今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

関東大震災の慰霊堂で知ったこと

2023年09月02日 | 防災・安全

関東大震災から100年目の震災記念日の翌日、墨田区にある東京都慰霊堂および復興記念館に行った(2011年にも訪れている→記事)。
関東大震災について学び、犠牲者を慰霊する唯一の場所だ(東京大空襲の犠牲者も)。

この地は国技館に近いこともあり「横綱町公園」となっているのだが、大正時代には「被服廠(ひふくしょう)跡」という広場になっていた。
そこに大地震で家を失った人々が集まり、当時は大八車に家財道具などを積んで避難したため、折からの強風で飛んできた火の粉がそれらの布や木材に着火し、この広場一帯が火の海となり、この一ヶ所で38000人もの焼死者を出した(一ヶ所での焼死者数では、信長が一向宗徒を柵で囲って焼き殺した20000人を上回る)
そこは数日後には遺体の焼き場になり、そして遺骨の埋葬場となった。
その跡地は公園を予定してたのだが、こういうわけで昭和5年に慰霊堂が園内に建てられた(写真)。
慰霊堂の建物は、前半部が寺院の本堂の形で、ここで慰霊祭が行われ、後半部が三重塔でここに遺骨が納められている。

慰霊堂では2日も午後三時に慰霊祭が開催され(本日の主催は都神社庁)、正午過ぎに着いたら、神官らしき服装の数人だけが、最前列で慰霊の準備をしている。
祭壇前のすでに用意されている献花には、秋篠宮、内閣総理大臣、東京都知事などの名前が記してある。
私も線香に火を灯し、鈴(リン)を鳴らして、合掌した(このように記念堂そのものは仏式)。

次に堂の斜向かいにある復興記念館に入る。
こちらも戦前の重厚な建造物で、中はひんやりしている。
2011年に訪れた時とは展示内容も異なって、新たな情報を得た。

最も驚いたのは、当時の被災風景の写真は、被害を大きく見せるために、火災の煙を合成していたということ(写真:展示写真を撮影)。
この震災だけでなく、当時は、こういう細工が平然と行なわれていたという。
私自身の関東大震災の風景として記憶の中にあった、被災した建物の背後に濛々と立つ煙(≒ジブリアニメ「風立ちぬ」の震災シーン)は、誇張だったのだ。
100年前からフェイクニュースが作られていたとは。

言い換えれば、震災の被害を正しく伝えることの重要性をあらためて感じた。
ならば実際の被害はもっと軽微だったのかというと、そうではない。
たとえば、一番の被害地である「被服廠跡」での焼死者の写真(最も悲惨な状況)は展示されていない(本の写真集で見た事がある)。
このため、ここの展示だけでは被服廠跡の惨事のイメージがわきにくい。
同館にある空襲の展示では、炭化した焼死体の写真があるのだが。

それと、この震災によって火災の延焼を食い止めたのが、上野公園などの並木や広場であったことが判明し、これによって広域避難場所としての公園が整備されることとなる(ただし燃えやすい物を持込んで避難しないこと)。

慰霊堂の横には、朝鮮人犠牲者追悼碑があって、昨日の震災記念日に慰霊祭が行なわれたようだ。
彼らもフェークニュースを信じた人たちによる犠牲者である(彼らを自警団から守った日本人たちもいた)。
ここでも合掌した。
最後に慰霊堂裏側の三重塔側にまわって、そこの閉じられた入口でも合掌した。

ここから安田庭園を抜けて、国技館入口を素通りし、総武線の線路をくぐった先の回向院(えこういん)に立ち寄る。
ここは、江戸時代に引き取り手のない横死者供養のために建てられた寺で、江戸の火災や海難者の供養碑に並んで、関東大震災の横死者90余名の墓があるのだ(写真:左のこちら側の碑。碑には人名が記されてない)。
もちろん、ここでも合掌した。
この寺は、その他に動物の供養も(江戸時代から)受け付けていて、ペットの集合墓地(霊廟)もある。
真新しい立派な愛猫供養碑の上では、生きているネコが体を伸ばして眠っていた。

かように関東大震災の供養なら、慰霊堂と回向院を廻るといい。

それにしても、これらを廻っただけで、汗びっしょり。
気候的には、まだ歩き回る時期ではない。


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