ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

ラブラブな25年目の対談  4

2015-06-29 08:12:49 | 皇室報道

紀 子 「こちらこそ、いつもこまやかにお教えくださり、また健康面も気遣ってくださり、

     深く感謝しております。

     また、一緒に生活をするようになってからわかったことですが、

     食べ物の好き嫌いがほとんどありませんね。私は、いくつか苦手なものがありますが…。

     食材を自由に選ぶことができて、助かっています。

      旅先でもいろいろな郷土料理を一緒に楽しむことができ、

      食文化に親しむ機会が増えたように思います。

      ほかにも、用事が立て込んでいましても、余裕をもって時間を守られていることには

     敬服しております。

    私は自分の時計の針を早く進めても、遅れ気味になってしまいます。

    もっとも、行事の前に私のところにいらして、あと何分と言われると、

   プレッシャーを感じますが…。

     お互いの気づきや発見がいろいろあり、自分と違う考え方だなと感じるいっぽうで、

   共有できる見方もありました。また、理解するのが難しかったこともあれば、

   言葉を交わさずとも心が通じ合うようになり、助けられたことも多々ありました。

秋篠宮 「そうですね。結婚するまでまったく異なるところで暮らしてきたわけですから、

      考え方などで共有できるところとそうでないところがあるのは当然のことでしょう。

      その上で、我が家の場合に限って言えば、経験を共有することと

      趣味を共有しないことがよかったと思います。

      経験は共有することで将来的に発展しますが、

     趣味、たとえば、あなたが瓢箪(ひょうたん)に興味をもってそれを共有したとすると

     競ってしまいますので、良好な関係でなくなる可能性大です

     趣味はそれぞれ楽しみましょう。

紀 子 「それぞれの趣味もありますが、一緒に音楽を聴いたり、自然に親しんだり、

     旅行にでかけたりという時間も楽しいですね。

〈夫、妻、親として〉

秋篠宮 「さて、ときどき夫もしくは親としてどのように認識されているのか

     気になることがあります。あなたも同様でしょう。最後に評価でもしてみませんか?

紀 子 「気にしているかどうかわかりませんが、面白そうですね

秋篠宮 「本来であれば、第三者、まったくの第三者というわけにもいかないので、

      私以外の家族に委ねなくてはいけないのでしょうが、

      それをするにはまず自らを振り返ることが必要です。

      とはいうものの、あなたと子どもたちから私の評価を聞くことは、

      今までの自分の行いを考えると少し怖い気もするので、

      今回はあくまで自己点検・評価でいきましょう。

     きちんとした項目立てをして、優・良・可・不可で客観的に点検および評価を

     したわけではありませんが、漠然としたメルクマールからすると、

     私の場合には限りなくボーダーラインに近い「可」といったところでしょうか。

紀 子 「私も仲良く「可」にいたします。いろいろな可能性を秘めている

      「可」ということでいかがでしょうか。

秋篠宮 「おたがい、改善点が多いということですね。

      「良」や「優」は、今後の努力目標とすることにしましょう。

紀 子 「はい。これからも、可能性を大事にしつつ、努力目標にむけて一緒に年を 

     重ねていくことができれば幸せに思います。

秋篠宮 「それでは、このあたりで終わることにしましょうか。

紀 子 「そうですね。ありがとうございました。

 導火線が短い殿下ならではの「プレッシャー」

   長く付き合っていても「うるさいわね」と思いそうなものですが。

   はっきりと「「プレッシャーです」と言えるから、適応障害にならないのだと思いました。

 また「可」という評価。こんな評価のつけかたもあったのだと思いました。

   私達はついつい両陛下にならって「感謝状」だとか「100点」だとか想像しがちですが

   「可」でいいですよ。結婚50年目に「優」になっていれば。

   謙虚で素晴らしいなと思います。

 ご結婚記念日、本当におめでとうございます。

   これからもご家族仲良くお過ごしくださいませ。

 

 

