「どうぞおかけに」
サカモトはツツミを招き入れた。
宮内庁病院は古い。歴史があるといえば聞こえがいいが、時代から取り残されている感がいなめなかった。
先帝がいた時まではフルに活動していたが、どんどん機材は古くなり、建物も老朽化し、皇族方はみな
他の病院にかかるというのが現実だ。
しかし、産婦人科の分野ではまだ健在だった。
キコも宮内庁病院で産んでいるし、いずれマサコもそうなる筈だった。
「いやいや、本当に歴史を感じる建物ですね」
とツツミは言った。運ばれてきたお茶。極上の玉露である事はわかるし、それが入っている茶器も一品物。
しかし・・・流行に乗り遅れているような?
アンティーク趣味があるわけではないツツミにとってはどうでもいい事だったのだが。
「戦争で焼けてね。あの時はテルノミヤ様の出産があって・・・・東京に空襲があった時ですよ。防空壕でテルノミヤ様は
出産されました。その後、今の皇太子さまが生まれるときに改修中で・・・それから何も変わってないそうですよ。
皇族専用の病院でなくなったくらいでしたか。
ほら、ゴウヒロミ・・彼の娘はここで生まれたんですよ。格式は高い病院ですがね」
サカモトは軽い話で茶器をくるくると回した。
「ところで」サカモトは続ける。
「現在、ツツミ先生は非常勤でこちらにも関わって頂いていると思うのですが、もうすぐ正式に東宮職医師団の一人として
活躍して頂く事になるかと」
「なるほど」
ツツミはちょっと嫌な顔をした。その表情を素早くとられたサカモトは頷く。
「お気持ちはわかりますよ。先年、基礎体温を出してくれと言っただけで逆鱗にふれた東宮職医師が結果的には辞表を
提出しました。妃殿下の度重なる無視とか、嫌味とか怒りとか・・・そういうのに耐えられなかったわけです」
「基礎体温を測るなんて女性としては当たり前の事じゃないですか」
「それはそうです。しかし妃殿下は別な意識をおもちのようですね」
「世の中に一体どれほど不妊症に悩む女性がいると思っているんでしょう」
「10人に一人・・・・」
「いや、個人的には5人に一人、あるいは3人に一人だと私は見ています。表面化しないのは晩婚化の影響もあるでしょう。
今上の時代になってからディンクスという、結婚しても子供を持たない権利を主張する夫婦が現れた。
そして晩婚化が進み、少子化は歯止めがきかなくなる。みな、結婚しないから子供がいないと思っているが私はそうは
思っていません。一人産めば2人産みます。2人産めば3人産みますよ。でも、たった一人を産む事が難しくなっているのが
今の世の中なのです」
「なぜなんでしょうね」
「さあ・・・環境ホルモンとか言われていますが特定はできませんね。この空気中には有害物質がごまんとあるんですから。
日本は世界で唯一核を落とされた国ですよ。半世紀以上たってもその影響がないとはいえないのでは?」
「なるほど・・・・・」
「アメリカなどでは自閉症児が増えている事も報告されています」
「なんと・・・・・」
「自閉症児はその昔は親のしつけが原因とか言われていましたが、今は脳に機能障害がある立派な病気・・・障碍と
位置づけられています。しかしながらなぜ増えているのか・・・それはわかりません。でも、それは日本でも同じという事です」
「日本でも増えているのですか?」
「ええ、公にはされないでしょうが。ほら2年前に起こった例のサカキバラ事件を覚えていらっしゃいますか」
「覚えているも何も、いまだにあんな事件が起こった事自体信じられない思いで」
「サカキバラと呼ばれる少年の脳にはわずかな障碍があった事が報告されています。自閉症・・・ではなく、アスペルガーという
名前の障碍にあたるわけです」
「なんですか?それは」
「さあ、私は専門ではないのでよくわかりませんが、もともと脳の発達段階で起きる障碍のようで、昔からあったそうですよ。
偉人の多くはこのアスペルガーだったと言われています。それがなぜ今、犯罪に結びついているのかはわかりませんが」
「精神科の分野が今後発達しそうですな」
「ええ。それはともかく、日本には不妊に悩む女性が多くいるのです。不妊検査にはパートナーの協力が絶対ですし、
その治療もまたしかりです。保険がきかないから費用だって莫大にかかる。それでも一縷の望みをかけて
不妊外来に通う夫婦は少なくない。私は、彼らの悩みも悲しみもとてもよくわかるのです。
ですから、日本で一番恵まれた環境で堂々と不妊治療が出来る皇太子妃がなぜ、基礎体温くらいで怒り狂うのかわかりません」
「不妊検査を受けるまでがまた大変だったんですよ」
サカモトはため息をついた。
「結果的に妃殿下に問題があったわけですが、そうなったらそうなったでわめき散らして部屋に引きこもり・・治療がまた
さらにさらに大変で。妃殿下は学歴が全てと思っていらっしゃる。ハーバード大を出て外務省でご活躍されていた妃殿下には
子供を産めない自分を受け入れる事が難しいのでしょう」
「なるほど・・・・・それはやっかいですな。あ、煙草を吸っても?」
「ええ」
ツツミはポケットから外国製のタバコをだし、火をつけた。
「高学歴の女はやっかいですか・・・」
「プライドの高さは並大抵のものではありません。それが一旦傷つけられると100年でも200年でも恨みそうな勢いで。
私は精神科は専門外だと申しましたが、それでも妃殿下には何か精神的な問題があるのではないかと思っています」
「というと?うつ病とか?分裂病のようなものですか?」
「さあ・・そこまでは。今までにない領域なんじゃないかと思う程ですよ」
サカモトはお茶をすする。タバコのいい香りが部屋に広がり鼻をくすぐる。
ツツミは正真正銘のエリート医師だ。
不妊治療の権威として日本中の女性の希望の星となっている。本人は全くきどらない人間だったのだが。
不妊治療はアメリカの方が進んでいる。その中でも顕微授精なる最先端の治療を施す事でも有名だった。
「そんな妃殿下のお相手はとてもとても」
ツツミは苦笑いした。
「それに・・すでに治療に入っているんでしょう?」
「ええ。排卵誘発剤を使っての治療を行っています。が・・これがなかなかうまくいかないのですよ」
「まあ、すぐに結果が出るというものでは」
「いや。それだけじゃありません」
サカモトの表情がこわばった。
「妃殿下は・・・喫煙と飲酒の癖がおありになるのです。通常、不妊治療の間は体の事を考えて、それらの事は
控えて頂くというのが常識です。しかし、妃殿下は全くお構いなしで。喫煙がどんなに妊婦に悪い影響を
与えるかわからないと何度申し上げても全く意に介さず」
「要するに母親になる自覚がないなんでしょう」
ツツミはあっさりと斬って捨てた。
沢山の不妊になやむ 女性たちをみてきたツツミにはマサコの自己中心的な考え方には大きな反感を覚えた。
「しかしですね」
その表情をまたも素早く読み取ったサカモトが必死に懇願するように手をあわせた。
「これは妃殿下の不妊云々の問題ではない。皇室の世継ぎに関わる話です」
「皇太子妃が産めないならアキシノノミヤ妃に産んでもらえばよろしいのでは?あちらは不妊じゃないみたいだし」
「それが。産児制限されているようなのです」
「なんですって?」
思わず、ツツミは椅子から身を起こした。
「信じられない。皇室って所は一体どんなしきたりがあるので?不妊の皇太子妃の為に弟は遠慮しろと?そういう話ですか」
「・・・・・・」
サカモトは黙った。
「産める人間が産めばいい。そうでなければ少子化は止まらないですよ。まあ、私の所の患者でも、不妊症の女性が
目出度く妊娠した女性に対して意地悪をしたり、ひどく傷ついてうつになったりするケースはありますけどね。
でも、自分が産まないから弟も産むなって・・・そりゃあ。私は右翼じゃないですからね・・・正直、天皇家がどうなろうと
知った事ではありませんが、しかし、そちらにとって皇統を守る事は重大任務なんでしょう?
だったら産児制限なんかさせずに・・・」
そこでツツミあ「ああ」と頷いた。
「それでやたら最近、雑誌に「女帝容認」記事が出るんですね。ちょっと待てよ。「女帝容認」というのは男系男子で2000年
繋いできた皇室の流れを変えるという事で、そうなったら皇室そのものの価値が変ってしまうという話ですね。
それくらい私にだってわかりますよ。そうか・・・それが狙いなんですね」
「まあ、多分。両陛下がそこまで考えていらっしゃるかどうかわかりませんが。アキシノノミヤ家にも後継ぎは必要。
という事は一日でも早く皇太子妃にご懐妊頂かないといけないのです。どうか、ご協力を」
サカモトは深々と頭を下げた。
ツツミは煙草をけし、姿勢を正した。サカモトの熱意は十分に伝わって来たのだ。そして現在の皇室におけるおかしな
力関係も何となくわかった。
皇太子妃の妊娠がそこに風穴を開けるなら、やってみようではないか。
「わかりました。いつでもお声をかけて下さい。私はいつも待機しておりますから」
ツツミは自己の正義感からそう言ったのだった。
しかし、のちにその言葉を悔いる事になろうとは、その時は考えもしなかった。