東條内閣ができた時に、「虎穴に入らざれば虎子を得ずだね」と昭和天皇は木戸内大臣に云ったそうである。深い意味があるのかと、虎穴を陸軍、虎子を中堅幕僚にあてこんで考えていたが、『木戸日記』をよくよく読むと、「危険を冒さないと大事なことは果たせない」という程度の意味のようだ。
豈図らんや、東條に内閣をやらせてみると、徐々に天皇の信頼を勝ち得ていく。「東條は一生懸命仕事をやるし、平素云っていることは思慮周密でなかなか良いところがあった」という天皇の評価が戦後の『天皇独白録』のなかにある。
とどのつまり、事細かに事柄を報告し、いちいち細かく裁可を仰ぐ忠実な部下として、統帥権者の目から評価したのであろう。
サイパン陥落後、理由はわからないが、木戸内相は三つの課題で東條首相を辞職に追い込んでいく。一つは統帥の確立、二つは嶋田海相の更迭、三つは重臣をいれた内閣改造を行う、という課題に対して、東條はまず自らが参謀総長と陸相の兼職を解き、嶋田海相に辞職を迫り、挙国一致の内閣に大改造して延命を図ろうとした。
しかし、木戸は東條が大きな壁にぶち当たるように仕組んだのだ。重臣の米内光正は入閣を拒否することになっていた。岸信介国務相は事前に木戸と相談をして辞職を拒絶することになっていた。東條は三つの課題の最後が果たせない、ということは、天皇との約束が果たせなくなったので辞職に追い込まれる訳である。
東條は、この三つの課題が木戸と天皇とが示し合わせた踏み絵であることに気づいてしまう。それで、はじめて天皇の信任を失ったことを知り辞職を決意したのだろう。
東條の辞意を受け、急遽重臣会議を開いた。あれほど東條失脚に奔走していた重臣たちには不思議に後任の目途が全くなかった。ただ、東條が、陸軍が、憎かっただけなのだろうか。特に第二次内閣を東條に奪われた近衛、陸相を引っ込められて内閣が瓦解した米内、そして陸軍青年将校の2・26事件で襲われた岡田。その三人すら明確な後継候補を持っていなかった。
陸軍名簿から適当に拾った三名の候補をもって、木戸が報告に行くと、天皇は木戸に「陸相には結局東條が居座るということあらざるかと思うが如何」と尋ねる。この手のひら返しの仕打ちは何だろう。そういうお上なのか、現人神なのか。
ここまで来ると、東條は単なる道具に過ぎないことが分かる。サイパン陥落にみる戦局の圧倒的不利の責任追求が東條に行くと、彼を信頼して使っていた自分にもその火の粉がかかってくる。それがただ厭わしかったとしか思えない。天皇にとって、東條は「能」でいうならワキ役に過ぎなかったのだ。
(以上、参考文献:『昭和天皇独白録』『木戸幸一日記(下)』『高木惣吉日記』)