2月22日は、「竹島の日」です。
今、文在寅政権の韓国と日本の関係は、かつてない最悪な状態に陥っています。そしてその出口も全く見えていません。
東亜日報が紹介したバイデン政権高官のコメントによるとこの高官は、日韓関係について「韓国が過去にとどまって前に進まないなら、バイデン政権の人々はパートナーとして韓国に期待することをあきらめる可能性もある」と警告したのだそうです。
「韓国への期待を放棄も」日韓対立でバイデン政権高官が警告 - zakzak:夕刊フジ公式サイト
悪化している日韓関係の棘は数多ありますが、韓国による竹島の不法占拠はそのうちの大きな棘のひとつですね。
ソウル大学などで日本語講師として活動し、ビジネスで通訳、翻訳の仕事をしておられる、呉花梨さんが、「日本人はもはや加害者ではなく、韓国人はもはや被害者ではない。」「韓国と日本は、互いに信じ合って協力し合えば最強のパートナーになれると確信している。」と、関連記事を書いておられます。
呉さんが知っている韓国は平和を愛する国だ。他国を侵略せず、中国の文化を日本に伝える役割を果たしてきたし、日本を敵対国として認識していなかった。中国は無知だったわが国に文化を伝えてくれた兄の国であり、野蛮な国とされていた日本は、韓国が文化を伝えて悟らせた弟の国だったと。
儒教を国教として受け入れ、礼儀を重視していた朝鮮は、兄の国である中国を奉じ、弟の国・日本の面倒を見なければならないという気持ちを持っていたとも。
しかし、1910年の韓日併合により日本の植民地となったことで、民族のプライドは一瞬にして崩れてしまい、私の徹底した愛国心は自然と反日感情につながった。韓国民であれば、このような気持ちを持つのは当然だと思っていた。日本人は加害者、韓国人は被害者。そうした韓国人にとって反日感情の象徴こそ独島ではないだろうかと呉さん。
現在、独島は韓国が実効支配しているが、この問題が国際司法裁判所に持ち込まれた場合、どのような判決が出るのか、分からないと。
独島周辺海域の平和は日本側の自制により保たれていると語っておられるのは、金完燮(キム・ワンソプ)さん。
竹島は日本の領土 竹島周辺海域の平和は日本側の自制により保たれている - 遊爺雑記帳
韓国人にとって、日本が独島を自国の地だと主張するのは、韓国をまだ植民地だと考えているではないか、という気持ちが根底にある。法的根拠から客観的に見れば、竹島と呼んで日本の領土だと主張するのが妥当かもしれない。しかし、韓国人が自国の領土として認識することも全くとんでもない主張とばかり言い切れないと呉さん。
呉さんは、1990年代、日本に留学されたのだそうです。そして次第に、日本に抱いていた先入観が崩れていったと。
「反日韓国に未来はない」の著者、呉善花さんも、学校で教わる日本と、おばあさんが話してくれる統治時代の日本の姿が違い過ぎたが、日本に来てみたら、おばあさんの話の方が正しかったと述べておられますね。
今ここにきて、日本と韓国は再び最悪の冷戦状態を迎えている。韓国では日本語を学ぶ人が減り、日本製品の不買運動まで行われている。果たしてこのような状況が両国においてプラスになるだろうかと呉花梨さん。
私は韓国人であり、独島を竹島と呼ぶことはできないし、独島を韓国の領土だと考えている。しかし、手放しで韓国の領土だと呼んではいけないと考えている。なぜ日本が自国の領土だと主張するのかも考えなくてはならない。それと同様、韓国人の独島に対する考えも日本人に知ってほしいと思うと。
日本人はもはや加害者ではなく、韓国人はもはや被害者ではない。根本的には互いを理解しようとする姿勢が足りないのが原因だと思う。韓国と日本は、互いに信じ合って協力し合えば最強のパートナーになれると確信しているとも。
呉花梨の仰る通りですね。
文中で、金完燮さんの「独島周辺海域の平和は日本側の自制により保たれている」という言葉に触れました。
日韓基本条約を結びスタートした戦後の日韓関係。
その歩みのなかではいろいろありました。関係改善の為、両国政府はいろいろな約束をしてきました。そして文在寅政権となっている今。それらの過去の両国の関係改善の積み重ねがことごとく覆されています。
残念なことです。
冒頭で紹介した東亜日報の記事のバイデン政権の米国高官発言。日米韓が絆を強めていこうとしてきたのですが、トランプ政権だけでなく、バイデン政権でも文在寅政府には期待を失っているのも現状ですね。
# 冒頭の画像は、竹島周辺で軍事訓練する韓国海軍
春を待つ空の巣
杉原由美子氏による絵本「メチのいた島」読み聞かせ - YouTube
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今、文在寅政権の韓国と日本の関係は、かつてない最悪な状態に陥っています。そしてその出口も全く見えていません。
