正直、朝から女性自身を読んで笑ってしまったり、「けっ!」って思ってしまったり、色々な感情が渦巻いていたのです。
今週の女性自身のタイトルは「陛下に捧げる命のスープ」
ってこれ、どこかで聞いた事ないですか?
出たよ!出た出た!金色のスープの事だな。美智子さまお手製の。
って思ったら、なんと雅子さんが作った・・じゃないかな?的な。
誰に?陛下。
天皇の前立腺の検査は本来9月の予定だった
しかし、イギリス女王の国葬に出席する為に延期。10月は色々公務が忙しいので11月になった。
雅子様は美智子さま伝来の「命のスープ」のレシピをとりよせて、コンソメスープを作った。
陛下をお守りするのは私しかいないっ!
ね?笑っちゃうでしょ。
「黄金色のスープ」も週刊誌が作成した言葉で、いわゆる上皇が入院した時に美智子さまがお手製で作ったコンソメスープの事。
具は何も入ってない。
もしかしたらコンソメから手作りなのかもしれないけど、雅子さんはキッチンに立って美智子さま秘伝のスープを陛下の為に作った・・・らしい。
上皇后が作れば、ただのコンソメスープも「黄金色のスープ」とか「命のスープ」と名を変えて称賛されるわけですね。
腹が立ったのは、検査の予定が本来9月だったという事です。
最初から宮内庁が考えるように秋篠宮夫妻が国葬へ行っていたら検査が出来たんじゃないですか?
それを「すぐに命に係わるものじゃないから国葬だけは行く」と、横取りして海外旅行しちゃったというわけです。
確か、雅子さんはベルギーに妊娠を隠して旅行して流産した「前科」あり。
今回は夫の検査を先延ばしにしてでも国葬へ行きたかったというわけですね。
「陛下の命は私が守る」とか馬鹿馬鹿して聞いてられません。
しかし、それもこれも、皇室における「永遠の悲劇のヒロイン」美智子女王皇后が嫁の躾を怠って、好き勝手にした挙句、息子の病気を悪化させた結果と言えば、因果応報かとも思うのですが。
その美智子上皇后については
「どうしたら絶望しないで生きていけるのか」知人に語られていた皇后の苦悩」
というタイトルで記事が載っていました。
民間から初の皇后になった美智子さまは苦悩が多かった
「粉屋の娘」という言葉に傷ついた
《“粉屋の娘”という言葉を聞くたびに、父はつらいだろうと胸が痛かったです
ちなみにこの言葉は皇族や元華族が言ったセリフとなっている。
「わたくしは歴史のなかで皇后が家族を引きずってこなかったという唯一の例です」
要は藤原氏や蘇我氏のように「娘を入内させて実家の権勢を誇る」歴史の中で自分一人だけが実家と縁を切るような状態で生きて来たということ
「父も母も、『私たちが唯一やってあげられることは皇室のまわりにいないことだ』と言っていました」(BY上皇后)
1963年、胞状奇胎で流産するも実家を頼らず葉山で静養
「わたくしは皇室に上がったからには自分1人であらゆることを考えなければなりませんでした。また、陛下以外に人には絶対に言ってはならない事実がいくつかありました。母にさえ、言ってはならないことがあるのです」
「これから皇室に嫁ぐ人には、わたくしのときよりはご実家と絆を持っていただきたい」
「忍耐強さだけだったのね、私がほかの人よりあることは」BY上皇后
正田美智子さんという人は結婚する前から悩み、結婚した後も「八方ふさがり」と何かにつけて言い続けて来ました。
だから国民は「美智子さまはさぞ苦労されたのだろう」と同情したのだと思います。
しかし!
上記を読むと、本当に美智子さまが苦労だと思って来たことは紀子様に比べたらなんて事ないじゃない?と思ってしまうのです。
そもそも上皇には強力なお妃候補の北白川さんがいた。
しかし、小泉信三らキリスト教信者のリベラル派が仕組んだ「テニスコート」でハニートラップにひっかかった
この時、正田英三郎氏をよそに、その妻富美さんと宮内庁との間で何等かのやりとりがあったが、実現されなかったので「約束が違う」と冨美さんは晩年言い残した。
その約束とは「正田家がかつての藤原家のように宮中で権勢をふるう事」だったのではないかと私は推測。
けれど、恐らく正田英三郎氏は軋轢を起こしたくなくて、必要以上に身を慎んだのではないか。
流産の時は葉山の御用邸には正田英三郎氏が行っていた。
手袋事件はあったものの、新しく東宮御所を建てて貰って、金持ちをひけらかすように洋服や着物をとっかえひっかえして、1964年にはティアラまで新しく作って貰って、皇孫に恵まれ、一体どこに「絶望」があったのか不思議です。
歴史上「皇后が家族を引きずってこなかった唯一の例」というのは明らかに間違っていますよね?
昭憲皇太后は小さい時に生母を亡くされ、戊辰戦争のさなかに父と兄を亡くされ、たった一人で皇后になった人です。
御実家の一条家は血の繋がりのない人が継いでいたから、頼る所は一つもなかった筈です。
さらにお子様にも恵まれなかった・・・そちらの方が絶望的じゃないですか?
上皇后から見ると、香淳皇后のように秩父・高松・三笠の3宮妃ととても仲がよく「元華族」「元皇族」としての歴史を共有していること、常陸宮妃もまたそうである事がとても羨ましく悔しい事だったのではないですか?
だから、「皇室改革」の名のもとに伝統をがんがん壊して行った・・・・
「住む場所」にもやたらこだわりがある人で、昭和が終わった時には香淳皇后にそのまま吹上御所を仙洞御所にしてと優しい事をいいつつ、自分達の為に新宮殿を建てさせた。
自分達が隠居になると高輪では狭いと文句をいい、皇嗣家から東宮御所を奪ってしまった。
上皇后からみると今上が不憫でならない。頭がよくないし、背も低いし弟に負けてばかりで可哀想。
だからせめて嫁くらい好きな人と一緒にさせてやりたかった。
秋篠宮は結婚する前から高松宮妃に好かれ、紀子妃を娶る事で秩父宮妃にも愛され、悔しいから宮邸は職員宿舎でいい。
雅子さんが小和田家を背景に権力を行使するのを見て、これなら息子も救われるかもと思った。
その通りでオランダ静養は実現したし、水の総裁にもなれた。
愛子内親王は息子を見るようで不憫。
それにくらべて川嶋家はかつての正田家以上に身を慎んでいる。何様?どうしたって紀子妃が生んだ息子に天皇の座はやれない。
そんな気持ちだったのではないかと拝察します。
じゃあ、上皇はどうだったんだ?
上皇はそもそも昭和天皇の否定から入っている人ですから、上皇后と同類です。
でも本当は寂しいのでは?
親族がみな離れて行ってしまった・・・若い時はそうでなくても昭和天皇の死後、旧皇族・旧華族との関りがなくなった事を痛感した筈です。
今上一家も「天皇家」というカプセルに入っていたのなら、上皇夫妻と徳仁親王もまたそうだったと思います。
あれだけ世界各国を回り、仲良しの王族もいた、綺麗なドレスや着物を沢山着ることが出来た。旅行もした、静養もした、人々からちやほやされた。
夫に愛され、子供も3人出来て他の宮家とは違う地盤を整えた。
なのに「絶望」とはいかがなものかと思うのです。
それら華やかなものすべてを犠牲にしても得たかったものは何だったのか?