間」かもしれないが、それが楽しいことだとしたら「自分のための時間」になるのかな。洗濯も掃除も。
 「自分のためではない時間」を、どれだけ「自分のための時間」に変えられるのかが大事なのかもしれない。
 傍からみれば同じように見える姿であっても、その人の過ごしている時間は、実は同じではない。
 睡眠時間でさえも、わくわくする翌日の自分のために眠るのだとしたら、それも全部自分のものになるかもしれないし。
 うん、この文章は、小論文の練習問題にもなりそうだ。ストックしておこう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「幕が上がる」

2015年03月04日 | 演奏会・映画など

 

 原作本を読んだときに好きだったシーンは、合宿の夜。
 寝付けないさおりが、部屋を抜け出して談話室へいく。
 そこのソファに寝転がったユッコが、さおりの書いた台本を読んでいる。


 ~ 私はユッコの横に座った。ユッコはそのままの変な姿勢で、
 「ありがとう」
 と言った。
 「え、なにが?」
 「言いたい台詞ばっかりだよ」  (平田オリザ『幕が上がる』講談社) ~


 映画では、談話室ではなく、部屋のなかだった。
 ベッドに横たわるさおりの隣に、ユッコが潜り込んでくる。
 上からのカメラが二人を撮る。

ユ「ありがとう」
さ「えっ」
ユ「ぜんぶ言いたい台詞ばっかりだよ。」
 
ユ「ごめん、あたし、中西さんに嫉妬してた」

ユ「中西さんとあたしとどっちが好き? う~ん、ていうか、どっちと共演したい。役者として」
さ「ユッコはユッコ、中西さんは中西さん」
ユ「優等生」
 
さ「あたしは、いちばん役者のいいところを出す人」
ユ「あたしは、さおりのセリフを一番うまく言う人。それから、共演者を一番引き立てる人」
さ「そんなことも言えるようになったんだ」
ユ「もおぉ」


 やば。思い出してると、泣きそうだ。
 原作を二時間をおさめるために、割愛されているエピソードや設定もあるが、同時に、台詞の中にうまく埋め込まれているものもある。たぶん、気づいてないだけで、けっこう工夫されているにちがいない。
 必要な台詞はけっこう足されていて、映像の力で人間関係の変化を一瞬にして描ききっているシーンもある。
 キャラの濃い脇役陣が多数出ていることを、全国高文連理事のマンドリン顧問から聞いてて、じゃまになってないのかなと危惧してたのは杞憂だった。
 みなほどよく溶け込んでいた。それだけ原作の強さがあるのだろう。
 原作の深さが、映像化によってさらに鮮やかになり、アイドルももくろの映画というよりも、部活を題材にした青春映画として、歴史に残るものになってることは論を待たない。

 愛おしい場面はたくさんある。
 制服で自転車を漕ぐシーン。
 「本気で指導させてください」って吉岡先生が言うところ。
 中西さんの腕をつかむさおり。
 西新宿の住友ビルの階段から高層ビル街の夜景を見上げるところ。
 「あなたの演出する作品に出てみたいです」と、吉岡先生からさおりへの手紙に書いてあるところ。
 吉岡先生がいなくなった後の部活ミーティング。

 愛おしいわけではないが、しょっちゅう出てくる畑澤聖悟先生の存在感。
 「もしイタ」「原子力ロボ」「修学旅行」の上演風景。
 参宮橋のオリンピックセンター、こまばアゴラ劇場 … 。
 ムロツヨシ先生が彼女たちにおごっていたハンバーグは静岡名物「さわやかハンバーグ」。
 モノノフたちはきっと、あの二人のやりとりにはこんな意味があるとか、背景に流れるあの曲は … とか語るだろうが、こっちは別方面でもっと語れるぜ。
 冒頭シーンで燃やして大道具小道具に「~マシンブルース」って書いてあるのは、本広監督が昔、無名の上野樹里主演で撮った「サマータイムマシンブルース」だ、とか。

