文書の焼却とは方法であり、効果は事実の隠蔽、湮滅をはかった訳であった。今の時代で云うと、文書の書き変えとは、単なる方法であって、目的は首相答弁に合わせるために事柄を消去した訳である。政治の世界は言葉の使い方に依って印象を変えていく。政治は常に批判や敵対に防御している。
約70年前の、1945年8月14日の午後から16日まで、黒煙が市ヶ谷の空を3日間染めた。ポツダム宣言受諾決定し受け入れる大勢が固まった時、おそらく自然発生的に機密文書の焼却が始まったようである、と1998年の著作で戸部良一氏は云った。その後2008年に、焼却命令は閣議決定だと吉田裕氏は書いた。
8月14日の閣議では、誰が言い出してどう決定したのだろうか。裁判での証拠隠滅のために軍部大臣が言ったのだろうか。もうこれで国家が消滅するという閣議全体の感情論だったのか、それとも天皇の戦争責任を曖昧にするために宮中勢力が求めたのだろうか。どちらにせよ、國の最高意思決定機関としては情けない、みっともない意思決定であった。
焼却命令は、各市町村にも発せられた。徴兵や召集関係が焼却された。外地では大東亜省が8・14の閣議決定で出先公館に対して機密文書焼却の訓令を発し、これによって文書廃棄が始まった事実が確認されている。
その結果、東京裁判では証拠資料が少なく、『木戸日記』や『原田日記』が使われたとのことである。おかげで天皇制は「現人神」から「象徴」ということで残った。なんとなくだが、戦争責任はA級戦犯が背負ったことになっている。
ところが、市町村の召集関係の文書も焼却されたためか、アジア・太平洋戦争の戦死者は、1944年1月以降の戦死者全体の87.6%にあたるそうだが、2007年時では全国的な年次別統計がないということである。
昨今、この国の政府においては、公文書の書き変えか、改竄かの不毛な国会論議もされた。そもそもこの圀は70年前に文書湮滅・隠蔽の前科があり、その土台の上に立っている「現在」であることを忘れない。
参考文献:戸部良一『逆説の軍隊』、吉田裕『アジア・太平洋戦争』、半藤一利、保坂正康、井上亮『「東京裁判」を読む』