次の文章は、奥田亜希子の小説「指と筆が結ぶもの」の一節である。妻の従姉妹(絵里)の結婚式に夫婦で招待され、鉄平は万悠子とともに福岡を訪れた。その足で、万悠子を長年かわいがっている祖父母の家を久しぶりに訪ねる。定職に就かずに絵を描いている鉄平のことを、万悠子の祖母はこころよく思っていなかった。以下の文章を読み、後の問いに答えよ。
「でも、旦那さんもラッキーだよね。絵里ちゃん、可愛いし優しいし、a〈 いい 〉奥さんになるんだろうなあ」
「あんね、万悠子。よか奥さんっていうのは、女一人でなれるもんじゃなか。ちゃんと働いとる旦那さんがおるけん、料理ば作ろうとか、家ば守ろうとか思えるっちゃなかとね」
「そんなことb〈 ない 〉よ。うちは私が働いて、鉄ちゃんが料理を作って、それで上手く回ってるもの」
「万悠子、甘やかしたらいけんよ」
ばあさんの言葉に、万悠子の顔が少しずつA〈 険を帯びていく 〉。俺が代わりにばあさんを言い負かすBのは容易(たやす)いが、c〈 たぶん 〉気にしていない素振りでしか、この場は収められない。二人から視線を外し、茶(ちゃ)箪(だん)笥(す)の上の博多人形を眺めた。特に大切にはされていないらしく、うっすらと埃(ほこり)で覆われている。なら、なぜ片づけないのか。どうして夫婦のことが、夫婦だけでは完結できないのか。
「あのね、おばあちゃんが思っているほど、私、不幸じゃないよ」
「そうたい。ばあさん、いい加減にせんか」
「だって」
「鉄平くんは、万悠子が選んだ人とぞ」
じいさんの口調は穏やかで、決して居間の空気を強張らC〈 せ 〉はしない。じいさんが静かに説き続けたことで、やがて万悠子の両親も俺たちの結婚を認めたと聞いている。いわば恩人だ。しかし、①〈 俺はこの人と顔を合わせていると、気持ちが落ち着かなくなった 〉。この人の目が恐い。目の代わりを務めている手が恐い。見えない目で生き続けることは、俺にとっては絶望そのものだ。
じいさんが指の先で見ようとしているものと、俺が筆の果てに見ようとしているものは、まったく違う。そんな相手と、一体なにを共有できるというのだろう。
絵描き仲間にはグループ展や個展を積極的に開いている奴もいるが、俺は興味がない。その場で絵が売れなくとも、人脈を作ったり深くしたり、ゆくゆくは将来に繋(つな)がる活動であることは分かっている。しかし、どうしても気が向かなかった。かといって、コンテストに応募したこともなく、ただ発表する当てのない絵を描いている。美大予備校に通っていたころの恩師が、絵は自分のために描くものとのD〈 信条 〉の主だった影響かもしれない。
俺がなにを描こうと、万悠子は、ふうん、や、へえ、など、気の抜けた相槌を打つだけだ。褒めもしないし、けなしもしない。自分から絵を見せて欲しいと言うこともない。だが一度だけ、展示や公募にはもっと前向きになってみたらどうかと言われた。
「締め切りに合わせて描くのって、嫌いなんだよ」
アトリエとして使っている六畳の和室に俺はいた。俺が絵を描いているところに、公共料金を振り込みにコンビニに行くけれど、ついでになにか買うものはあるかと、万悠子がやって来たのだった。そして、絵――宙に浮かぶすい臓に、老人が頭を預けて座っている――を見て、どこかに出す予定はあるのか、と訊(き)いた。別にない、と答えた。
「締め切りが嫌って……そんな理由なの?」
「あと、人に分かってもらいたいとか、そういうの、俺、あんまりないし」
なぜか②〈 キャンバスから目を離せず、万悠子の声を背中で聞いていた 〉。と、落ち葉を踏んづけたような音が後ろで鳴った。絵の具で汚れないよう、部屋の床や壁はビニール製のシートで覆っている。振り返ると、万悠子が鴨居をくぐり、アトリエに一歩足を踏み込んでいた。
「嘘」
