ご日程
皇嗣家
8月18日・・・佳子内親王 → 「第41回全国高校生の手話によるスピーチコンテスト」出席
8月21日・・・両殿下 → 皇宮警察本部長表彰の永年勤続功労者に会釈
夏休み期間と言う事で天皇家の日程なし
「愛子天皇」の署名運動は続いているようです。
上皇夫妻 軽井沢で静養
22日から上皇夫妻は軽井沢で静養。
すっかり定番化した「軽井沢」静養です。
若い方はご存知ないし、何の疑問も持たないと思うのですが、かつて軽井沢は上皇夫妻が皇太子夫妻だった時の避暑地でした。ホテルは堤家のプリンスホテルを使っていたのです。
御用邸があるのになぜ?と思うかもしれませんが、誰も文句はいいませんでした。
上皇は正直那須は暗くて嫌いと発言した事もあり、平成の終わりから軽井沢→草津とハシゴ静養も当たり前になりました。
しかし、即位した頃には「なぜ御用邸があるのに軽井沢に」と批判が出て行かなくなったんです。上皇になれば好き放題に民間施設を利用出来るわけですね。
皇后を悪くは言えないでしょう。
昭和34年2月6日の国会審議は非常に様々な問題を論じていますが、最終的には当時の皇太子、つまり上皇陛下の行動に「問題あり」と考えていた人達が数多くいたと言う事です。
その理由は、第一に
自由恋愛して結婚を決めたこと
一般人と同じような遊びを堂々として、それをマスコミが持ち上げて取り上げている
終戦から僅か10年近く、国民は敗戦によって心のよりどころを失くした。
唯一、昭和天皇のありようだけが国民の心のよりどころであるのに、皇太子は自由に行動し結婚し、さらに御所を作るより先に東宮御所を作ろうとしている。
これは果たして皇太子としてふさわしい行動なのだろうか。教育係の小泉信三にも責任があると追及しています。
皇太子は結婚後は「マイホーム主義」と言われて批判されました。公務よりも家庭優先。
その批判をかわす為、皇太子夫妻は自ら営業して公務を増やし、その見返りとして軽井沢静養や、ハシゴ静養を得ていたような気もする。
色々秩父宮邸を改修した秋篠宮邸が愛子天皇派によって批判されているが、時の東宮は本来は赤坂迎賓館を東宮御所にしなくてはならなかった。
しかし、その当時、迎賓館は国会図書館として使用されていた為、渋谷の東伏見邸を東宮借り御所として使用。
昭和天皇らは「御文庫」と呼ばれる防空壕にお住まいだった。
国会では東宮御所の建設に対し、保守派は「もう少し我慢すべき」と言った。
当時はゼネコンによりほぼ奉仕のような状態で東宮御所を作る案があってもなお。
しかし、1960年、貞明皇后が住んだ大宮御所を潰して新東宮御所を作った。
仮御所は常陸宮邸になった。
第一子が男子だったと言う事で、もう美智子妃には怖いものがない。
上記の写真を見ても、どっちが皇太子かわからない程。
そういう意味では現天皇とよく似ている。
ちなみに、「女帝論」を唱える人達もいた。
昭和天皇が秩父宮の臨終に立ち会えなかったこと、香淳皇后が実母の臨終に立ちあえなかった事を「人権侵害」とも言っている。
しかし、それほどに天皇皇后は「穢れ」に触れてはいけない存在なのである。
イギリスにも女王がいるのだから女帝も認めるべきと言っているのは、社会党系の人達。
つまり社会主義の人達なのだ。
戦後すぐから、このようにいわゆる皇室の伝統を壊し、「一般人」化したい人達がうごめいていたのだった。
私は秋篠宮があのような環境下でよくぞ、ご立派に皇室を理解し、お子様方の教育を全うされているものだと感心してしまう。
上皇も兄もどちらかと言えば「自己愛」に満ちた皇室を作り上げてきたのに、秋篠宮はその逆を行っている。悠仁殿下もまた若いながらに父の薫陶を受けている。
昭和天皇との繋がりや高松宮家との付き合いなどが価値観を醸成したのかもしれない。
そして最も素晴らしかったのが紀子妃を選んだ事だ。
紀子妃の存在がなかったら秋篠宮家もまた天皇家と同じ道を辿ったかもしれない。
そう思うと、本当に皇統は常に綱渡りと思わざるを得ない。
恋愛結婚を至上とし、自認する上皇と上皇后は、長男の一方的想いの執着に理解を示し、次男の大学時代の恋愛からの結婚を、後押しした。
長男夫婦の場合は、嫁の入内が、皇室のトロイの木馬となり、皇室がガタガタとなった。秋篠宮様の場合は、紀子様の出現により、次々代の涼やかな悠仁様をお産みになり、男系男子を繋いでくださった。
秋篠宮様と紀子様の恋愛結婚のお蔭で、奇跡が生まれたという事です。だから、恋愛結婚も悪い場合ばかりではありませんね。
それは、雅子さまも今上も、ですね。
