玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

空白の王

2014-04-08 00:17:43 | 近現代史

日本の近現代史は、天皇に人間としての感情や行動があることを明確には言わないので、歴史上は天皇の存在が空白になってしまう。そのため歴史上の歪みが生まれる。孝明天皇が日米修好通商条約を忌避し、攘夷運動を自ら煽ったということを書いてある歴史書は少ない。一般的理解では、条約拒否で幕末日本の世論が沸騰し、それを受けて朝廷・天皇が浮上するというストーリーになっている。孝明天皇は、通商条約は「神州の瑕瑾」で「許すまじきこと」だと述べる。天皇の意を受けて朝廷の公家(近衛、三条、その他の平公家)は条約拒否に動いた。(井上勝生『幕末・維新』岩波新書)そこから尊王攘夷運動が盛んになった原因が生まれたとも言える。一方、「攘夷をとるか、開国をとるか、国論を二分する大問題となり、両派が朝廷に働きかけた」という教科書的表現はあたりさわりはないが、天皇の権力者としての存在が消えてしまう。

ところで、昭和においてはどうなのだろうか。戦後の天皇の「人間宣言」というのは、そう思うと、重いものがある。果たして、人間として戦争をどう考え、どう動いたのか。これもまた、この21世紀にあっても明解ではない。

今年の桜 散るのが早い


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平成の天皇 (VAN ジャケット)
2014-04-12 17:40:11
昭和天皇がなくなられる1年以上前、1987年の秋だった。平成天応は、皇太子時代に美智子妃殿下とともにテニスを横浜の山手で年に何回か楽しまれていた。そのテニスクラブで理事をしていて、接遇担当をしていた私に、侍従の手塚さんから「陛下が今日の最後はぜひあなたとプレーして終わりたいとのご希望です」と話され、私は「他の希望する会員が多く私は遠慮します」と、天皇制に多少の違和を持った人間として返事したところ「陛下がご自分で相手を指名するのは最初で最後です。その意味が分からないのですか。戦前なら不敬罪ではすみませんよ。ご指名を深く受け止めてください」「陛下はいつも陛下の警護でお車から先導し、警護のためコートに立ちも黙々と役目をはたしておられる人のことをいつも気にかけておられました。今日のご指名はこの数年間のあなたへの感謝の気持ちの表れなのです」と諭された。ダブルスのペアを組み、陛下はプレー中いつも私の目を見て話されていました。あとでいただいた写真には目線を避けた私の顔が写っており、人の目を見て話さないという人間として本当に恥ずかしいものでした。
 観念としての「天皇制」はわかりませんでしたが、陛下が着替えの最中に、美智子妃殿下が「陛下からお相手をしておくようにと仰せつかりました」と私に子育ての苦労話をしてくださいました。当日同伴しなかった、妻と子供のことにも触れられ、自分は自分がどう修練を積んでもたどり着けない境地にいる人と接し、世界観が変わりました。この経験は長い時間を経て自分の中では発酵して、皇室に対する見方が180度変わりました。この瞬間を妻と子供と共有できなかったことが残念でした。しかし、この経験と同じ思いを抱いた日本人は私一人ではないと思います。政治思想における天皇と、生身の天皇との位相の違いをどう理解すべきでしょうか。昭和天皇の危篤が世に伝えられたのはそれから半年以上後のことでした。
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