―不手際による不可抗力の奇襲―
市井の研究者たちの著作を知った。彼らは、太平洋戦争開戦時に青年期~少年期であったという世代的な共通項を持つ。
彼らの書いた近現代史の著作には真珠湾奇襲の罪を少しでも勘弁してもらいたいのか、大使館のタイプミスの不手際が予期せぬ奇襲となったと言う者、または、アメリカ側の最後通牒に当然に呼応した攻撃だと主張する者、無線で傍受していたんだからアメリカは日本の攻撃は当然知っていた筈だ、と主張する者も居た。
また一様に日露戦争直後からアメリカは虎視眈々と新鋭の極東の大国である日本を狙っていたと言う。
しかし、天皇の側近である木戸幸一内府の日記や皇族の高松宮の日記には真珠湾「奇襲」と書いてある。
三根生久大と伊部英男の二人が、不手際による不可抗力の「奇襲」に固執するのかよく解からない。
その理由を推測するに、敗戦後、最初の外人記者会見で「真珠湾奇襲を天皇が知っていたのではないか?」という記者質問に対して、東久邇宮首相はまともな返答ができなかった、とのことだ。
当時の日本政府は「宣戦の大詔は東條のごとくにこれを使用することは、その意図ではなかった」と東條に責任転嫁をして、ニュヨーク・タイムズへの紙面回答で急場を凌いだのである。
要するに、日本政府は「天皇が真珠湾攻撃が奇襲であったことを知らなかった」ことにしたのである。
俗に言う「戦中派」と言われる人たちには、自然に昭和天皇への信奉や忖度が残っているのだろうか。
【田中伸尚『ドキュメント昭和天皇(6)』緑風出版1990年、松尾尊兊「昭和天皇・マッカーサー元帥第1回会見」『京都大学文学部研究紀要』1990年】
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