 あと特筆すべきなのは、教師役のムロツヨシと黒木華のお芝居だ。
 さすがに、ももくろメンバーとは格のちがいを見せつけるような、若者風にいえば「神」の仕事だった。
 もう、今年はこれが邦画のベストでいいんじゃないだろうか。

 高校生が部活に取り組む姿は、見てる分にはほんとに心打たれ、素敵だ。
 ところが当事者だとねえ … 、そうもいかないことも多々ある。
 だからこそ、現実は映画よりももっと心打たれることもある(はずだ。だから皆さんんがんばりましょう!)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この先(5)

2015年03月03日 | 学年だよりなど

 

  学年だより「この先(5)」


 「素の自分」「ありのままの姿」を大切にし続けることは、丸腰で闘いの場に出ていこうとすることを意味する。
 自分なりに戦闘力を蓄えたつつ、自分の闘える場を冷静に見つけようとしなければならない。
 自分の闘える場を探すことをポジショニングという。


 ~ ポジショニングというのは絶対的な戦闘力ではなく、相対的な戦闘力です。戦闘力でずば抜けていなくても、うまいポジションをとって、相対的に強くなれば、勝てる場合があります。そして勝ちを続けることで、戦闘力自体も磨いていくことができます。
 より戦闘力の高い武器に憧れているだけの、意識の高い(笑)状態ではダメです。戦闘力の高い武器の評論をして満足している場合ではありません。みなさんが行うべきことは、まずは参戦できる最低限の武器を謙虚に磨くこと(つまり、英語と多少の実務経験)。そして、常識にとらわれずに、勝てる見込みのあるポジションをとること。そして、そこで仕事を見つけたら、そのなかでより自分を磨いていくこと。
 できるのはこの三つだけです。王道はありません。 (大石哲之『英語もできないノースキルの文系はこれからどうすべきか』PHP新書) ~


 ただし、みんなは貴重な武器を、すでに相当身につけてきている。
 明るくあいさつできる態度、細かい事務仕事にも耐えられる力、清潔な身なり、健康な身体、素直に取り組もうとする姿勢 … 。
 今の段階でこれらが欠けている場合、大学以降に身につけていくのは実は難しい。
 みなさんの持つ人間的資源は大変な武器になる。ぶっちゃけ、大学の格差的なものを簡単にひっくり返す。これらの武器にさらに磨きをかけ、さらに会うべき人に自分から会いにいけるような学生生活を送ることができたら、鬼に金棒だ。


 ~ 逢うべき糸に 出逢えることを 人は 仕合せと呼びます (中島みゆき「糸」) ~


 みなさんが、この先たくさんの人と出会い、仕合わせな人生を過ごせるようにと祈っています。
 三年間ありがとうございました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この先(4)

2015年03月03日 | 学年だよりなど

 

 学年だより「この先(4)」

 大学生をうらやましいと思う時がある。
 社会的地位の高い人も、有名人も、とにかくどんなに偉い人でも、相手が学生だと気軽に会ってくれることだ。
 大人同士だと、それなりの人を介さないといけなかったり、正式なルートでアポをとってくださいと言われたりする人でも、大学生として手紙を書いて「お時間を作ってください」とお願いすれば、大体は会ってもらえる。
 そこに生まれるのが利害に繋がらない関係であること、学生がまだ何者でもない存在であるからだろう。
 みなさんが、学生である立場を利用し、いろんな世界の人たちと触れあい、様々な現場に生で接して、その空気感を感じる経験を積んだとする。
 すると大学で教えている先生方よりも、もしくは行動範囲の少ない大人達よりも、確かな実社会の動きを感じ取ることだって出来る。
 せっかくそういうことができる立場になれるのだから、就職活動に直接つながりそうなイベントにばかりに気を取られて過ごすのは実にもったいない。
 広く世の中を見れば、いろんな価値観にふれることができる。
 同時に様々な理不尽や不条理の存在を知ることにもなるだろう。
 それこそが正味の経験だ。
 偏差値や学歴や経済的優位性や人脈など、通念として「価値ある」と思われているものを、本当にそれは正しいのかという見方ができるようになる。
 「あいつの大学の方が少し偏差値高い」とか逆に「自分の大学が少し上だ」とかいう感覚が、いかに表層的なものかがわかってくる。
 とはいえ、もちろん今の「素のまま」でいいという話ではない。