「嘘?」
「じゃあどうして、前に福岡に行ったとき、おばあちゃんがおじいちゃんに絵の内容を説明したら、やめてって怒ったの? どういう絵か、本意じゃない伝わり方をするのが嫌だったんでしょう? 許せなかったんでしょう? ちゃんと伝わらないのは嫌だっていうのと、誰かに分かって欲しいっていう気持ちは同じだよ」
「いや、でも」
万悠子が真剣に腹を立てていることは、万悠子の怒りの愛好家としてよく分かった。万悠子はいつも真面目に怒る。自分の気持ちを正確に真っ直ぐに伝えるため、力を惜しまない。なげやりに言葉を選ばない。だからいいのだ。しかし、そのときは③〈 万悠子の顔を見られなかった 〉。パレットの上の絵の具を、筆で無意味にぐるぐると捏(こ)ねた。
「でも、人前に絵を出すっていうのは、万悠子が思い描いているような、いいことばかりじゃないんだよ。まったく的外れなことを好き勝手に言われたりもする。それで神経を消耗して描けなくなったら、E〈 本末転倒 〉だろ」
「あー、もおっ、鉄ちゃんは自信はないくせに、プライドは高いんだよね。自意識がねじれてるんだよ。つまり、傷つきたくないんでしょう? その上、自分を甘やかしてふわふわ生きていたら、それはもう、ただのねじりドーナツだよ、ねじりドーナツ。私、ねじりドーナツは大好きだよ。でも、あんまりねじれてると、そのうちねじきれて死ぬからね。死因、ねじきれっ」
足を踏みならし、万悠子はアトリエから出て行った。玄関の戸が勢いよく閉まり、外廊下を駆けていく靴音が聞こえる。部屋に静寂が戻ってからもすぐには絵に集中できず、俺は束の間ぼんやりした。
④〈 数十分後、 〉あんなことを言ったら食べたくなっちゃった、と、パン屋でねじりドーナツを買い、万悠子は帰ってきた。紅茶を掩(い)れ、おやつにひとつずつ食べた。甘かった。途中、俺は絡み合っている二本のドーナツ生地を指でほぐしてみた。意外と簡単に離れたが、両手は砂糖と油まみれになった。
万悠子とばあさんが台所に立つと、居間には俺とじいさんだけが残された。最近の気候についてのような無難な会話は長くは続かず、やがてじいさんは、テレビでも観るかい、とひとりごとのように言い、自らリモコンを探してスイッチを入れた。映し出されたのはプロ野球の試合だった。右上に、日本シリーズ第五戦とテロップがある。
場内のざわめきに、応援団の奏でるラッパのメロディ、解説者のコウF〈 ヨウ 〉した声が、たちまち居間に広がった。野球には興味がなかったが、この時間をやり過ごしたい一心で、俺はテレビを凝視していた。カメラのアングルが俯(ふ)瞰(かん)に切り替わる。グラウンドに点在する選手たちは、まるでミニチュアの玩具のようだ。
と、じいさんが頭を下げた。
「うちのがすまんね」
「え?」
「さっきは鉄平くんの仕事んことば、あげんしつこく言いよってから……ちっと意地になっとるだけやけん、悪く思わんとってやってね」
「あ、いや、俺が無職なのが悪いんで」
しどろもどろにそう返すと、じいさんは真面目な表情で首を横に振った。
「鉄平くん」
「はい」
「働こうとか、思わんでよか」
方言のせいか、なにを言われたのか理解するまでに少し時間がかかった。え、と口からかすれた声が漏れ、心臓が振られたように痛んだ。
「自分から働かないかんと思ったり、万悠子が言うけん決めるならよかと思うけど、うちのに言われたから考えるっていうのは違うと思うばい。二人で決めた道ば進むとが、夫婦じゃなかとね」
それだけ言うと、じいさんはテレビに顔を戻した。俺は言葉を失い、⑤〈 しばらく呆然とじいさんの横顔を見つめた 〉。映像に合わせて揺れることのない目は、さざ波も波紋もない湖面のようだ。ひたすらに静かで、だが、その奥には確実になにかが潜んでいる。巨大ななにかがそっと息をしている。
