玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

もう一人の外交官

2018-12-23 20:37:15 | 近現代史

寺崎英成の外に、もう一人数奇な運命を背負う外交官がいる。真珠湾攻撃は、日本のお家芸ともいう義経直伝の奇襲攻撃であった。法や契約に理をおく欧米人にとって、国際法を無視した宣戦布告なき奇襲は許されない蛮行であった。 

米国は、騙し打ちと罵り「リメンバー・パールハーバー」と報復を露わにした。ほんの何分か前に届ければ、最低の合法性は担保できた筈である。戦後この行為を知って、恥ずかしいと感じた日本人は少なくない。 

暗号電報は日本大使館に来ていたのである。しかし前夜は迂闊にも送別会があって、したたか飲んだのか、電文が届いた当日は人手が足りなかった。何と緊張感のない大使館であろうか。あの緊迫情勢の中で送別会をやっていたのである。 

そして、もうひとつ決定的な失敗があった。最後通牒のタイプ印字にこだわり、時間を空費したまぬけ者が居た。その結果、作業が間に合わず、ハル国務長官に事前に文書を届けられなかった。以上が、結果としての「騙し打ち」の真相である。その原因は大使館職員の不祥事として戦後史に記された。

前夜の送別会の主賓が寺崎英成だった。そして、タイプにこだわったまぬけ者が奥村勝蔵であった。この失態を誰もが悔しがったはずだが、大使館の上層部も、奥村も、寺崎も、帰国後処分されることは無かった。普通なら八つ裂きになるかとも思うのだが、…。もっとも、その時は戦時下で真相は全く発表されてなかったが。 

全くおかしな話である。でも、ここまで書いた話は、後世の関係者や学者らがそう云っているので、そういう歴史になっているのである。しかし実際の真実は判らない。

 どちらにせよ、日本大使館のタイプが下手な外交官の奥村勝蔵は、敗戦後、日本政府とGHQの連絡調整を行う「終戦連絡中央事務局」の情報部長になっている。それを聞いて、寺崎英成は「いい役が残っていない」と日記でぼやいていた。 

その奥村勝蔵が、第1回目の昭和天皇とマッカーサー元帥会見の通訳を勤めた。因みに、第2回目が寺崎英成である。天皇は、マッカーサーは、その事を知っていたのか?ここに奇妙、奇異を感じない人間は余程の迂闊である。 

あれから70年経って、また、この圀の政府で行われている官僚の忖度ゲームを見れば、何となく想像がつくものである。当時の東條軍部政府に外務省が忖度したのであろう。或いは、圧力に屈したのであろう。 

最後通牒の電文は14章あって、一番最後の章に交渉決裂の文句があるだけ、しかも宣戦布告と書いていない。電報も、緊急扱いではなく、普通電で送られているのである。あくまでも交渉決裂の文書であり、それをもって宣戦布告にならないという説もある。いやはや、我々庶民が事実にたどり着くのは、どうやら大変な道のりのようである。

 

【参考文献】吉田裕『アジア・太平洋戦争』/北岡伸一『政党から軍部へ』/「寺崎英成御用掛日記」『昭和天皇独白録』/H・ビックス『昭和天皇(下)』/東郷茂徳『時代の一面』

コメント (1)
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