ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

絵を描いて思うこと

2020年09月23日 | 日記

 

 このブログを通じで描いている絵は、誰に教わったというのではなく、小学生のときの描いた漫画絵のようなものをなぞるが如くの、全くの素人の絵である。多少とも形になっているのは、元々工作とか手仕事が好きだったせいかもしれない。別に器用というほどのことではない。
 その私がこのコロナ四連休に新宿御苑で描いた絵がこれである。
 新宿御苑には何回か訪れているので、絵になりそうな花を探していたが、全く花はない。多少咲いていたのはヤブミョウガ、それももうおしまいの季節。そんな中で異彩を放っているのは巨木である。御苑にはいくつも心に残る巨木があるが昨年の台風で、大王松が倒れた。そんな中でびくともしないのが、プラタナス=スズカケノキである。千駄ヶ谷門の入り口には巨大なプラタナスが3本、枝がのたうつように植っている。以前からなんとか絵にならないものかと思っていたが、今回挑戦してみた。
 その結果が画像である。
 素人ながら色々不満である。その一つ、視点が定まらない。
 絵が絵である理由は、視点である。その視点を、遠近感や陰影で表すことになる。ところが素人の絵は視点があちこちに飛び定まらず、結果としてのっぺりとして、遠近感が乏しくなる。遠近感というのは、別に遠くのものと近くのものの配置を表現することでない。対象物の強弱の問題である。
 もう一つは絵に勢いがない。勢いというのは描かれ絵が描く側に押し込んでくる力である。描く方が押し込まれるというのは変が表現であるが、絵描きが目指すのはこの勢いではないだろうか。描かれた方から、みるというのが近代絵画の本質のように思う。
 そんなことを色々考えるいい機会だった。
 私は画家ではないし、芸術家でもないが、素人絵をかくことから学ぶことが多々ある。
 話は飛ぶが吉本隆明「言語にとって美とはなにか」が提示している問題は、上記のことがらなどを、言語の問題として考察しているではないか、などと思うのだ。ちょっと行き過ぎか。
 つまり、絵を描くことも、文字で書くことも表現であることを念頭に置くとき、内側からでる意識=自己表出と、外側からやってくる指示表出がどのように組み合わさせるか、そこに表現の美が生まれるということ。文を書くこと、その案内書である著名な文章読本、谷崎、三島、その他など、急に読みたくなった。 【彬】

 

 

コメント
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