 ~ ものごとの戦い方には二種類あります。一つは戦闘力を高める方法。もう一つは戦う場所を変える方法。
 戦闘力を高めるというのは、スキルや経験を高めるということ。これには横み重ねが必要で、将来的にはこれらのスキルや経験の積み重ねは絶対必要です。でも、若い人にとって、そのスタートラインに立つ以前に、スキルや経験を積むチャンスがなくなってしまっているというのが、日本の閉塞感を生んでいる大きな原因です。
 もう一つは、戦う場所を変えるという方法。たった十席の内定のイスをめぐって、学生が何万人も押し寄せるような市場でひたすら戦っていても、戦闘力のない人にとっては、不毛だし疲れてしまう。負け続けるにつれて精神まで病んでしまいます。 (大石哲之『英語もできないノースキルの文系はこれからどうすべきか』PHP新書) ~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この先(3)

2015年03月02日 | 学年だよりなど


  学年だより「この先(3)」


 この先、就職活動の時期を迎えるまでにやるべきことがあるとしたら、「やりたいことさがし」ではなく、自分のスペックを上げることだろう。
 そのために効果的なのは、オタクになることだ。
 とくに自分の選んだ学部学科の内容についてオタク化することは有効だ。
 Aを学びたいと思っていてB学科にしか受からなかった場合でも、そのBを徹底的に深めていくと、Aとも通ずる中身にも触れられるし、自分が当初考えていたAとかBとかの枠組みがいかに表層的なものであったかにも気づく。
 抽象的な言い方になってしまったが、AとBには、ほんとに何を入れてもあてはまることに、いつか気づいてもらえるだろう。
 それくらいBをやると、相当直接的に就職活動での武器にもなるものだ。
 サークルやアルバイトでもいい。漫然とではなく、のめりこんでみると、自分の血肉になる。
 アルバイトはしょせんアルバイトにすぎないと言うけれど、いやいや働いている社員さんよりも、気分良く働いているバイトさんの方が、いい経験を蓄積できる。


 ~ 何年か前、武術家の甲野善紀先生とレストランに入ったことがあった。私たちは七人連れであった。メニューに「鶏の唐揚げ」があった。「3ピース」で一皿だった。七人では分けられないので、私は3皿注文した。すると注文を聞いていたウェイターが「七個でも注文できますよ」と言った。「コックに頼んでそうしてもらいますから。」彼が料理を運んできたときに、甲野先生が彼にこう訊ねた。「あなたはこの店でよくお客さんから、『うちに来て働かないか』と誘われるでしょう。」彼はちょっとびっくりして、「はい」と答えた。「月に一度くらい、そう言われます。」
 私は甲野先生の炯眼に驚いた。なるほど、この青年は深夜レストランのウェイターという、さして「やりがいのある」仕事でもなさそうな仕事を通じて、彼にできる範囲で、彼の工夫するささやかなサービスの積み増しを享受できる他者の出現を日々待ち望んでいるのである。もちろん、彼の控えめな気遣いに気づかずに「ああ、ありがとう」と儀礼的に言うだけの客もいただろうし、それさえしない客もいたであろう。けれども、そのことは彼が機嫌の良い働き手であることを少しも妨げなかった。その構えのうちに、炯眼の士は「働くことの本質を知っている人間」の徴を看取したのである。 ~


 「働くとはどういうことか」という漠然とした問いは、考えて答えの出るものではない。
 まして、やりたいことが見つからないから働かないなどというのはもっての他で、まずは体を動かすところからしか始まらない。


 ~ 「働くとはどういうことか」、働くとどのような「よいこと」が世界にもたらされるのかを知っているのは、現に働いている人、それも上機嫌に働いている人だけなのである。 (内田樹「働くことはどういうことか」『日本の論点2010』文藝春秋より)


 働くとは、唐揚げを7個上げてもらうことなのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする