水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

チアダン

2017年03月12日 | 演奏会・映画など

 

 純粋に疑問なのだが、地方を舞台にした作品で方言は必要なのだろうか。
 福井弁のできがわるかったわけではない。むしろ上手すぎた。どんな言葉も結局は使う人次第なのだという根本的真理にゆきついてしまった。
 けがでメンバーに入れず、ほんとは泣きたいとこなのに、笑顔で「夢はアメリカやよ~」と言うとこは泣いた。
 でも、すずちゃんが福井弁なら、天海祐希さんもなまってた方が自然かなと感じたので。
 お会いしたことなどないが、福井商業の五十嵐先生って福井の方ではないのだろうか。
 関西弁とか、東北や九州方面それとはちがい、一般にはかなり特殊に聞こえてしまうであろう福井弁を、あんなに全面に出さなくても、作品としては成立するはずだ。
 すっかり都会にそまった自分なのに、福井県人的に、作品の捉えられ方を心配してしまった。
 ただ、すずちゃんが標準語で話していたら、福井にそんな子いるわけねえやろと引かれてしまう可能性はあるな。
 中条あやみさんを都会から来た子に設定して、言葉の上でもすずちゃんとの対比をはっきりさせたのはものすごく効果的だ。中条さん自身としても、セリフのストレスを少しでも減らしてお芝居に集中できたのはよかったんじゃないかな。え? こんなにふつうに女優さんやれるんだと驚いた。あと福井弁を話す真剣祐くんは、完全に昔の自分に見えてしまった。
 なんにせよ、JETSのメンバーを演じた女優さんたちは、どれだけ練習を積んだのだろう。吹き替え無しで、あそこまでシンクロさせるのは見事としか言いようがない。
 見終わったあと、本物の福井商業高校の動画をみてみたら、あまりにすごすぎて唖然としたけれど。
 女子高生が主役の作品だが、めっさたくさん作られているコミック原作ものとは異なる、正統派の青春スポ魂ものだ。恋愛要素ももう少しほしい気はするが、物足りなくはない。元ネタの現実があまりにすごいからだろう。
 踊りも歌も演奏も、一番大事なのは笑顔だと心から思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

騎士団長殺し

2017年03月09日 | おすすめの本・CD

 

 「騎士団長殺し」と名づけられた絵画がある(あった)という。
 日本画の重鎮、雨田具彦氏の作である。ただし、現在はその存在が確認されていない …
 というように、もしも「騎士団長殺し」が実在したなら、こんな物語が生まれていてもおかしくはないのかもしれない。
 もちろん、われわれ一般人が当事者として巻き込まれることはまずあらない。
 しかし、この世のどこかで、実際にこんなことがあってもおかしくはない感じがするくらいには現実的だ。
 だから、何かに風刺とか、象徴とかには感じなかった。
 上下二巻を読み切って、いちおう話はおさまっているものの、どこかすべてが解決していないままになっているように感じるのも、この作品のリアルさを支えている条件かもしれない。
 現実の生は、解決しないから。人と人との関係も、人と物との関係も。
 そもそも「解決しない」感じは、作品の冒頭からずっと漂い続けている。
 音楽で言えば、解決しない和音がずっと続いているような。
 そろそろこのあたりで、一回きれいにハモって、句点か、少なくとも読点はつけたいと思うのだが、つきそうでつかない。
 最近おぼえた専門用語でいえば、「Ⅱ・Ⅴ・Ⅰ(ツーファイブワン)」みたいに、一回おちつく部分がないのだ。
 ドミナント、サブドミナントの和音が続き、そろそろトニックに解決するよねと思っていると、え? 何このコード? みたいに落ち着かせない。
 事件がおこり、主人公が苦難を乗り越えて、見事解決する。平和がおとずれ、主人公は、かわいい女の子とラブラブになって幸せになる … というお話なら、安心して読める。
 そういう作品は、読み終わったあとの自分に何を残すのだろう。
 楽しめればいい、という読書はそれでいいし、自分はほぼほぼそんなのばかり読んでいる。 
 ずっとドミナント感覚が続き、作品が終わってからも、自分の存在自体の解決しないモヤモヤ感を残してくれるような小説も、たまにはいい。そうやって読み続けてしまう状態は、その昔「赤頭巾ちゃん」シリーズを読み続けてたときの至福感を思い出させた。
 ドライブ感といってもいいかな。テンポがはやいわけでも、低音がひっぱっていったりもしてないはずなのに、どんどんもっていかれてしまう。グルーブって言うんだっけ。ほんとは国語の先生でもある植田薫氏ならうまいこといってくださりそうな気もする。
 「ララランド」もそういうところがあった。お約束的な解決には導いてくれないところが特に。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私たちはどこへ向かうのか~高部大問氏の教え~(2)

2017年03月08日 | 学年だよりなど

 

 学年だより「私たちはどこへ向かうのか~高部大問氏の教え~(2)」

 ~ 「あなたが今までに一番がんばったことは何ですか?」 ~

 就職面接の第一問として、どんな職種でも必ず問われる質問だ。
 前任のリクルート社で人事に携わり就職の面接官も務め、また営業に移ってから全国各地で様々な会社と関わってきた高部氏はそう言う
 それほど普遍性をもつ問いということであろう。
 大学名や研究内容よりも、この質問に対する答えの方が、よほど重視されるそうだ。
 このように問うことで、問う側は問われる側の何を知ろうとしているのか。
 その人の「考え」ではなく、「考え方」を知るためだ。
 どういうことか。
 将来お医者さんになりたいという希望を持つ、A君、B君二人がいた。
 二人の「考え」はこのように表明される。
 A君「医者になりたい」。B君「医者になりたい」。
 二人にそれぞれ理由を尋ねる。
 A君「幼い頃、身内の大切な人が生死にかかわる大きな病気をした。それを救ってくれたのがお医者さんだった。その頃から、自分もいつか人の命を助けられる人間になりたいと思っていた」
 B君「これまでいいお医者さんに出会えてこなかった。自分が医者になって人の役に立ちたい」
 これが「考え方」だ。表面化された「医者になりたい」という「考え」は同じでも、それを支える「考え方」部分には大きな違いがある。氷山のイメージに近い。
 人の個性は、「考え」ではなく、「考え方」に現れる。
 面接では、それを掘り起こすための質問をしていくという。
 横道にそれるが、そもそも「問い」とは、その問いに対する直接的な「答え」を求めていない場合がほとんどではないだろうか。
 先生が言う、「K君、このゴミ捨てておいて」。K君が答える「ぼくですか?」
 「ぼくですか?」は疑問だろうか。まれにそういう場合もあるが、拒否や抗議、もしくは反抗や猜疑心の表明である場合が多いはずだ。
 親が「勉強してる?」と尋ねるとき、実質は不満の表明だし、つきあっている彼女から「わたしのこと、好きなの?」という問いが発せられたなら、けっこうな危険信号である場合が多そうだ。
 その人は、そう問うことで、何を知りたいのだろう?――「問いの対象化」と名づけたい――と一端立ち止まって考える姿勢は、今後何に対しても必要になってくる。
 今後とりくんでいくことになる本格的な入試問題においても、この感覚が必要だ。
 出題者は、この「問い」によって何を求めているのだろうか、と。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指と筆が結ぶもの

2017年03月07日 | 国語のお勉強(小説)

 

  次の文章は、奥田亜希子の小説「指と筆が結ぶもの」の一節である。妻の従姉妹(絵里)の結婚式に夫婦で招待され、鉄平は万悠子とともに福岡を訪れた。その足で、万悠子を長年かわいがっている祖父母の家を久しぶりに訪ねる。定職に就かずに絵を描いている鉄平のことを、万悠子の祖母はこころよく思っていなかった。以下の文章を読み、後の問いに答えよ。

 

「でも、旦那さんもラッキーだよね。絵里ちゃん、可愛いし優しいし、a〈 いい 〉奥さんになるんだろうなあ」
「あんね、万悠子。よか奥さんっていうのは、女一人でなれるもんじゃなか。ちゃんと働いとる旦那さんがおるけん、料理ば作ろうとか、家ば守ろうとか思えるっちゃなかとね」
「そんなことb〈 ない 〉よ。うちは私が働いて、鉄ちゃんが料理を作って、それで上手く回ってるもの」
「万悠子、甘やかしたらいけんよ」
 ばあさんの言葉に、万悠子の顔が少しずつA〈 険を帯びていく 〉。俺が代わりにばあさんを言い負かすBのは容易(たやす)いが、c〈 たぶん 〉気にしていない素振りでしか、この場は収められない。二人から視線を外し、茶(ちゃ)箪(だん)笥(す)の上の博多人形を眺めた。特に大切にはされていないらしく、うっすらと埃(ほこり)で覆われている。なら、なぜ片づけないのか。どうして夫婦のことが、夫婦だけでは完結できないのか。
「あのね、おばあちゃんが思っているほど、私、不幸じゃないよ」
「そうたい。ばあさん、いい加減にせんか」
「だって」
「鉄平くんは、万悠子が選んだ人とぞ」
 じいさんの口調は穏やかで、決して居間の空気を強張らC〈 せ 〉はしない。じいさんが静かに説き続けたことで、やがて万悠子の両親も俺たちの結婚を認めたと聞いている。いわば恩人だ。しかし、①〈 俺はこの人と顔を合わせていると、気持ちが落ち着かなくなった 〉。この人の目が恐い。目の代わりを務めている手が恐い。見えない目で生き続けることは、俺にとっては絶望そのものだ。
 じいさんが指の先で見ようとしているものと、俺が筆の果てに見ようとしているものは、まったく違う。そんな相手と、一体なにを共有できるというのだろう。

 絵描き仲間にはグループ展や個展を積極的に開いている奴もいるが、俺は興味がない。その場で絵が売れなくとも、人脈を作ったり深くしたり、ゆくゆくは将来に繋(つな)がる活動であることは分かっている。しかし、どうしても気が向かなかった。かといって、コンテストに応募したこともなく、ただ発表する当てのない絵を描いている。美大予備校に通っていたころの恩師が、絵は自分のために描くものとのD〈 信条 〉の主だった影響かもしれない。
 俺がなにを描こうと、万悠子は、ふうん、や、へえ、など、気の抜けた相槌を打つだけだ。褒めもしないし、けなしもしない。自分から絵を見せて欲しいと言うこともない。だが一度だけ、展示や公募にはもっと前向きになってみたらどうかと言われた。
「締め切りに合わせて描くのって、嫌いなんだよ」
 アトリエとして使っている六畳の和室に俺はいた。俺が絵を描いているところに、公共料金を振り込みにコンビニに行くけれど、ついでになにか買うものはあるかと、万悠子がやって来たのだった。そして、絵――宙に浮かぶすい臓に、老人が頭を預けて座っている――を見て、どこかに出す予定はあるのか、と訊(き)いた。別にない、と答えた。
「締め切りが嫌って……そんな理由なの?」
「あと、人に分かってもらいたいとか、そういうの、俺、あんまりないし」
 なぜか②〈 キャンバスから目を離せず、万悠子の声を背中で聞いていた 〉。と、落ち葉を踏んづけたような音が後ろで鳴った。絵の具で汚れないよう、部屋の床や壁はビニール製のシートで覆っている。振り返ると、万悠子が鴨居をくぐり、アトリエに一歩足を踏み込んでいた。
「嘘」
「嘘?」
「じゃあどうして、前に福岡に行ったとき、おばあちゃんがおじいちゃんに絵の内容を説明したら、やめてって怒ったの? どういう絵か、本意じゃない伝わり方をするのが嫌だったんでしょう? 許せなかったんでしょう? ちゃんと伝わらないのは嫌だっていうのと、誰かに分かって欲しいっていう気持ちは同じだよ」
「いや、でも」
 万悠子が真剣に腹を立てていることは、万悠子の怒りの愛好家としてよく分かった。万悠子はいつも真面目に怒る。自分の気持ちを正確に真っ直ぐに伝えるため、力を惜しまない。なげやりに言葉を選ばない。だからいいのだ。しかし、そのときは③〈 万悠子の顔を見られなかった 〉。パレットの上の絵の具を、筆で無意味にぐるぐると捏(こ)ねた。
「でも、人前に絵を出すっていうのは、万悠子が思い描いているような、いいことばかりじゃないんだよ。まったく的外れなことを好き勝手に言われたりもする。それで神経を消耗して描けなくなったら、E〈 本末転倒 〉だろ」
「あー、もおっ、鉄ちゃんは自信はないくせに、プライドは高いんだよね。自意識がねじれてるんだよ。つまり、傷つきたくないんでしょう? その上、自分を甘やかしてふわふわ生きていたら、それはもう、ただのねじりドーナツだよ、ねじりドーナツ。私、ねじりドーナツは大好きだよ。でも、あんまりねじれてると、そのうちねじきれて死ぬからね。死因、ねじきれっ」
 足を踏みならし、万悠子はアトリエから出て行った。玄関の戸が勢いよく閉まり、外廊下を駆けていく靴音が聞こえる。部屋に静寂が戻ってからもすぐには絵に集中できず、俺は束の間ぼんやりした。
 ④〈 数十分後、 〉あんなことを言ったら食べたくなっちゃった、と、パン屋でねじりドーナツを買い、万悠子は帰ってきた。紅茶を掩(い)れ、おやつにひとつずつ食べた。甘かった。途中、俺は絡み合っている二本のドーナツ生地を指でほぐしてみた。意外と簡単に離れたが、両手は砂糖と油まみれになった。

 万悠子とばあさんが台所に立つと、居間には俺とじいさんだけが残された。最近の気候についてのような無難な会話は長くは続かず、やがてじいさんは、テレビでも観るかい、とひとりごとのように言い、自らリモコンを探してスイッチを入れた。映し出されたのはプロ野球の試合だった。右上に、日本シリーズ第五戦とテロップがある。
 場内のざわめきに、応援団の奏でるラッパのメロディ、解説者のコウF〈 ヨウ 〉した声が、たちまち居間に広がった。野球には興味がなかったが、この時間をやり過ごしたい一心で、俺はテレビを凝視していた。カメラのアングルが俯(ふ)瞰(かん)に切り替わる。グラウンドに点在する選手たちは、まるでミニチュアの玩具のようだ。
 と、じいさんが頭を下げた。
「うちのがすまんね」
「え?」
「さっきは鉄平くんの仕事んことば、あげんしつこく言いよってから……ちっと意地になっとるだけやけん、悪く思わんとってやってね」
「あ、いや、俺が無職なのが悪いんで」
 しどろもどろにそう返すと、じいさんは真面目な表情で首を横に振った。
「鉄平くん」
「はい」
「働こうとか、思わんでよか」
 方言のせいか、なにを言われたのか理解するまでに少し時間がかかった。え、と口からかすれた声が漏れ、心臓が振られたように痛んだ。
「自分から働かないかんと思ったり、万悠子が言うけん決めるならよかと思うけど、うちのに言われたから考えるっていうのは違うと思うばい。二人で決めた道ば進むとが、夫婦じゃなかとね」
 それだけ言うと、じいさんはテレビに顔を戻した。俺は言葉を失い、⑤〈 しばらく呆然とじいさんの横顔を見つめた 〉。映像に合わせて揺れることのない目は、さざ波も波紋もない湖面のようだ。ひたすらに静かで、だが、その奥には確実になにかが潜んでいる。巨大ななにかがそっと息をしている。
 テレビから歓声が上がった。試合が動いたらしい。赤いユニフォームを着た大柄な選手が、一度大きく素振りをしてから打席に入る。投手が振りかぶる。球が手から飛び出す。打者が身体を捻(ひね)り、バットを振った。当たった、と思った瞬間、
「お、いったな」
 これはいい当たり、入るか、入るか。アナウンサーの急いた声を乗せ、白球は大きな弧を描く。スタンドに飛び込むと同時に、割れるような大歓声が起こった。入ったー、入りました、逆転2ラン。五回裏、またまた試合がひっくり返りましたー。
「見えないのに、分かるんですか」
 パーカの中で、腕が鳥肌を立てていた。アナウンサーよりわずかに早く、じいさんは、いったな、と呟いていた。
「ん? ああ、バットの芯(しん)で捉えた音がしたけんね」
 こともなげな口調だった。それを聞いた途端、耳のふちが溶けそうに熱を帯びた。気がつくと俺は、酔いを覚ましてきます、と告げ、立ち上がっていた。


問1 a・b・cの品詞名を順に記したものとして最も適当なものを選べ。
 ア 形容詞・形容詞・副詞     イ 形容詞・助動詞・接続詞
 ウ 連体詞・形容詞・接続詞   エ 連体詞・助動詞・副詞

問2 Aの意味として最も適当なものを選べ。
 ア 人を見下したような表情に変わっていく
 イ 腹立たしさでとげとげしい顔つきになる
 ウ 言葉がぶっきらぼうになっていく
 エ 怒りをこらえじっと唇を噛みしめている

問3 Bと文法的意味が同じものを選べ。
 ア 色あせた湖が、丘〈 の 〉多い岸に鋭く縁取られて、遠くかなたまで広がっていた。
 イ 自分の幼年時代のいろいろ〈 の 〉習慣や楽しみごとがまたよみがえってきたよ。
 ウ もうすっかり暗くなっている〈 の 〉に気づき、わたしはランプを取ってマッチを擦った。
 エ その思い出が不愉快ででもあるか〈 の 〉ように、彼は口早にそう言った。

問4 Cと活用形が同じものを選べ。
 ア 万悠子が選ん〈 だ 〉人とぞ
 イ じいさんが〈 静かに 〉説き続けた
 ウ 指の先で〈 見 〉ようとしているもの
 エ 一体なにを共有できるというのだろ〈 う 〉

問5 Dと同じ構成の熟語を選べ。
 ア 決心   イ 勝敗   ウ 偶然   エ 軌跡

問6 Eとあるが、その使用例として適当でないものを選べ。
 ア 学費を稼ぐためのアルバイトが忙しくて講義に出られなくなったら本末転倒だ。
 イ 法律を改正することで人々が苦しむのだとしたら本末転倒も甚だしい。
 ウ 本の結末だけを読み、時間を短縮しつつ理解しようとするのは本末転倒だ。
 エ 勉強時間を削ってオープンキャンパスに行ってばかりいるのは本末転倒ではないか。

問7 F「ヨウ」と同じ漢字を書くものを選べ。
 ア 天ぷらを〈 あ 〉げる    イ 〈 は 〉ざくらの季節に君を想う
 ウ すべてを受け〈 い 〉れる  エ 新しい手法を〈 もち 〉いる

問8 ①とあるが、なぜか。最も適当なものを選べ。
 ア 目が見えない「じいさん」に見られると、かえって全てを見透かされている気分になり、定職に就かずに好きなことをしている自分が後ろめたくなるから。
 イ 目が見えないという、自分が想像もできない現実を易々(やすやす)と受け入れて生きているように見える「じいさん」の姿に、得体の知れない不気味さを感じていたから。
 ウ 「じいさん」の穏やかな言葉遣いの裏に潜む、人生の修羅場を経験してきた人の怖さを感じとり、できれば距離を置いて接したいと思っていたから。
 エ 「じいさん」が、自分たちの結婚の後押しをしてくれたことはわかっているが、どこかそれを恩に着せる気持ちがあるのではないかと疑っていたから。

問9 ②とあるが、このときの心情を説明したものとして最も適当なものを選べ。
 ア 自らが発した言葉の中にある噓を自分でもうすうす気づいているため、そこをつかれて面倒なやりとりになるのを回避したいという気持ち。
 イ 絵に対する自分なりの信条に基づいて製作活動をしているのだから、急に思いついたような質問をしてこないでほしいという不快な思い。
 ウ 絵に対する自分の思いを語っても、恵まれた家庭環境で何ひとつ不自由せずに育ってきた万悠子には伝わらないだろうというあきらめの気持ち。
 エ 自分が書いている絵の意味は本当のところ自分でもわかってもいないが、そのことを素直に告白せずにこの場をやり過ごしたいという思い。

問10 ③とあるが、このときの鉄平を説明したものとして最も適当なものを選べ。
 ア 万悠子の怒りが、自分の絵に対する姿勢に向けられたものなのか、自分達の不安定な生活に対してのものなのかは判別できないものの、正面からその問題を話し合うこととなって万悠子が本心を言ってしまうことは避けたいと感じている。
 イ 自分の生き方を肯定してくれていると思っていた万悠子が突然怒り出したことに対して、逆に怒りを感じてしまったが、その気持ちが顔に表れ、万悠子に対する愛情が薄れ始めていることを感じ取られてはいけないと心配している。
 ウ 自分の気持ちを臆することなく真っ直ぐに人に伝えようとする万悠子を、日頃から好ましく見ているものの、今はその感情の矛先が自分に向き、そのうえ自分に対する批判の内容が的を射たものであるため、さすがに直接面と向かって受けとめられないでいる。
 エ 万悠子に寄生して生きているだけと非難されてもしかたないとは思うものの、面と向かってそれを指摘されるばかりか、関係の解消にまで発展することになったなら、自分にはもうどうすることもできないと思いながら顔をそらしている。

問11 ④から始まる段落の表現と内容に関する説明として、最も適当なものを選べ。
 ア 近くのコンビニに行くだけなのに、あえて「数十分後」と時間の長さを読者に意識させることで、鉄平に対する万悠子の怒りがいかに深いものであったかを描写している。
 イ 「あんなことを言ったら食べたくなっちゃった」というセリフには、鉄平との別れを内心は意識しながら、あえて明るく振る舞おうする万悠子の健気さが感じられる。
 ウ ドーナツを食べたあと、思わず「甘かった」と口に出す描写は、人生に対する自分の「甘さ」を鉄平が認識した瞬間であることを印象的に表現している。
 エ 「意外と簡単に離れたが、両手は砂糖と油まみれになった」には、万悠子に指摘された自尊心のねじれをときほぐすのは簡単だが、少しの痛みが伴うというイメージが重ねられている。

問12 ⑤とあるが、なぜか。最も適当なものを選べ。
 ア 自分の生き方を認めてくれるような予想外の言葉に驚き、祖父のものの考え方に感じ入ったから。
 イ 祖母の言葉への謝罪の言葉を聞き、祖父自身も祖母に対して不満を抱いていることが伝わったから。
 ウ 仕事に対する考えを述べる祖父の言葉には、思うにまかせない自分の人生への不満が感じられたから。
 エ 鉄平夫婦を応援する祖父の言葉から、孫娘の万悠子をいかに大切に考えているかが伝わってきたから。

問13 この文章の表現の特徴に関する説明として最も適当なものを選べ。
 ア 祖父母の台詞を完全な方言で再現することで物語にリアリティがうまれ、懐かしい光景のなかに身を置かせるような感覚に読者を導く効果がある。
 イ 「俺」という一人称で主人公の視点を統一させ、「じいさん」「ばあさん」という呼び方そのものに「俺」の見方が反映され、人間関係のイメージが明確になっている。
 ウ 回想場面をはさむことによって、鉄平が妻の郷里ではなぜこんなに居づらいのかを読者が自然と理解できるような、時間が重層化された構成になっている。
 エ 色彩感豊かな比喩表現が多用されることで、目の見えない祖父が感じていることと、鉄平に見えているものとの違いが鮮やかに浮かび上がる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問題探し

2017年03月06日 | 日々のあれこれ

 

 学年末試験二日目は、おだやかな一日。試験明けからてんてこまいになるはずだから、のんびりしようという気持ちと、少しでもやることをやっておこうという気持ちがいったりきたりで、とりあえず机周りの整理をする。
 しばらく授業も講習もないので、部活系のものを手近なところにおき、試験問題作成グッズなどは奥においやる。
 先日の埼玉県の入試問題で、武田綾之さんの「白線と一歩」から出題とあった。
 高校の放送部が舞台の小説だ。明らかに見覚えがあり、調べてみると昨春の雑誌「小説現代」に掲載された作品だった。
 自分も、あれこれ探している時期だった。
 そんな時期に「青春部活小説特集号」とのタイトルを目にしたから、速攻で購入し、舌なめずりしながらいくつか読み、これも候補の一つにしていた。県立の先生も、考えることは同じか。
 今一つ設問が作りきれなかったので使わなかったけど、埼玉県はいい感じの問題がつくられている。
 それにしても、中学や高校を舞台にした小説を、毎年よく見つけてくるものだ。
 ちなみに本代は経費でおちるのだろうか。ちなみにうちはだめ。
 だから自分が読みたい本中心で探し、今年は奥田亜希子さん『ファミリー・レス』から作らせていただいた

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

彼らが本気で編む時は

2017年03月05日 | 演奏会・映画など

 

  とりたてて行う人権教育の時間は、それように製作された映画を観てもらうことが多い。ただし作品は玉石混交で、これでは逆効果ではないかとまで思ったものも前にはあった。もちろん、よくできているものものもある。
 どんなジャンルの作品でもそうだけど、志と技量の両方が要る。どんなにアツい思いを持っていても、それを表現するに足る基本的な技術なしには、よい作品は生みだしえない。(なんかバンドに問題点を指摘されてる言葉みたくなってしまった … )
 その点、もともと商業用の作品は、どちらもクリアしてないと作らせてもらえないから、一定のレベルに達していることは間違いない。
 「その演出はちょっと … 」「もう少しセリフを練るべきだったのでは」「この役は、たとえば○○みたいな役者さんだったらなあ」というような教育用映画に感じられる物足りなさは回避されている。
 今思えば、昔のはきびしいのがけっこうあったなあ。
 それに今とちがって、そういうまやかしを許してくださる生徒さんではなかったので、大騒ぎになってしまい、こっちも若かったので「うるせぇ、静かにみれねぇのか、ぼけ」「なんだ、やんのか」「なんだ、その口のききかたは」「まあまあ」みたいなやりとりをしてしまって、どこが人権教育なんだろという時間だった。

 昨年は総合の時間を使っての映画鑑賞で「あん」を観た。
 小さなどら焼き屋を舞台にして、ハンセン病を扱った作品だ。
 劇場用に、樹木希林、永瀬正敏、内田伽羅、市川悦子、浅田美代子、水野真紀、太賀さんというキャストで、河瀬直美監督が撮った作品だ。派手さはないが、佳い作品だった。
 生徒さんたちも二時間弱よく集中していた。やはり作品そのものの力によるところは大きい。
 人権教育担当の先生方、グッジョブ!

 見終わった翌日に、こんどはこれを見せたらどうでしょうと進言したのが、この映画だ。
 性同一障害から、手術をして女性のからだを手に入れた主人公を生田斗真くん。
 その恋人に桐谷健太。よく知らないが、神がかり的に上手な子役の女の子。
 門脇麦、小池栄子というフィジカルの強い女優さんもアクセントになり、難しいテーマだが、エンタメとしても成立し、笑わせられながらも、途中から涙がとまらなかった。
 バラエティ番組に、おねぇ系のタレントさんが出ていたり、手術した方も出られて、時にはおもしろおかしく話をしてくれるけれど、どれだけ大変な思いをしてきたことだろう。
 「自分のことのように」思ったり感じたりすることはできないけれど(そういうことをしなさいというほど傲慢にはなりたくない)、想像する努力は必要だ。それは通常思いやりとよばれる。
 直接体験することが無理な場合には、本や映画での間接体験をするしかなくて、それらは、できれば上質なものがいい。上質な作品は、「そのテーマ」を越えていく。
 この映画も入り口は性転換手術をした主人公と周囲の人たちとの向き合い方だ。その周囲の人々もそれぞれにそれぞれの事情を抱え、乗り越えながら生きていく姿が浮かび上がってくる。
 基本的に、人と人とは異質なもの同士だ。たとえ親子であっても。異質な存在同士が、わかりあい、よりそうあうには、何か手立てはあるのだろうと最後には思いやらせられる、見事な作品だった。でも、どうだろう、「ララランド」や「相棒」ほどにはお客さん入らないのかな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鍵泥棒のメソッド

2017年03月03日 | 演奏会・映画など

 

 卒業式。今年は、送辞、答辞ともに本当によかった。なんであんな心のこもった文章がかけるのだろう。
 うらやましい。無事演奏も終えて、片付けをし、試験の印刷をし、夕方サンシャイン劇場に向かい、キャラメルボックス「鍵泥棒のメソッド」の再演を観る。内田ケンジ監督の映画を、キャラメルボックスが舞台化したのは3年前になる。「どうやって?」と驚いた。とにかく一つ一つのシーンへの情報量がはんぱなく多い作品というイメージがあったからだ。もちろん、杞憂だった。過剰な情報量を、舞台で同じように表現しようとするのではなく、むしろ最小限にすることで、観る側にゆだねてしまっていた。映像ではなく生身の肉体は、実に多くのことを語る。いや、そうできる人を役者さんと言うのだろう。
 そのときはWキャストで、ヒロインを岡内美喜子さんが務めるホワイト版、渡邊安理さんのブラック版とあり、両方観た。映画の広末涼子さんも含めて、自分的には渡邊安理さんバージョンが一番しっくりきた。
 もちろんどのパターンの作品もすばらしかったことは言うまでもないし、おおもとの映画版は邦画の歴史に残る作品だろう。内田監督の新作が観たい。
 それほど時を経ずして再演された今回は、実川貴美子さんがヒロインで、キャラメルボックスのなかでは正統派系なお芝居をされる女優さんだ。渡邊安理さんとは対照的なツンデレぶりが実によく役にはまっていた。
 同じ演目でも、役者さんによって別種の、かつ高水準の別バージョンをなんなく用意できるところがキャラメルボックスさんのすごいところだ。
 終わったあと、北朝霞で懇談している男祭り関係者の打合せに合流し、定演やらその先のことを語った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私たちはどこへ向かうのか

2017年03月01日 | 学年だよりなど

 

    学年だより「私たちはどこへ向かうのか~高部大問氏の教え~」


 通常の人生を想定すれば、私たちはその大半を「社会人」として過ごす。
 ずっと子供でいられたら、または学生でいられたなら、楽かもしれないが、そうもいかない。
 社会に出ることを「海に出る」とたとえながら、高部氏はお話を進めていく。
 海への出方は、大きく分けて「船を出す」「船に乗る」の二種類あるという話を聞きながら、時代は変わったと思った。
 一昔前は、「船を出す」つまり自分で起業することが、「船に乗る」就職との並立にはならなかった。ごく限られた人だけが選ぶことのできる、特別なことだったからだ。
 しかし、今は状況が異なる。高部氏もおっしゃっるように、五年後、十年後の世の中に、どんな職業があり、どんな仕事があるかは、誰もわからなくなっている。
 AIが人間に置き換わっていく仕事は、加速度的に増えていくだろう。
 誰もがあこがれていた企業が姿を消すことも、珍しくないだろう。
 そんな状況下で、何かやりたいことがあるなら、むしろ自分で会社をつくってやり始めてしまう方が手っ取り早い。
 実際に、中学生が会社をつくった、女子高生社長が利益をあげているといった話題も目にする。
 会社を興すには資金が必要だ。もちろん、ほんのわずかなお金で会社の登記だけはできるが、事業という形にするには、ある程度のお金は用意しなければならない。
 やりたいことをやりたい、人に使われたくないと思うなら、すぐに起業すればいいと、ホリエモンこと堀江貴文氏はいつも言う。
 資金がないなら、借金すればいいだけだ。お金がたまるまで待つことほど時間のムダはないと。
 もしお金が借りられないとしたら、それは力が足りないのではなく、信用が足りないのだ。


 ~ 起業するお金がなく、銀行も貸してくれないというのなら、親や友人から借りればいいだろう。それができない人は、お金ではなく信用が足りないということなのだ。
 だから、まず貯めるべきはお金ではなく、信用ということになる。人から何か頼まれたら、期待に応えるように尽くす。金欠の知り合いに、飯をおごる。
 そうした行為の積み重ねが信用を築いていく(しかも、そもそも起業に関する金銭的ハードルは、今では大分下がっている!)。 堀江貴文『本音で生きる 一秒も後悔しない強い生き方』SB新書) ~


 就職ではなく起業するという選択肢をもつべき時代になったのだ。ただし、その実現に必要なのは、経営学的な知識やら、表面的な人脈とかではなく、他人から信頼される人間性だ。
 社会が「海」なら、大学は「プール」だと高部氏は述べていた。
 泳ぎ方を学ぶ場所だ。本物の船の航行の仕方、させ方を学ぶ場と考えることもできる。
 高校は、プールに入る準備の場と言えるだろうか。水着に着替えること、シャワーを浴びること、準備運動をすること。「おはようございます!」「お願いします!」と言えること。「当たり前のこと」を当たり前にできるようになること。これらすべてが自分の未来のための準備になっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする