戦前だが、桐生悠々という新聞記者がいた。信濃毎日新聞で、1933年8月11日の「関東防空大演習を嗤う」という社説を書いて退職させられた。
彼は、戦争や軍部を直接批判したのではなく、「東京上空で敵を迎え撃つという陸軍の作戦が滑稽だ」と云ったのである。
また「将来帝都の空に敵機を向かえたら、それこそ敵に対して和を求めるべき」状況であろうという当然の理を述べただけである。
にもかかわらず、彼は在郷軍人会の新聞不買運動によって、退職を余儀なくされたのである。正常なものの考え方が、一部の民衆の圧力で封殺された。この時から、日本は相当におかしかった。もう事実上、戦争への道に突入していたのだろう。
彼がこの主張をしたときは、1932年5・15事件の後で、1933年国際連盟脱退の直後に、軍国化になだれ込む中で、ただ合理的に、その帝都に敵機を迎えることが、既に敗戦だということを明らかにしただけである。事実、10年後にはそれが現実のことになった。
彼は1941年9月に亡くなっている。結果として1941年12月からの太平洋戦争の予想し、1945年3月の東京大空襲を予言していた。
戦争の責任は軍部や天皇制国家にあるばかりか、一般国民、特に在野の在郷軍人たちが地方組織の末端で与していたことを歴史に爪痕として残していった。
そして、何よりも、桐生の行動を冷ややかに黙殺したマスコミの懈怠も同罪であった。
彼は、蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜 という句を残していた。悲しくも、暗示させる深い句であると思う。(鎌田慧『反骨のジャーナリスト』岩波新書より)
今年の春は、梨の花を発見した。