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ラブラブな25年目の対談  3

2015-06-29 08:10:31 | 皇室報道

紀子 「すてきですね。私も眞子より母の日に羊の親子のカードを受け取りましたときは、

    胸が熱くなりました。

秋篠宮 「佳子とは比較的最近のことですが、珍しく一緒に買い物に出かけたことがありました。

      父親にたいしてつっけんどんな態度のことが多いのですが、

      意外と優しいところもあり、私が自由に選んだものについて、

      代わりに会計をしてくれました。もっとも、帰りに彼女にそのまま荷物を

      持たせていたら注意されましたけれどね。

紀子 「ほほえましいですね。佳子が小さかったとき、

    誕生日によく手作りのものを贈ってくれました。

     幼稚園のときだったでしょうか。私の誕生日に2つの贈り物を考えていたのですが、

     先に作った貝殻の贈り物を私に見せたくて、早めに渡してくれました。

     そのあと、誕生日にもうひとつの贈り物をもらい、

     お祝いを2回してくれた、かわいらしい思い出もあります。

秋篠宮 「悠仁もしばしば折り紙などの作品を届けてくれます。

     上の子どもたちと同様、もらったものには年月日を付して

    、飾ったり、保存したりしています。

     最近は、絵も上手になってきましたね。

     自分が絵を描くことが下手なので言うわけではありませんが、

    何かを観察してそれを絵として表現できると旅をしたときの記録として

    意味が出てきますので、どんどん描いてほしいものです。

紀子 「絵を描いたりするほかにも、切り紙をしたり、

    厚紙で入れものをつくったりしながら、

    いろいろなものを創り出すことを、悠仁は楽しんでいますね。

    私たちの手許(てもと)には、子どもたちの小さいときからの作品がいくつもあります。

    どれも大事な宝物。普段なにげなく描いた絵から、

     本に登場する主人公や生き物などを描いたものが廊下の壁にかかり、

    折り紙やペーパークラフトが部屋に飾られています。

 

〈結婚したころと今と〉

 紀 子「 ここで、結婚したころと、それから25年たった今のお気持ちを伺ってもよろしいでしょうか?