妃殿下が民間で商家の出身でも敗戦後の世では仕方なかったとは思いますが、何百年という伝統を守ってきた大店の、その伝統を守るということの大切さをよく理解したお嬢様なら、もっとマシだったろうにと思います。
でも、そういう伝統を守る意識が身に付いたお嬢様では、古臭いイメージでお気に召さなかったでしょうね。
赤子の手をひねるより簡単だったことでしょう。
ご学友のそそのかしにそういうものかと乗り、流されてしまう。立ち止まり自分の頭で考えないように否定され教育されたのかもと、今なら思います。
教育係、学友、取り巻きと、十重二十重に囲い込まれ軽いおみこしになられました。
苦労や面倒くさいことから逃げまくり、操り人形となられました。
賢そうな表情や写真が、私には浮かびません。
横で体をくねらせる妻にみっともないと注意なさいませんでしたし。結構、キモイですよミテコサマ。
学友らは無責任に依頼された役割を果たしながら、陰であざけり笑ったのでしょう。
いろいろな便宜と引き換えだったのでしょう。
というわけで、すれっからしの義母付きで底意地のわるぅううい写真に撮られるのが大好物な嫁につかまってしまったのでした。
マスコミをあやつるのに報道の大元の共同通信を牛耳りました。
上海夫人は着物姿では神妙にうつむき、苦悩のそぶりをし、洋行のおしゃれな洋装でははじける笑顔をみせていましたね。着物は仮の姿・鎧でコスプレだったのかも。
あの洋装は勝利宣言だったのでしょう。
戦争に負けるとこうまで翻弄されるのかと悔しさに苦い涙を流した国民は多いのです。
さかのぼり、知識を得る私もそのひとりです。
>~九千万の象徴となられる方だから心配をしておるのであります。
>その点義宮の結婚と非常な違いがあるということも考えなければならぬ。
この義宮の結婚との違いがあるという件です。
義宮(常陸宮)と華子さまのお見合い・ご成婚は5年後の昭和39年。
昭和34年当時に言う、ご兄弟の結婚についての違いとは、どういうことなのでしょう。
宮内庁には、当時学習院大を卒業して東大の研究生だった義宮には自由恋愛を許すつもりが無かったということなのかしら。
ご長男には緩く、次男には厳しく?
あれ?どこかで聞いたような・・・
私もふぶきさん同様、秋篠宮殿下がものすごい制約の中、皇室をお守り下さっていると感じています。本来なら、義宮と同様に礼宮も旧華族とのお見合いがあったはずです。それは母親が許さなかった。聡明な礼宮は、資格のある女性から国民に大歓迎される女性を選んだ、という具合です。
昭和天皇の影響と、高松宮秩父宮両妃殿下方に可愛がられたことから、礼宮は自ら帝王学を学ばれたと思います。母親の支配下にあるナルと違って・・・。
皇位継承順位第一位の皇太子の結婚話と、年齢的に大差ない(皇位継承順位の回ってくる可能性の少ない)義宮の結婚話を、同じように考えるべきではない…ということでは?
もっと突っ込んでいうと、
「(そういう話はまだ出てないけれども)これが義宮のことなら100歩譲ってまだ許せる。しかし、ほぼ確実に将来皇位を継ぐことになる皇太子がこんなだらしのない結婚をすることは許しちゃならんでしょう。あんたら皇統のことをもっと真剣に考えなさいよ」
…と言っているのだと理解しました。汗
>昭和34年の国会質疑の平井氏の質疑でよく分からない点があります。... への返信
それは将来天皇になられる東宮となられない義宮様とでは配偶者を選ぶ基準が違うという事でしょう。
義宮様はある程度自由にお相手を選ばれてもいいけれど、東宮は国民皆が納得する相手でなければならぬという事でしょう。
真逆の選択になってますけど。
お二方とも同じようなお話かと思いますので、まとめてのお返事でよろしくお願いします。
そうですね。読み取りが浅くお恥ずかしいです。
正してくださって、ありがとうございました。
これから、弟君の義宮が例え美智子さまのような方と恋愛されても、それでも100歩譲ってだがまだ許せるかもしれない。
しかし、上つ方になられる皇太子はそういう訳にはいかない。
そういうことですね。
義宮も兄君のことをよく見ておられて思うところがお有りになっただろうし、またご性格もお有りだと思いますがお似合いの佳き方と添われましたね。
「26回お見合いをしたのに全部に断られた女性で、いいのか?」
「現在、婚約者が居るそうだが………。」
「本当にバージンなのか?」等々、現代だったら不可能な突っ込んだ質疑があったと読んだことがありました。
なお当時、破竹の勢いだった社会党が美智子さんの応援に回ったとか(小和田雅子さんの時は、部落解放同盟が宮内庁を恫喝。ホントにそっくりな上下夫人です)