テレビから歓声が上がった。試合が動いたらしい。赤いユニフォームを着た大柄な選手が、一度大きく素振りをしてから打席に入る。投手が振りかぶる。球が手から飛び出す。打者が身体を捻(ひね)り、バットを振った。当たった、と思った瞬間、
「お、いったな」
これはいい当たり、入るか、入るか。アナウンサーの急いた声を乗せ、白球は大きな弧を描く。スタンドに飛び込むと同時に、割れるような大歓声が起こった。入ったー、入りました、逆転2ラン。五回裏、またまた試合がひっくり返りましたー。
「見えないのに、分かるんですか」
パーカの中で、腕が鳥肌を立てていた。アナウンサーよりわずかに早く、じいさんは、いったな、と呟いていた。
「ん? ああ、バットの芯(しん)で捉えた音がしたけんね」
こともなげな口調だった。それを聞いた途端、耳のふちが溶けそうに熱を帯びた。気がつくと俺は、酔いを覚ましてきます、と告げ、立ち上がっていた。
問1 a・b・cの品詞名を順に記したものとして最も適当なものを選べ。
ア 形容詞・形容詞・副詞 イ 形容詞・助動詞・接続詞
ウ 連体詞・形容詞・接続詞 エ 連体詞・助動詞・副詞
問2 Aの意味として最も適当なものを選べ。
ア 人を見下したような表情に変わっていく
イ 腹立たしさでとげとげしい顔つきになる
ウ 言葉がぶっきらぼうになっていく
エ 怒りをこらえじっと唇を噛みしめている
問3 Bと文法的意味が同じものを選べ。
ア 色あせた湖が、丘〈 の 〉多い岸に鋭く縁取られて、遠くかなたまで広がっていた。
イ 自分の幼年時代のいろいろ〈 の 〉習慣や楽しみごとがまたよみがえってきたよ。
ウ もうすっかり暗くなっている〈 の 〉に気づき、わたしはランプを取ってマッチを擦った。
エ その思い出が不愉快ででもあるか〈 の 〉ように、彼は口早にそう言った。
問4 Cと活用形が同じものを選べ。
ア 万悠子が選ん〈 だ 〉人とぞ
イ じいさんが〈 静かに 〉説き続けた
ウ 指の先で〈 見 〉ようとしているもの
エ 一体なにを共有できるというのだろ〈 う 〉
問5 Dと同じ構成の熟語を選べ。
ア 決心 イ 勝敗 ウ 偶然 エ 軌跡
問6 Eとあるが、その使用例として適当でないものを選べ。
ア 学費を稼ぐためのアルバイトが忙しくて講義に出られなくなったら本末転倒だ。
イ 法律を改正することで人々が苦しむのだとしたら本末転倒も甚だしい。
ウ 本の結末だけを読み、時間を短縮しつつ理解しようとするのは本末転倒だ。
エ 勉強時間を削ってオープンキャンパスに行ってばかりいるのは本末転倒ではないか。
問7 F「ヨウ」と同じ漢字を書くものを選べ。
ア 天ぷらを〈 あ 〉げる イ 〈 は 〉ざくらの季節に君を想う
ウ すべてを受け〈 い 〉れる エ 新しい手法を〈 もち 〉いる
問8 ①とあるが、なぜか。最も適当なものを選べ。
ア 目が見えない「じいさん」に見られると、かえって全てを見透かされている気分になり、定職に就かずに好きなことをしている自分が後ろめたくなるから。
イ 目が見えないという、自分が想像もできない現実を易々(やすやす)と受け入れて生きているように見える「じいさん」の姿に、得体の知れない不気味さを感じていたから。
ウ 「じいさん」の穏やかな言葉遣いの裏に潜む、人生の修羅場を経験してきた人の怖さを感じとり、できれば距離を置いて接したいと思っていたから。
エ 「じいさん」が、自分たちの結婚の後押しをしてくれたことはわかっているが、どこかそれを恩に着せる気持ちがあるのではないかと疑っていたから。
問9 ②とあるが、このときの心情を説明したものとして最も適当なものを選べ。
ア 自らが発した言葉の中にある噓を自分でもうすうす気づいているため、そこをつかれて面倒なやりとりになるのを回避したいという気持ち。