秋篠宮 「このような機会がないと考えることもないですからね。

       1990年というのは、ついこの間のことのように思えますが、

       やはり相応に時間がたっているということを感じることはあります。

      仕事や研究などでいろいろな事柄を解釈・判断するときに、

      若いころでは思い至らなかったことが多々あると感じます。

      そのことで、ずいぶんと周りに迷惑をかけたことがあるように思います。

     もちろん、いまだに不十分で、反省と後悔すること多々ありです。

     精神年齢が未だ20代から進化していないのでしょう。

紀 子 「私も結婚をしたころは、慣れないことや戸惑うことがあり、考えすぎることや

    力を入れすぎて、ご迷惑をおかけしたことがいろいろあったのではないでしょうか。

    今は遅ればせながら、力を抜くこつが少しずつわかってきたように感じていますが。

    このようなことにも「進化」という見方があるのですね。

     今でも、20代のときのような探究心や若々しい感性や創造性をおもちに

    なっているのではないでしょうか。

    例えば、研究会に参加されているときには、そのように強く感じることがあります

秋篠宮 「たしかに研究会等への出席は、今まで自分がもっていなかった知識を

      得る機会にもなり、有意義に感じることが多くあります。ま

      だまだ好奇心は残っているなと。出かける前と帰ってきた後とでは、

      テンションが違うと感じることがあるでしょう

紀 子 「はい。お話しくださる様子から、心がはずむ時間を過ごされたのではないかと

     感じることがあります。

秋篠宮 「いっぽう、フィジカルな面は劣化していますね。

     走り回ることについては、佳子が小学生の時にリタイアしてしまいましたが、

    最近不便に感じているのが老眼。

    もともと遠視があったので遠からずそうなるだろうと予想はしていましたが、

    眼鏡が放せなくなってしまいました。まあ、いたしかたないことではありますが。

紀子 「私も小さい字が急に見えにくくなりました。

     また、疲れたとき、回復する時間が以前に比べてかかるようになりました。

      毎朝のように散策をされたり、休みの日には庭仕事をされたり、

     よく身体を動かされていますね。週末は、散策に私も誘ってくださいますので、

      四季の移り変わりを感じながら歩くこの時間は、健康のためにも、楽

     しみのためにもありがたいです。

秋篠宮 「25年というと、親・兄妹と過ごした年月より長く一緒にいたことになります。

      それだけの期間をともに過ごしていれば、共有することができた貴重な経験は

      数多くあります。また、誰かの言葉を借りれば導火線が短い私ですので、

      口論も多々あるのはごく普通のことでしょう。そのようななかで、

      ほとんど言葉に出さないので不満かもしれませんが、

      感謝の気持ちもきちんともっていますよ。

紀子 「それはうれしいです。

秋篠宮 「さまざまな書類、私の所に届くまでに不明な点などを整理しておいてくれますね。

      これは非常に助かっています。

紀子 「まだまだ至らないところもあると思いますが、そういう面でもお役にたっておりますなら、

    幸せです。

秋篠宮 「また、昔から何故か階段を踏み外しやすいことから、階段のあるところでは

     、滑り落ちないようにさりげなく支えてくれていますね。

     周囲から見ると、私があなたを支えているように見えているかもしれないけれども

 顔から火が・・・・出そうな程ラブラブ。

   照れながらおっしゃる秋篠宮殿下とそれをさらりとかわす紀子妃。

   絶妙だなあ。

 

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ラブラブな25年目の対談  2

2015-06-29 07:51:38 | 皇室報道

 結婚の日と生活

 

秋篠宮 「さて、1990年6月29日の結婚の日は、結婚の儀にはじまり朝見の儀、

       その他の諸行事が朝からたくさんあり、夜の10時頃でしょうか、

      一息ついたときにようやく結婚したことを実感した記憶があります。

      もっとも、その翌日からもいろいろと行事があったので、

      何となく慌ただしかったですけれどね。

紀子 「はい。このよき日の行事を滞りなく終えたときは、安堵(あんど)いたしました。

    大学院生としての日々から、公的な仕事をする生活となったことは、大きな変化でした。

    そうした中で、折にふれて、両陛下が導いてくださり、あたたかくお見守りくださいました。

    各宮妃殿下方にも、行事の所作や服装などを丁寧に教えていただきました。

    さまざまな形で多くの人から支えられましたことを、ありがたく思っております。

秋篠宮 「少しばかり新居となった家のことを話しましょうか。というのは、

       私にとって10年ほど過ごしたこの家には、けっこう思い出があるからです。

      当初、宮内庁は新婚の我々のために、仮住まいではあるけれど同じ場所に

     新たな家を建てることを考えていました。しかし、いずれ何処かに居を構えるのに、

      仮住まいのためにたて直すその計画は無駄が多いように思い、

     現存している建物を一部改築して使いたい旨伝えました。

      たしかに大勢の人とそこで会うのには適当ではありませんでしたが、

     こぢんまりとしていたぶん、非常に落ち着く場所でもありました。

     玄関を入って少し大きな声で呼べば、どこにいても大抵聞こえたのではないでしょうか?

     結婚後の生活をあの家でできたことはよかったと思っています。

紀 子 「約60年の木造家屋を、二人で過ごせるように直して、新しい生活がはじまりました。

     そして、娘たちの誕生にあわせて部屋を増やしました。

     その中で、娘たちは成長していき、子どもたちの元気な声が響き、

     ギターやピアノの音もよく聞こえる、温もりの感じられる家でした。

秋篠宮 「今の家からは近くにあるので、この前行ってみたのですが、

      子供たちが小さい頃に遊び回っていたことを想い起こし懐かしく感じました。

      彼女たちも気に入っていましたよね。

紀子 「はい。今の家に移りましてから、またあちらの家で住みたい、と娘たちが話して

     いたこともありましたね。

 

〈日本国内・海外の訪問などに関連して〉

秋篠宮 「ところで、結婚後には公的私的は別にして、日本の各地や海外を訪問する

      機会がたびたびありました。

      また各種の行事にも出席をしてきました。訪問場所や行事そのものというより、

      それらに関連して何か印象に残っていることはありますか?

