これまでヒサシは母による「恨をはらしておくれ」の言葉を第一義として考えてきた。
そういう意味では兄弟の中で自分程親孝行な人間もいるまいと思う。
兄は貧乏である事も、それが理不尽だという考えにも無頓着で、ひたすら研究に
いそしむ学者だった。母はそんな兄を誇りに思っていたけれど、人間は「誇り」だけでは
生きていけない。
家門の繁栄にはしかるべき地位と現金が必要だった。
ヒサシは両方手に入れたかったから、ひたすら勉強をして東大に入り、ケンブリッジに
留学し・・・と歩んで来たのだがここで最初の挫折を味わう。
それはケンブリッジで修士論文を完成させることが出来ず、修士課程を修了出来なかった
事だ。
いや・・完成させたのだ。でも船の中で見失ってしまい間に合わず・・・・
書けなかったわけではない。なくしただけだ。
自分の中であれこれ言い訳を考えて納得させようとした。
修士など持っていても意味がない。ただの学歴だ。博士ならともかく・・・
またチャンスがある筈だ。いや、もっと学士として頑張ればいい。
書けなかったわけじゃない。書けなかったわけじゃ・・・・
この先、学歴の壁を打ち破り自分の自尊心を満足させるにはどうしたら
いいんだろう。
兄を始め、学者どもに大きな顔をさせないためにはどうしたら。
その頃、皇居では大騒ぎが起こっていた。
皇后が各宮家の妃を集めて「お茶会」なる秘密会議を催していたのだ。
イリエは不穏な空気を感じとりつつ、3宮妃「セツ君、キク君、ユリ君」を迎えた。
この3人の中で皇后におもねるのはセツ君とキク君。ちょっと歳の離れたユリ君は
おっとりと聞いている事が多い。
「大変な事になったの」
この日の皇后は怒りを抑えきれずにいた。いつもはふくよかで優しい
顔が今日は鬼子母神のようになっている。
3宮妃は何事か?といぶかる。
「東宮ちゃんが・・・東宮ちゃんがよりにもよってお妃に一般人をと」
「なんと!それは本当ですか?」
皇后の思いがけない言葉に宮妃方はびっくり仰天し、顔を見合わせる。
皇族の妃には「内親王」「五摂家」「清華家」「大名華族」からとるしきたりがあった。
皇后自身宮家の出身。はるか昔・・・学習院の庭で仲良く遊ぶミチノミヤとクニノミヤ家の
ナガコ女王を見初めたのは昭憲皇太后と言われている。
セツ君は会津松平家出身、キク君は徳川家の出身、二人とも「賊軍」の出では
あったが立派な華族の娘で、「皇室と武家の和解」を願ったテイメイ皇后のはからい
であったといわれる。ユリ君は高木侯爵家の出身。
明治以降、「妃」の選定には皇后ないし皇太后の意見が不可欠だったのだ。
しかし・・・信じられない事に東宮はショウダミチコなる女性と結婚したいと言い出した。
どんな出自なのか?
戦前は爵位を持たない商人の家柄。母方は佐賀の副島家出身らしいが爵位はないし
明治以降は実業家の家柄だそうだ。
この出会いを設定したのはコイズミらしいと聞いてから、皇后はすぐに呼び出し
事の次第を伝えさせた。
「ショウダミチコさんはニッシンセイフンの社長令嬢です。聖心女子大を非常に優秀な
成績でご卒業され、ご性格も申し分ない、皇太子妃になる為に生まれて来たような
方です」
この言葉がカチンと来た。
「皇太子妃になる為に生まれて来た」って・・・・何を持ってそう判断するのだ?
皇族でも華族でもない、学習院出身でもない。確かに顔は綺麗だし頭もよさそう。
それが「皇太子妃の条件」だというのか?
「皇太子妃の第一条件は家柄ですよ。それがわからないのか」
皇后は男言葉になった。日頃の穏やかな彼女とは想像もつかない態度で
コイズミは震え上がった。当然、隣にいるイリエも亀のように首を縮めている。
「しかしながら・・・」
怖い者知らずなのか?コイズミは言い返す。
「新しい時代になり、人の価値観も変わっております。皇室もまた時代に合わせて
変化していくのが筋。客観的に見てミチコさんは素晴らしい女性ですが、
何よりも皇太子殿下がご自身にお気に召された事が重要かと存じます。
「結婚は両性の合意の下で行われる」というのが戦後の結婚観でございますれば
それを体現されようという皇太子殿下のお志は真に理にかなったものかと」
「黙りなさい!」
皇后は興奮して立ち上がった。
「皇統124代を何と心得ているのか。時代がどう変わろうとも皇室だけは
変わってはいけないのです。皇室が大事にしてきたしきたりや慣習をないがしろに
すればすなわち皇統の断絶に繋がります」
「と・・・言ったのだけどね」
皇后はばら色の紅茶に砂糖をひとさじ入れてかきまぜた。
本当はもう少し甘い方が好きだけれど、血糖値がどうの血圧がどうのといって
止められる。それに従うのも皇后の務め。
「それで・・・東宮様はなんと」
セツ君が静かに聞く。これは母に報告しなくてはならない。
松平信子に。
「皇太子妃は必ず学習院出身。つまり常盤会から出すべきもの」が信念なのだ。
「まるで人が変わったようよ。軽井沢では何日一緒にテニスをしたかしら?
その後もたびたびパーティに誘って。宮内庁の文化祭にはその女の写真を
出品した程よ。コイズミを始め東宮職はショウダミチコなる女を推す方向で
進めていると聞くわ。どうしたらいいのかしら。皇室の権威は地に落ちるわ。
民間妃だかなんて・・・体裁が悪いにもほどがある」
皇后はしゃべり続けた。
セツ君とキク君には子供がいない。ゆえに子沢山の皇后の悩みにはうとい。
皇太子には3人の姉がいる。
天皇に一番良く似たと言われる長女照宮はクニノミヤ家に繋がるヒガシクニノミヤ家
に嫁ぎ、戦前は「宮妃」であったが戦後は一般に臣籍降下し、多くの子供を抱え
苦労してる。次女のタカノミヤは元公爵家とはいえサラリーマンになっている
タカツカサ家に嫁いだ。内親王が皇族以外に嫁ぐなどありえなかったのに。
三女のヨリノミヤは岡山の池田家へ嫁いだ。元大名家とはいえ、今は動物園の
園長で・・・しかも岡山なんて遠くへ行ってしまった。
せめて皇太子だけは血筋も家柄も最も立派な人と結婚をと思っていたのに。
よりによって一般人の女性とは・・・・
日本一の旧家であるがゆえにこのように悩むのである。
(私達の子供もいつか・・・)ユリ君はただじっと聞いていた。
「何とか阻止する方法はないかしら」
ついに皇后は禁句を口にしてしまった。
「常盤会を使うしかないでしょう。お上といえども常盤会には一目おいて
いらっしゃいますもの」
セツ君はさっそく母に連絡をいれると約束した。