路傍のカタバミ
最近、報道機関に対する批判があとを絶たない。事実を歪曲しているのではないか、取材を受けた人が、回答したこととは逆の意味で伝えられたとか。またはこの記事はいわゆるウラがとれていないのではないのか、、、などなど。
これらのことは今に始まったことではない。知り合いの著名人が、取材を受けたのに真反対の言い分として報じられたとか、テレビ局に招かれたのに長時間待たされ、言うべきことを言えなかった、とか。
テレビに呼ばれた、あるいはインタビューを受けたとか、または新聞の記事になったとか得意がる人がいるが、メディアを甘く見てはいけない。メディアの機能を公共性とか、社会の木鐸などをいうのを鵜呑みにしたり、あるいは権力の監視機関などと上ずった考えに乗せられてしまっては、それこそ知性の欠如というものだ。メディアも今日の社会経済の上に成りたつ、売れる売れないの厳然とした経営体なのである。しかも現在、新聞は発行部数の激減、テレビは視聴率の低下にあって、それだけ人々からの信頼度・必要度が落ちているのだ。
とはいえ、メディアによる報道なしでは、今日の複雑な社会は成り立ってゆけない。メディアに依存しながら、日々、伝えられる事実をどう理解していけば良いのか。
問題は、何百万を超える不特定多数の人に対する、伝える=伝えられるという関係の中で、メディア側がどういう機制を働かしているのかと言うこと。
政治家やインフルエンサーと呼ばれている人たちが、事実を明らかにしろ、データを示せ、とか言って声高に意気込んでいる場面によく出会すが、学問や科学と言った専門分野、あるいは私たちの日常生活の中の出来事に関するコミュニケーション関係の中では、事実やデータは「即自的」には存在しないものなのだ。報道としては「1H5W=いつどこで誰がどのように」というが、この方法が事実を全てカバーしているわけではない。一つの観点として表現しているのであって、すなわち、事実というのは、物語化する(科学の場合は条件付ける)以外に伝えようがないのである。こうした機制を理解しないとヘイクが蔓延る。伝えようとするとき、より説得力を持たせようと、物語を上乗せする傾向がある。そして、これに拍車がかかる。
街頭のインタビューや目撃者を介する報道は、上記から明らかなように、ヘイクになりやすい。特に政治がらみの問題には注意してかかる必要がある。メディア側の仕組むマッチポンプには常に警戒すべきである。【彬】