紀子 「この25年の間に、日本国内、国外でいくつもの場所を訪問し、行事に出席いたしました。

    そして、さまざまな出会いがあり、多様な分野の人のお話を伺ったり、

     取り組まれている活動を見せていただいたりするなど、貴重な経験をいたしました。

秋篠宮 「そうですね。各地で温かく迎えてくださる方たちがいることは、

      うれしいしありがたいことです。

紀 子「また、健康作り、子育て支援や食育など、幼児から一人暮らしの高齢者まで地域の人々の

     暮らしを見守っている方々にも多くお会いしてきました。心強い活動と感じています

秋篠宮 「私の場合には、たとえば学術や環境関係の授賞式等でご縁の

      あった人や団体が、その後さらに発展した形で社会への

      貢献をしたときなどは、とてもうれしく感じます。

     公的ということに関連して、あなたもよく知っているように、

    皇族には国事行為の臨時代行以外に公務は存在しません。

    あくまで公的な行為もしくは活動であり、言葉としてきちんと区別するべきものと考えます。

    そのような公的な仕事は、公務と異なりある程度自分の裁量で

    取捨選択ができてしまう。そのようなことから、声をかけていただき、

    それらが適当と判断されたものについては、

    できるだけ応えるように心がけてはいます。

紀 子 「私もそのように努めてまいりました。

      そして、公的な活動でも、生活の中でも、宮家に関わる宮内庁や

      皇宮警察の職員をはじめ、さまざまな形で支えてくれる人たちが

      いることを大切に思っています。

秋篠宮 「いっぽう、これは私的なことになりますが、

     国内外であなたとは一緒でなく訪れている場所もけっこうあります。

     なかには、一緒に行ってみたい場所もありますので、

     近い将来の楽しみとして考えることにしましょうか。

     ちなみに、この時は眞子と一緒だったのですが、

     かなりの悪路ではあるものの、マダガスカルのチュレアールから

     ムルンベへ行く途中に3種類のバオバブやパキポディウムを見ることができ、

     コーデックス好きにとっては素晴らしい12時間半のドライブを楽しみました。

     もちろん、ほぼ同じ時間をかけて帰ってきたのですが、

      ムルンベのバオバブの景観は本当に素晴らしいですよ。

紀子 「いつか見てみたいですね。

 

〈子どもたちのこと〉

 紀子 「子どもたちが小さいときは動物園や博物館にでかけ、また、一緒に旅行もしました。

      その他にも、子どもたちとはたくさんの思い出がありますね。

秋篠宮 「先日、英国にいる眞子から父の日のカードが送られてきました。

      普段は必要最小限の連絡事項をメールでしているだけなので、

      妙にうれしい気分になりました。久しぶりだったからかな。

 25年前、新居についてもあれやこれや報道されていた事を両殿下は

  御存じです。私は殿下のこの言葉を100%信じているわけではありませんが

  ここは「お察し」して先手を打ったと見るべきかもと思いました。

 

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ラブラブ25年目の対談  1

2015-06-29 07:30:18 | 皇室報道

 秋篠宮両殿下は25年目の結婚記念日に対して「文書」ながら

対談形式で思いを綴られました。

 

  結婚25年にあたって

〈出会い〉

 秋篠宮 「今年は結婚をしてから25年が経つようです。

       時間は常に経過していますので、取り立てて25年に意味づけをするものでは

       ないと思いますが、少し振り返ってみるのも記憶と記録を整理する上で

       よい機会かもしれませんね。

 紀 子 「はい。私たちの今までを整理する方法のひとつとして、

     対談の形もあるのではないかとのお話になりました。

     このような形に慣れておりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

秋篠宮 「もっとも、結婚する前にしばらく付き合っていた時期があるので、

      そのあたりから始めましょうか。いつのことか覚えていますか?

紀子 「30年位前になりますでしょうか。私が大学1年生の春、

    本を探しに大学内の書店に立ち寄りましたとき、初めてご挨拶をさせていただきました

秋篠宮 「私の記憶に間違いがなければ、1985年の5月のことです。

      ちょうどそのころ、各地の文化や自然を楽しむことを目的としたインター・カレッジの

      サークルを作ったので、そこに誘ったところ喜んで入ってくれました。

      白川郷の合掌集落などずいぶんあちらこちらに出かけましたね。

紀 子 「はい。いろいろなところを旅行して、地域の豊かな文化や多様な

     自然にふれることができました

秋篠宮 「そして1986年、ある集いがあった後、あなたを送っていく途中に…。

紀 子 「二人で信号を待っておりましたとき、突然、将来のことについてのお話があって、

   びっくりいたしました。大学卒業後は、海外の大学院に行くことを考えていましたので、

   どのようにお返事をしたらよろしいかと迷い、考えさせてくださいとお話しさせていただいて

〈結婚にむけた準備〉

秋篠宮 「少し時計の針を進めましょう。私が大学を卒業したのが1988年ですが、

       その年の夏から暫くの間英国に滞在しました。

       この間、昭和天皇のご不例と崩御があったことから、

      しばしば日本に帰ることになりました。

      日本にいる間は、諸行事に参列するためだったのですが、そのおりに、

      将来のことについていろいろと話す機会にもなりました。

      そして、1989年の9月に公表するに至りました。

      これはいわゆる結納に当たる正式な婚約ではなく、皇室会議の議を経て

      婚約が内定したということを発表する機会でした。

     服喪中のこうした発表は異例なことと思った人がいたようですが、

    1951年7月の順宮(現池田厚子)様の発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後で、

     しかも当時参考としていた旧皇室服喪令によると、

    私たちの発表時期より一段階重い

    服喪期間中でしたので、手続きを終えたという発表は前例にもあり問題ないと

    宮内庁は判断したわけです。

    そして、私たちの結婚の時期についてです。

    秩父宮両殿下のご婚儀が1928年9月末で、昭和天皇の即位の礼が

    同年の11月初旬。

    その間は2ヶ月もなく、大変だったことを両陛下が聞いていらしたそうです

     そのようなことから、私たちのときには、結婚から同じ年の11月予定の即位の礼までに

     ある程度の時間があったほうがよいとのことで、私が帰国した直後に式が

    おこなわれることになりました。

紀 子 「とてもありがたい思し召しを賜り、感謝申し上げております

秋篠宮 「話が少し前後しますが、昭和天皇の一周年の行事が終わり、

      私は1990年の1月から6月にかけては英国に滞在していたわけですが、

      その間、新たに住む家については、あなたに任せきりでした。

      もっとも、改築の平面図を見てもイメージすることができない私より、

      多少は空間認知に優れているあなたが見る方がよかったのは明らかでしたが。

     今のは自分にとって都合のよい言い訳なのですが、

     実際のところ帰国したのが6月21日で、6月29日の結婚式までは

     約1週間しかなかったことを考えれば、新居での生活の準備は完全にあなたへ

     依存していたわけで、このことについては申し訳なかったとしか言いようがありません。

紀 子 「いいえ。むしろ、英国よりのご帰国を待っていたのかのように、

     式までの約1週間、宮中行事の習礼(しゅらい)をはじめ、

     関係者とのこまかい打ち合わせが多くおこなわれましたが、

     時差がある中、大変ではありませんでしたか。

秋篠宮 「幸いなことに、私は一般的に言われていることとは逆で、若いころは東へ向かうほうが

     時差の影響が少なかったため、それで大変ということはなかったと思います。

紀 子 「新しい生活にむけての準備や支度は初めてのことばかりで、新居について、

    相談をしたいと思いましても、当時は連絡手段としてメールはまだ普及していなくて、

    電話やファクシミリで、英国との時差もあり、すぐには連絡がとれない状況でした。

    式までに考えるべきこと、決めるべきことがたくさんあり、大学院の講義も受けていましたので、

   時間が経つのが早く、準備を終えられるか心配でした。

   そのような中、宮内庁の職員が、改築や内装をはじめ、よく考え、提案してくれました。

   そばにいらしてくださったら、どんなに心強いかしら、と思うことはありましたが、

   いろいろな人の助けを借り、用意をある程度進めることができました。

   帰国されたときは、本当にうれしく、それまでの不安もどこかにいってしまうくらいでした。

 もおうっ 勝手にしてっ 羨ましいっ それだけっ

 一度だけ、紀子妃が記者達の前で涙目になった事があった裏にはこんな事が。

   新居について任せきり・・・普通は「私の好きにしていいのね」だけど、公のお客を

   迎える事もあるし、宮邸として恥ずかしくない調度を整えなくてはならないし。

   泣きたくなるよね。

 順宮と秩父宮の結婚も服喪期間中だったんですね。

  でもあの時のマスコミはかなり「異常事態」と騒ぎました。じゃあ、一体

  あそこまでバッシングしたマスコミはなんだったのよっ

  宮内庁が庇わなかったからでは?

