近頃、すっかり目が悪くなった。ということは頭も悪くなったのに、kindleで重光葵(まもる)の『昭和の動乱』復刻版で読んでいる。
あまり頭に入らないが、実際にあの時代に外交官として生きた人間が書いたモノなので、戦後の学者が書いたモノより臨場感もあり、物事がよく見えていると思う。
然し、重光の評判は甚だ良くない。「重光は大のオポニュストにて今までとても軍部の色を見てはロンドンとモスクワから報告を書いていた。出世主義の雄なる者。」と清沢冽が『暗黒日記』で書いている。また『生来の保守主義で、進取の気性に富む野心家。』とH・ビックスが『昭和天皇』で書いていると、私はそれらを信じてしまう。
しかし、戦後になって、NYタイムズに載せる記事として、「真珠湾攻撃は東条の独断であって、陛下は知らなかった」という筋書きを見て「天皇陛下も責任がないということをご自分で語られることはすべきでない」と批判したとか。
その為東久邇内閣で嫌われて辞職することになり、吉田茂が外相となるのである。この方も数奇な運命をたどった人かもしれない。
1932年4月上海天長節爆弾事件で、右足を失い。この時一緒に壇上に登った白川将軍は爆死、野村海軍大将(後の米国大使)は片目を失った。
そして、終戦の時の外相は東郷茂徳であったが、戦後の東久邇内閣で外相となり、横浜沖のミズリー号に片足義足で網梯子を登って燕尾服で降伏文書に調印する。なんか、可哀想だが。
東京裁判で東條内閣の時の外相であり、特にソ連から嫌われていて禁固7年となったが、1950年仮出所した。後に吉田茂と首相の座を争うが敗れて鳩山一郎内閣の外相を務めた。彼は1957年1月死去。享年69。
この『昭和の動乱』は巣鴨プリゾンに入っていた時に書いたモノだそうだ。やっと下巻にはいったが。重光の記憶力の良さにただ驚いている。昔の人はこんなに頭がよかったのか、と感心した。