1951年9月8日、サンフランシスコ講和会議の調印を終えた夕方に、吉田首相は単独で、アメリカ陸軍第6軍司令部の中で、アチソン国務長官・ダレス国務省顧問とともに日米安全保障条約に調印した。吉田は調印にあたって、「この条約は将来問題になる恐れもある、それゆえ調印は私一人で行う。・・・」と云ったそうな。【保坂正康『昭和史入門』文芸春秋】
たった一人で、且つ汚れ仕事の責任は一人で背負う、何と度量の広い政治家かと思った。まるで武勇伝のようにも思ったが、「単独で…」ということに何か割り切れないものをずっと感じていた。
最近この事実が詳しくわかってきた。実際に調印した場所は、米国陸軍第6軍司令部の「下士官クラブ」だった。吉田首相の調印相手は2人でなく、アチソン国務長官・ダレス国務省顧問・ワイリー上院議員・ブリッジス上院議員の4人だった。【孫崎享『戦後史の正体』創元社】
変哲のない「下士官クラブ」で、しかも4人を相手にこちらは一人。何か変ではないか。その後の安保条約の重さから考えても、吉田茂は単独で行く理由はあったのだろうか。敗戦国として、理不尽な内容の条約を調印するみじめな姿を同胞にも見せたくなかったのか?彼はそんなに見栄っぱりだったのか?
日本の防衛の運命を決すべき重要な条約の調印を、きわめて不自然な秘密裏の内に行われていたという事実が、政治として、掛け値のない断面であろう。もとより裏切りを内在した条約であり、その旧安保条約には具体な駐留条項がなかったという。
すべて政府間の「行政協定」、つまり今で云う「地位協定」の中に米軍駐留の本質があるそうだ。ということは、行政協定ならば、国会の審議も批准も要しない、国民が公に知り得ない二国間の単なる約束なのである。しかも、一方は世界一の巨大国家であり、他方は追従しか手段を持たない気弱な圀だという。
これじゃ、話にならん。吉田茂は、どういうつもりで、たった一人で調印に臨んだのだろうか。何か、別に秘密裡に調印する必要があったのか!
今となっては、どんな状態で調印させられたのかの証人すら居ないではないか。そもそも、占領国アメリカと堂々と渡り合ったというあの豪快な政治家吉田茂の印象・評価は根底から誤っていたのだろうか、…?
もうすぐ冬だが、畑は休まない、・・・。