  両陛下も「前例がある」とわかっていたら、誕生日会見等で少しは言って

  あげてもよかったんじゃ。

 

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秋篠宮家創設25年目の疑問3

2015-06-29 07:00:00 | 皇室報道

 秋篠宮両殿下 銀婚式 おめでとうございます

これからもお健やかに仲良くお過ごしくださいませ

国民は秋篠宮家の繁栄を心から祈っております

1989年の8月。そのニュースは突如私達の耳に飛び込んできました。

礼宮さまご婚約内定」ニュース。

学習院のキャンパスを父君と歩く紀子嬢は、音声がないものの

清楚な雰囲気でいかにも「女子大生」と「いう雰囲気。

っていうか、バブルのあの頃、あそこまで清楚な女性はそうそういなかった

婚約会見で生の言葉を聞いた時

こんな時代に、こんな言葉遣いをする人がいたの?」状態。

なんせ「お答えしてもよろしゅうございますか?」ですよっ

それは「礼宮様は初恋ですか?」と聞かれた時の答え。

私なら「はい」か「いいえ」で答えそうな処、紀子嬢は

お答えしてもよろしゅうございますか?」とお聞きになった。

そして礼宮殿下は自信を持って「どうぞ」とおっしゃり、紀子嬢は

にっこり笑って「はい。そうでございます」と答えられたのです。

また「お子様は何人ですか?」ときかれて、礼宮がじょうだんめかして

何人にしましょうか」というと、紀子嬢は吹き出しそうになるのを耐えつつ

それも・・よく相談して」と。

まあ、なんて奥ゆかしいのっ 誰もが思い出した。

「初恋」ってこんな感じよねっ 一途で甘くて酸っぱくて。

回りが顔を真っ赤にしてしまう程、お二人は愛し合っていたのでございました。

が・・しかし。

実は「紀子様バッシング」はこの時からひそかに始まっていたのです。

婚約時期が昭和天皇が亡くなられて半年後の事であった事が、異常に取り上げられ

「喪中なのに婚約を強行したわがままな礼宮」から始まり

「実は紀子妃は堕胎していた」やら「そもそも礼宮とは身分が違う川嶋紀子嬢は

結婚が認められるとは思わなかった」等々

紀子ちゃんフィーバーで、世間は大騒ぎしている陰で、こんな報道もいくつかみられたのでした。

 

天皇家としては1990年の11月には即位の大礼があり、どうせ結婚させるのなら

ぜひこれに参列してもらわねば困る・・・・(と考えたのが陛下なのか宮内庁なのか

それはわかりませんが)

紀子嬢は単に「礼宮のお妃」として宮中に入るだけでなく、いきなり「筆頭宮家の妃」

という立場で「即位の大礼」に臨まねばならなくなったのです。

皇太子妃不在のこの時、「筆頭宮家の妃」は皇后に次ぐ地位

国際的に大きな行事であり、失敗は許されませんでした。

もし、この時、雅子妃がいたら・・・・・と思うと、ちょっとぞっとしますよね。

 

私達国民は、ただただ庶民的で可愛らしい、だけど「育ちのよさ」を十分に感じさせる

可愛い「紀子スマイル」にまいっておりました。

礼宮とのツーショットがラブラブで、いいなあと思った人も数知れず。

そして迎えた1990年6月29日。

その日は曇っていて、とても寒かった・・・・本当に寒かったんです。

朝、ピンクのワンピースを着てご両親に「ありがとうぞんじました」とおっしゃった

可憐な紀子嬢は、颯爽と新調した萌黄の十二単に身を包み、まるで平安時代から

タイムスリップして来たのか?と思う程美しい姿を私達に見せてくれました。

まさか、朝見の儀、秋篠宮の髪を直す紀子妃の写真が物議をかもすなんて

思いもよらなかった事

朝見の儀を終え、ローブデコルテにコートをお召の紀子妃は本当に美しかったです。

コートがゴージャスで私は大好きでした。

でも、車がオープンカーでなかった事にはちょっとがっかり。

窓から手をふられる紀子様は、一瞬にして「秋篠宮妃」として存在していました。

この時、必死に「お妃らしく」振る舞おうとされたのでしょうね。

そして、宮邸について、着替えて庭で取材を受けた時の姿を見てびっくり。

え?あれが宮邸・・・・・?

