高度成長期の末からバブル経済の前あたりまで、ルース・ベネディクト『菊と刀』、中根千枝『タテ社会の人間関係』、イザヤ・ペンダサン『日本人とユダヤ人』、土居健郎『甘えの構造』と日本人はいじらしいほど真面目に自らの内側を覗いてきた。
それは戦後の平和憲法にあって、軍事力なしに欧米諸国と張り合っていく自信がなく、他国に対する説明責任を真面目に一生懸命に果たそうとしたのではないか。
ところがバブル経済の絶頂期に、三菱がロックフェラー・ビルを、ソニーが米国の映画会社を買って、すっかり欧米人の顰蹙をかってしまった。そのうち『ジャパン アズ NO.1』で誉め殺しにあって、またたく間に円高低成長期の深いトンネルに押し込められた。
その結果、戦後日本人はゆっくり廻りを眺める余裕ができたのか、国家としての自我を確立しようとしても、気がついてみれば、何に基づいてこの圀があるのかさえ解からなくなってしまった。
実は自らの国家の存立目的、いやもっと簡単に云うと、明治維新から敗戦までの旧國家体制としての実体・実像の国民の共通理解が欠落していた。
つまりは、戦前の「國体護持」という「天皇制」自体が全くベールに包まれていて、万世一系、どこから来て、どこへ行くものだったのか、全く明らかにしないことによって、その政治権威、権力が続いていたのだ。
仁徳天皇陵が実は誰なのか、大嘗祭は國家行事なのか。大喪の礼は必ずやったのか。なぜ大正神宮がないのか?等々、疑問はいくらでもある。しかし現圀家は何も答えてくれない。圀家とは誰のための国家なのか、・・・。そこすら始まっていない。