イ 絵に対する自分なりの信条に基づいて製作活動をしているのだから、急に思いついたような質問をしてこないでほしいという不快な思い。
ウ 絵に対する自分の思いを語っても、恵まれた家庭環境で何ひとつ不自由せずに育ってきた万悠子には伝わらないだろうというあきらめの気持ち。
エ 自分が書いている絵の意味は本当のところ自分でもわかってもいないが、そのことを素直に告白せずにこの場をやり過ごしたいという思い。
問10 ③とあるが、このときの鉄平を説明したものとして最も適当なものを選べ。
ア 万悠子の怒りが、自分の絵に対する姿勢に向けられたものなのか、自分達の不安定な生活に対してのものなのかは判別できないものの、正面からその問題を話し合うこととなって万悠子が本心を言ってしまうことは避けたいと感じている。
イ 自分の生き方を肯定してくれていると思っていた万悠子が突然怒り出したことに対して、逆に怒りを感じてしまったが、その気持ちが顔に表れ、万悠子に対する愛情が薄れ始めていることを感じ取られてはいけないと心配している。
ウ 自分の気持ちを臆することなく真っ直ぐに人に伝えようとする万悠子を、日頃から好ましく見ているものの、今はその感情の矛先が自分に向き、そのうえ自分に対する批判の内容が的を射たものであるため、さすがに直接面と向かって受けとめられないでいる。
エ 万悠子に寄生して生きているだけと非難されてもしかたないとは思うものの、面と向かってそれを指摘されるばかりか、関係の解消にまで発展することになったなら、自分にはもうどうすることもできないと思いながら顔をそらしている。
問11 ④から始まる段落の表現と内容に関する説明として、最も適当なものを選べ。
ア 近くのコンビニに行くだけなのに、あえて「数十分後」と時間の長さを読者に意識させることで、鉄平に対する万悠子の怒りがいかに深いものであったかを描写している。
イ 「あんなことを言ったら食べたくなっちゃった」というセリフには、鉄平との別れを内心は意識しながら、あえて明るく振る舞おうする万悠子の健気さが感じられる。
ウ ドーナツを食べたあと、思わず「甘かった」と口に出す描写は、人生に対する自分の「甘さ」を鉄平が認識した瞬間であることを印象的に表現している。
エ 「意外と簡単に離れたが、両手は砂糖と油まみれになった」には、万悠子に指摘された自尊心のねじれをときほぐすのは簡単だが、少しの痛みが伴うというイメージが重ねられている。
問12 ⑤とあるが、なぜか。最も適当なものを選べ。
ア 自分の生き方を認めてくれるような予想外の言葉に驚き、祖父のものの考え方に感じ入ったから。
イ 祖母の言葉への謝罪の言葉を聞き、祖父自身も祖母に対して不満を抱いていることが伝わったから。
ウ 仕事に対する考えを述べる祖父の言葉には、思うにまかせない自分の人生への不満が感じられたから。
エ 鉄平夫婦を応援する祖父の言葉から、孫娘の万悠子をいかに大切に考えているかが伝わってきたから。
問13 この文章の表現の特徴に関する説明として最も適当なものを選べ。
ア 祖父母の台詞を完全な方言で再現することで物語にリアリティがうまれ、懐かしい光景のなかに身を置かせるような感覚に読者を導く効果がある。
イ 「俺」という一人称で主人公の視点を統一させ、「じいさん」「ばあさん」という呼び方そのものに「俺」の見方が反映され、人間関係のイメージが明確になっている。
ウ 回想場面をはさむことによって、鉄平が妻の郷里ではなぜこんなに居づらいのかを読者が自然と理解できるような、時間が重層化された構成になっている。
エ 色彩感豊かな比喩表現が多用されることで、目の見えない祖父が感じていることと、鉄平に見えているものとの違いが鮮やかに浮かび上がる。