よし坊のあっちこっち

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澤穂稀のアメリカ (2/4)アトランタビートとWUSA

2011年07月26日 | サッカー
スターになる選手には、一つの重要な要素、と言うか関門がある。特にサッカーでは、これが有るか無いかは、その後に大きく影響する。その要素とは、開幕戦で「目立つ」ことだ。最初の強烈なインパクトは、ファンの脳裏に鮮やかに焼き付けられる。

2001年、いよいよアメリカ女子サッカープロリーグ(WUSA)の幕が切って落された。そして、アウェイのボストン・ブレーカーズとの開幕試合で、澤はやってのけた。いきなりビートの初得点を決めたのだ。この一つで、澤の名前は一挙にビートファンの間を駆け巡る。アトランタ・ビート史の最初の一ページに名前が記されることになるのだ。以後、澤はチームの要として、獅子奮迅の戦いをしていく。

ビートはその年の優勝決定戦で惜しくも破れるが、その選手を見ると黄金時代を思わせる陣容だ。FWは#10のシャーメイン・フーパー。カナダの花形代表選手だ。同じカナダからは、DFにシャーロッタ・ノーネンが名を連ねる。FWにはアメリカの代表選手、シンディ・パーローがいる。後に、ドイツからローリ・ポーラ、中国のスーパースター、スン・ウェンも加入して来た。もう一人、メキシコから来たマリベール・ドミンゲスを忘れてはならない。今回のW杯でもドミンゲスはメキシコチームの要として、その元気な姿を見せた。そして、守りの要、ゴールキーパーは、アメリカ代表のブライアナ・スカリーだ。当時のアメリカ代表選手は皆白人だが、唯一の例外がスカリーだった。

ビートのホームは当初はジョージア・テック(大学)のスタジアムだったが、改築の為、後にモーリス・ブラウンカレッジのスタジアムに移る。始まるのが大体夕方6時。チケットは中の上で22ドルだった。よし坊とワイフはホームの試合にせっせと通う事になる。試合前、アメリカ国家の斉唱に続き、メンバー紹介がある。「ナンバー8、ミッドフィルダー ホマレ・サッワー フロム ジャパン」がコールされると、ひと際高い歓声が上がる。


澤はビートの黄金時代に身を置き、欧米の一流選手に揉まれながら、その技を磨いていく。この武者修行無くして、今の澤は無いだろう。

(写真は、ファンの集いで澤に書いてもらったサイン)