恩田 陸 著 講談社。
「三月は深き紅の淵を」「麦の海に沈む果実」に続くお話。
学生時代の同級生だった利枝子、彰彦、蒔生、節子の4人が、大学卒業から十数年を経てY島に旅に出る。
4日間の島での旅のなかで自分たちの『過去』の闇を見つめ、謎を解き明かす不思議な旅。
彰彦が企画した旅のなか、彼が提案した「美しい謎を考えてくること」という「宿題」が、そのまま4人それぞれの過去の謎につながって、高校時代からの長い長い邂逅になる。そこにかかわる「梶原憂理」
どんな過去が展開されるのか、どんな真実が隠されているのか。
4人がそれぞれの立場で語る過去への邂逅は、それぞれの答えが別々にあって。
それを包み込むY島の大自然。
雄大で厳しくて何もかもを包み隠してしまうような自然。
太古の時代から息づく木々。
「憂理」は「三月~」にも「麦の海~」にも出てくる演劇を目指す少女であり、この物語のなかで、影の主人公でもあるような位置づけ。
利枝子にとっては、一番の親友。
蒔生にとっては、利枝子という恋人の親友であり、気がついたら多分愛していた(んだろうな、彼なりに)女性。
彰彦にとっては、大切な蒔生という親友にとっての「謎の女」であり、節子にとっては危険な女性。
ちょっと苦めのコーヒーを入れて、じっくりと腰を落ち着けて読みたい本だった。
このところ、文庫本を手に取ることが多くて、ハードカバーの本でもここまで厚いものを読んではいなかった。けれど、この「厚さ」がそのまま物語の厚さでもあったので、なんというか、「読み終えたぞ!」って満足感も久々に味わった。
同時に、くたくたにもなったのだが。
「三月~」の関連本は、気楽に読めるものではなくて、私にとってはかなり全力疾走しなくてはいけない内容の作品群なんだけれど、この「黒と茶の幻想」は全力疾走しながら自分の走っている位置を同時にきっちりと確認するコーチ役もしなくちゃいけないような、なんというか、とっても大変な作品だった。
それは多分、自分自身の「過去」も振り返っているようなそんな感覚で読んでいたからなのだろう。
利害関係が一切ない純粋な友人。
学生時代の親友というのは、友達というのは、そうだ。確かに今の自分の背景にある「母親」とか「妻」とか「嫁」とか、「PTA」とか・・そんなややっこしくてめんどくさくって、でももう避けて通ることのできない絡みついてくるもののない、純粋に私自身のみにだけ関わる、かかわってくれる繋がり。そこをまた、思い出させてくれた作品でもある。
最後に。
ここに出てくる「憂理」の印象は。どっちかというと「三月は深き紅の淵に」の第四章に出てくる憂理のイメージかな、と思う。「麦の海に沈む果実」の憂理とはどこかが違うなあ、という印象を受けた。結果がとてもショッキングなものであったけれど、それもまた、「三月」の憂理であれば理解できるかもしれない、と。
「三月は深き紅の淵を」「麦の海に沈む果実」に続くお話。
学生時代の同級生だった利枝子、彰彦、蒔生、節子の4人が、大学卒業から十数年を経てY島に旅に出る。
4日間の島での旅のなかで自分たちの『過去』の闇を見つめ、謎を解き明かす不思議な旅。
彰彦が企画した旅のなか、彼が提案した「美しい謎を考えてくること」という「宿題」が、そのまま4人それぞれの過去の謎につながって、高校時代からの長い長い邂逅になる。そこにかかわる「梶原憂理」
どんな過去が展開されるのか、どんな真実が隠されているのか。
4人がそれぞれの立場で語る過去への邂逅は、それぞれの答えが別々にあって。
それを包み込むY島の大自然。
雄大で厳しくて何もかもを包み隠してしまうような自然。
太古の時代から息づく木々。
「憂理」は「三月~」にも「麦の海~」にも出てくる演劇を目指す少女であり、この物語のなかで、影の主人公でもあるような位置づけ。
利枝子にとっては、一番の親友。
蒔生にとっては、利枝子という恋人の親友であり、気がついたら多分愛していた(んだろうな、彼なりに)女性。
彰彦にとっては、大切な蒔生という親友にとっての「謎の女」であり、節子にとっては危険な女性。
ちょっと苦めのコーヒーを入れて、じっくりと腰を落ち着けて読みたい本だった。
このところ、文庫本を手に取ることが多くて、ハードカバーの本でもここまで厚いものを読んではいなかった。けれど、この「厚さ」がそのまま物語の厚さでもあったので、なんというか、「読み終えたぞ!」って満足感も久々に味わった。
同時に、くたくたにもなったのだが。
「三月~」の関連本は、気楽に読めるものではなくて、私にとってはかなり全力疾走しなくてはいけない内容の作品群なんだけれど、この「黒と茶の幻想」は全力疾走しながら自分の走っている位置を同時にきっちりと確認するコーチ役もしなくちゃいけないような、なんというか、とっても大変な作品だった。
それは多分、自分自身の「過去」も振り返っているようなそんな感覚で読んでいたからなのだろう。
利害関係が一切ない純粋な友人。
学生時代の親友というのは、友達というのは、そうだ。確かに今の自分の背景にある「母親」とか「妻」とか「嫁」とか、「PTA」とか・・そんなややっこしくてめんどくさくって、でももう避けて通ることのできない絡みついてくるもののない、純粋に私自身のみにだけ関わる、かかわってくれる繋がり。そこをまた、思い出させてくれた作品でもある。
最後に。
ここに出てくる「憂理」の印象は。どっちかというと「三月は深き紅の淵に」の第四章に出てくる憂理のイメージかな、と思う。「麦の海に沈む果実」の憂理とはどこかが違うなあ、という印象を受けた。結果がとてもショッキングなものであったけれど、それもまた、「三月」の憂理であれば理解できるかもしれない、と。