かつての日本は軍国国家であったと覚えている。もっとも今はそう云わないかもしれないが。1945・8・15の終戦の一年前の7月に、あの評判の悪かったと云われる独裁的な東条英機首相は、ほんの数日間で政権の座からすべり落ちた。
東條英機はヒットラーのような独裁者ではない。とうてい独裁者の条件にはあたらない。首相を辞任した時の、彼の心情を咀嚼すれば、首相にしてもらった天皇と木戸内相の信頼がなくなったから自動的に辞職したのであろう。天皇の信頼があって、憲兵を使い政敵を弾圧し、陸軍内の人事を私物化できた。ちなみに海軍の人事権は彼にはない。時には庶民のゴミ箱を見て、生活状況を把握していた。そんなパフォーマンスの人でもあった。
それでも、戦争遂行国の首相が辞職したら、その後どうなるのだろうか。事実は、首相経験者の7人の重臣たちが集まり、議論の末後継者を3人絞って、戦争中の権力空白を作らないために、近くにいた朝鮮総督だった小磯国昭を首相とした。
しかし、二日間は首相辞任は伏せられて、何事もなかったように、その後も戦争は続いたのである。戦争をやめる、平和にするために東條内閣を倒したのではなかった。東條は陸相であり、参謀総長であり、内閣総理大臣だが、戦争最高責任者ではなかった。
その後もレイテ沖海戦をやっているし、新たに特攻作戦も始めている。これは戦争責任者が首相以外にちゃんと居るということではないか。その人も含め、政権中枢にあった者たちは、もう一度だけ連合軍に打撃を与え、少しでも有利な条件で講和をすることを考えていたのか?
政権中枢の人たちが、どうしても残したいものがあった。それは国体の護持である。平たく言えば、天皇制の継続であろう。つまりは三種の神器を守ることなのである。
7月27日、ポツダム宣言が示される。8月10日早朝に政府は国体護持を条件にポツダム宣言を受ける旨の回答をした。この約十日の間に日曜日が2回あった。7・29と8・5、その両日とも、木戸内相は家で来客と会い、齋藤何某の療治を受けて、静かな休日を過ごしている。
『木戸幸一日記』では、ほかに「7月31日、午後1:30御文庫にて拝謁」とある。「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近にお移して、御守りするのが一番良いと思う」と天皇は言ったそうである。それから1週間後、広島に原爆が落とされた。
淡々としたありのままの事実が、国民に普通に伝わっていない。いろんなことが見落とされている、欠落しているのが、この国の近現代史である。