申し上げておきますが、事大はバブル最終期。

結納金は100万。婚約指輪はダイヤで給料の3か月分、新婚旅行はヨーロッパ

やニューカレドニアが当然だった時代ですよ。

新しい宮家の誕生に、てっきり宮家を新築するのだとばかり思っていたのに

なんと職員宿舎とはっ

 

それでも「そのいち新築するんだろう」と思っていました。

だって皇族だし、筆頭宮家だし。

ところが!

「学生結婚なのに新宮邸は贅沢」と言われた(誰に?)為に

延々とこの職員宿舎にお住まいになったのでした。

確かに学生結婚に違いないのですが、でも、お二人は若い皇族として

両陛下と皇太子に次ぐ立場。

賓客をもてなす事もあるでしょうに・・・・・何で宮邸を新築しなかったのでしょう。

秩父宮妃がそのあまりのみすぼらしさに

自分が死んだらこの宮邸を使って」と遺言を残され、やっとお引越し。

一時、秩父宮邸より広い高松宮邸に移るのでは・・・・という噂がありましたが

それも「辞退」

悠仁殿下が生まれた時はプレハブで増築でしたっけ?

 

申し上げておきますが、平成になって吹上御所は新築されました。

東宮が結婚する時も東宮御所が大幅に改修され、その後も改修されました。

高円宮邸も改修されています。

というか、末端宮家が宮家を創設する時には「職員宿舎」という選択はなかった

んですよね?

 

なぜに秋篠宮邸は新築される事がなかったのか。

今もって疑問です

学生結婚でも学問も公務もしっかり務め、さらにお子様を産んで育てていらっしゃる。

その「成果」をなぜに認めて差し上げなかったかと。

両陛下の強い思い」はこういう時は絶対に出て来ませんけど

それだけではなく、私達は小さな眞子姫や佳子姫の着袴の儀の画像すら

見せて貰えないのでございますよ。

確かに秋篠宮家への様々な「遠慮の強制」は雅子妃入内以後、表面化しましたが

実は結婚当初から、なにかにつけて「遠慮」させられてきたのが事実ではなかと。

その理由はよくわかりません。

 今上と常陸宮兄弟の親密さがない事

大正天皇まで一人っ子だった皇室は秩父宮が生まれた時

「天皇の弟」への扱いに苦慮したと言います。「弟」とは何をする人なのか

近代の皇室にそんなマニュアルなど絶えて久しかったからです。

慎重派の昭和天皇に対して、一つ違いで「スポーツの宮様」と呼ばれた

秩父宮はとても人気があり、一時は「擁立」を考えた人がいる程。

高松宮は有栖川宮家の祭祀を受け継ぐというちょっと特殊な宮家。

そして末っ子の三笠宮は、思うに兄宮と年齢が離れすぎてあまり親しみを

感じた事はなかったのではないかと思われます。

 

昭和天皇に皇太子が生まれなかったら、皇位は間違いなく秩父宮に移って

いたろうし、その後は三笠宮系統で繋がっていたかもしれませんね。

今上と常陸宮は兄弟とはいえ、あまり親しさを感じません。

幼い頃から別々に暮らしていたという事もあるでしょうけど、「弟」として

あまり期待されていなかったせいもあるのではないかと

(それは公務ではなく、やっぱり世継ぎの話で)

今上は現皇太子程「弟」にライバル心を燃やしたことなどないでしょうし

弟が自分に匹敵する立場になるという事も考えてはいないでしょう。

(古い話ですけど、日揮事件でぽしゃった常陸宮様の喜寿のお祝いは

どうなったんでしょうか?陛下が「中止」にしたのですけど)

要は気遣いがないんですよね。

 

現代、皇太子と秋篠宮で逆転現象が起きています。

「兄と弟、どちらが天皇にふさわしいか」という事です。

世継ぎのいない兄、世継ぎをもうけた弟。

本来なら皇統は弟に譲られるべきであり、それ相応の扱いを受けるのが当然。

しかしながら、今もって秋篠宮家は沈黙と遠慮を押し通しています。

けれど、依頼される公務の質や量が、今までの宮家の比ではなく、どの宮家も

経験した事のない立場の「重み」というものが秋篠宮家にはあるのです。

沈黙も遠慮もしていられない状態になっている筈です。

もはや「長幼の序」は逆転しているのだという事に両陛下も気づいて頂きたい。

本当に将来の皇室を憂えるなら、目の前にいる皇統」を大事にして頂きたいです。

 

 

 

 

コメント (5)
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