東亜日報が紹介したバイデン政権高官のコメントによるとこの高官は、日韓関係について「韓国が過去にとどまって前に進まないなら、バイデン政権の人々はパートナーとして韓国に期待することをあきらめる可能性もある」と警告したのだそうです。
「韓国への期待を放棄も」日韓対立でバイデン政権高官が警告 - zakzak:夕刊フジ公式サイト
悪化している日韓関係の棘は数多ありますが、韓国による竹島の不法占拠はそのうちの大きな棘のひとつですね。
ソウル大学などで日本語講師として活動し、ビジネスで通訳、翻訳の仕事をしておられる、呉花梨さんが、「日本人はもはや加害者ではなく、韓国人はもはや被害者ではない。」「韓国と日本は、互いに信じ合って協力し合えば最強のパートナーになれると確信している。」と、関連記事を書いておられます。
「竹島」と「独島」を憂うヘイトなき韓国人の本音 独島を手放しで韓国の領土と呼んではならないと思う理由 | JBpress(Japan Business Press) 2021.2.17(水) 呉 花梨:日韓通訳者・翻訳者
「独島は我が国の領土」
これは、1982年に韓国で作られた流行歌のタイトルだ。この歌は国民的ヒットソングとなり、その後、何度も歌詞がグレードアップされて作り替えられた。なぜこれほど韓国の全国民から愛され、人気を博したのだろうか。
韓国人である私は、小学校から高校までの12年間、歴史の時間にわが国の植民地時代について学んできた。また、その時代が背景になったドラマでは、日本人巡査がどれだけひどい人たちだったのかを目にした。国を奪われるというのは、このような悔しさと悲しみ、そして多くの悲劇に耐えることなのかと思った。
末弟に蹂躙された次兄
私が知っている韓国は平和を愛する国だ。他国を侵略せず、中国の文化を日本に伝える役割を果たしてきたし、日本を敵対国として認識していなかった。中国は無知だったわが国に文化を伝えてくれた兄の国であり、野蛮な国とされていた日本は、韓国が文化を伝えて悟らせた弟の国だった。
儒教を国教として受け入れ、礼儀を重視していた朝鮮は、兄の国である中国を奉じ、弟の国・日本の面倒を見なければならないという気持ちを持っていた。しかし、1910年の韓日併合により日本の植民地となったことで、半島周辺の国々と大小の戦争を経ながらかろうじて守ってきた民族のプライドは、一瞬にして崩れてしまう。
私の徹底した愛国心は自然と反日感情につながった。韓国民であれば、このような気持ちを持つのは当然だと思っていた。日本人は加害者、韓国人は被害者なのだから。そうした韓国人にとって反日感情の象徴こそ独島ではないだろうか。
日本留学で知った本当の日本と日本人
韓国は日本による36年間の支配を経て1945年に解放された。だが、1905年に日本の領土として登録された独島は、返還の対象に入っていなかった。
日本は1905年に独島を日本の領土として登録したこと、また1951年のサンフランシスコ平和条約草案の作成過程で独島が日本の領土として認められたとし、独島を日本の領土だと主張してきた。朝鮮戦争の真っ最中だった1951年9月、米国と日本はサンフランシスコ平和条約を締結し、両国は同盟関係を結ぶ。米国は同条約を通じ、朝鮮戦争で本格化した冷戦でソ連をはじめとする共産主義を牽制する戦略的要衝地として韓国を確保しようとした。
新羅時代から代々韓国の領土だった独島を、日本は自国の領土だと主張した。1905年当時、韓国人には領土という概念がなく、日本に対抗する国力も持っていなかった。よって、先に近代化を成し遂げた日本による植民支配の第一歩だ、と韓国が思うのも無理はない。
皮肉なことに、両国の主張にはそれなりの根拠がある。韓国は歴史的な地図と資料を、日本は1905年の領土登録と1951年のサンフランシスコ平和条約を根拠に、自国の領土であることを主張している。現在、独島は韓国が実効支配しているが、この問題が国際司法裁判所に持ち込まれた場合、どのような判決が出るのか、分からない。日本は自国が有利だと思っているようだが・・・。
韓国人にとって独島は、領海の問題においても重要だ。だがそれ以上に、日本が独島を自国の地だと主張するのは、韓国をまだ植民地だと考えているではないか、という気持ちが根底にある。法的根拠から客観的に見れば、竹島と呼んで日本の領土だと主張するのが妥当かもしれない。しかし、韓国人が自国の領土として認識することも全くとんでもない主張とばかり言い切れない。
1990年代、私は日本に留学した。そして次第に、日本に抱いていた先入観が崩れていった。日本という国については、相対する二つの気持ちがあった。敵対感と憧れだ。当時の韓国は、日本との文化交流がほとんどなかった。そのため、一般の国民が知っている日本は、歴史教科書の植民地時代までだった。
日本は自由民主主義国家であり、平和で多様な文化を持つ国だ。留学前に想像していた日本人は、韓国のテレビに出てくるような野蛮で残忍な性格だったが、東京で生活しながら出会った日本人は外国人に親切で秩序を守る、優しい人たちだった。私が日本や日本人を正しく知らなかったのと同様、当時は日本人も韓国や韓国人のことをあまり知らず、興味もなかったように思う。
金大中大統領が1998年に日本文化を開放し、その後、ワールドカップの共同開催や日本の韓流ブームなどを経て、日韓の交流は深まった。一時的に仲良くなったように見えたが、今ここにきて、日本と韓国は再び最悪の冷戦状態を迎えている。韓国では日本語を学ぶ人が減り、日本製品の不買運動まで行われている。果たしてこのような状況が両国においてプラスになるだろうか。
加害者でも被害者でもない日韓両国
韓国は植民地からの解放や朝鮮戦争を経験しながら、勤勉誠実に生きてきた親の世代の努力により経済的な困難を克服し、今の豊かな大韓民国を作り上げた。しかし、実は米国ら自由民主主義の西欧諸国、そして隣国である日本の助けがあったことは否定できない。
再び独島問題に戻ろう。私は韓国人であり、独島を竹島と呼ぶことはできないし、独島を韓国の領土だと考えている。しかし、手放しで韓国の領土だと呼んではいけないと考えている。なぜ日本が自国の領土だと主張するのかも考えなくてはならない。それと同様、韓国人の独島に対する考えも日本人に知ってほしいと思う。
日本人はもはや加害者ではなく、韓国人はもはや被害者ではない。両国の歴史の渦の中で、独島と竹島が代表的な問題となっているが、根本的には互いを理解しようとする姿勢が足りないのが原因だと思う。韓国と日本は、互いに信じ合って協力し合えば最強のパートナーになれると確信している。両国の未来のために何が最善なのかを、特に日本と韓国の政治家たちには真剣に考えてほしいと思う。
「独島は我が国の領土」
これは、1982年に韓国で作られた流行歌のタイトルだ。この歌は国民的ヒットソングとなり、その後、何度も歌詞がグレードアップされて作り替えられた。なぜこれほど韓国の全国民から愛され、人気を博したのだろうか。
韓国人である私は、小学校から高校までの12年間、歴史の時間にわが国の植民地時代について学んできた。また、その時代が背景になったドラマでは、日本人巡査がどれだけひどい人たちだったのかを目にした。国を奪われるというのは、このような悔しさと悲しみ、そして多くの悲劇に耐えることなのかと思った。
末弟に蹂躙された次兄
私が知っている韓国は平和を愛する国だ。他国を侵略せず、中国の文化を日本に伝える役割を果たしてきたし、日本を敵対国として認識していなかった。中国は無知だったわが国に文化を伝えてくれた兄の国であり、野蛮な国とされていた日本は、韓国が文化を伝えて悟らせた弟の国だった。
儒教を国教として受け入れ、礼儀を重視していた朝鮮は、兄の国である中国を奉じ、弟の国・日本の面倒を見なければならないという気持ちを持っていた。しかし、1910年の韓日併合により日本の植民地となったことで、半島周辺の国々と大小の戦争を経ながらかろうじて守ってきた民族のプライドは、一瞬にして崩れてしまう。
私の徹底した愛国心は自然と反日感情につながった。韓国民であれば、このような気持ちを持つのは当然だと思っていた。日本人は加害者、韓国人は被害者なのだから。そうした韓国人にとって反日感情の象徴こそ独島ではないだろうか。
日本留学で知った本当の日本と日本人
韓国は日本による36年間の支配を経て1945年に解放された。だが、1905年に日本の領土として登録された独島は、返還の対象に入っていなかった。
日本は1905年に独島を日本の領土として登録したこと、また1951年のサンフランシスコ平和条約草案の作成過程で独島が日本の領土として認められたとし、独島を日本の領土だと主張してきた。朝鮮戦争の真っ最中だった1951年9月、米国と日本はサンフランシスコ平和条約を締結し、両国は同盟関係を結ぶ。米国は同条約を通じ、朝鮮戦争で本格化した冷戦でソ連をはじめとする共産主義を牽制する戦略的要衝地として韓国を確保しようとした。
新羅時代から代々韓国の領土だった独島を、日本は自国の領土だと主張した。1905年当時、韓国人には領土という概念がなく、日本に対抗する国力も持っていなかった。よって、先に近代化を成し遂げた日本による植民支配の第一歩だ、と韓国が思うのも無理はない。
皮肉なことに、両国の主張にはそれなりの根拠がある。韓国は歴史的な地図と資料を、日本は1905年の領土登録と1951年のサンフランシスコ平和条約を根拠に、自国の領土であることを主張している。現在、独島は韓国が実効支配しているが、この問題が国際司法裁判所に持ち込まれた場合、どのような判決が出るのか、分からない。日本は自国が有利だと思っているようだが・・・。
韓国人にとって独島は、領海の問題においても重要だ。だがそれ以上に、日本が独島を自国の地だと主張するのは、韓国をまだ植民地だと考えているではないか、という気持ちが根底にある。法的根拠から客観的に見れば、竹島と呼んで日本の領土だと主張するのが妥当かもしれない。しかし、韓国人が自国の領土として認識することも全くとんでもない主張とばかり言い切れない。
1990年代、私は日本に留学した。そして次第に、日本に抱いていた先入観が崩れていった。日本という国については、相対する二つの気持ちがあった。敵対感と憧れだ。当時の韓国は、日本との文化交流がほとんどなかった。そのため、一般の国民が知っている日本は、歴史教科書の植民地時代までだった。
日本は自由民主主義国家であり、平和で多様な文化を持つ国だ。留学前に想像していた日本人は、韓国のテレビに出てくるような野蛮で残忍な性格だったが、東京で生活しながら出会った日本人は外国人に親切で秩序を守る、優しい人たちだった。私が日本や日本人を正しく知らなかったのと同様、当時は日本人も韓国や韓国人のことをあまり知らず、興味もなかったように思う。
金大中大統領が1998年に日本文化を開放し、その後、ワールドカップの共同開催や日本の韓流ブームなどを経て、日韓の交流は深まった。一時的に仲良くなったように見えたが、今ここにきて、日本と韓国は再び最悪の冷戦状態を迎えている。韓国では日本語を学ぶ人が減り、日本製品の不買運動まで行われている。果たしてこのような状況が両国においてプラスになるだろうか。
加害者でも被害者でもない日韓両国
韓国は植民地からの解放や朝鮮戦争を経験しながら、勤勉誠実に生きてきた親の世代の努力により経済的な困難を克服し、今の豊かな大韓民国を作り上げた。しかし、実は米国ら自由民主主義の西欧諸国、そして隣国である日本の助けがあったことは否定できない。
再び独島問題に戻ろう。私は韓国人であり、独島を竹島と呼ぶことはできないし、独島を韓国の領土だと考えている。しかし、手放しで韓国の領土だと呼んではいけないと考えている。なぜ日本が自国の領土だと主張するのかも考えなくてはならない。それと同様、韓国人の独島に対する考えも日本人に知ってほしいと思う。
日本人はもはや加害者ではなく、韓国人はもはや被害者ではない。両国の歴史の渦の中で、独島と竹島が代表的な問題となっているが、根本的には互いを理解しようとする姿勢が足りないのが原因だと思う。韓国と日本は、互いに信じ合って協力し合えば最強のパートナーになれると確信している。両国の未来のために何が最善なのかを、特に日本と韓国の政治家たちには真剣に考えてほしいと思う。
竹島 - Wikipedia
<前略>
年表
江戸時代
1618年(元和4年):伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛らが、幕府から許可を得て“竹島”(現在の鬱陵島)に渡航。
1692年(元禄5年):“竹島”(現在の鬱陵島)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
1696年(元禄9年):江戸幕府が“竹島”(現在の鬱陵島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が、鬱陵島ならびに于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
1849年(嘉永2年):フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島(現在の竹島)を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩、リアンコールト列岩とも呼ばれる)。
明治以降
1877年(明治10年)3月29日:「竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事」とする太政官の指令が内務省に伝達された。(竹島外一島を参照)
1900年(明治33年)10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道鬱島郡に昇格、同時に石島(韓国では石島を独島と解釈している)も韓国領とした。
明治時代 隠岐五箇村久見在住の橋岡友次郎、池田吉太郎他、地元の有志が、竹島に出漁しアシカや海産物を採取していた[104] 。
1904年(明治37年)
2月6日:日露戦争が勃発。
2月23日:日韓議定書が締結される。
8月23日:第一次日韓協約が締結される。
9月29日:島根県の中井養三郎が、内務省・外務省・農商務省に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出。
1905年(明治38年)
1月28日:日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
2月15日:内務省訓第87号により閣議決定の内容について管内に告示するよう指示。
2月22日:島根県告示第40号により閣議決定の内容を告示。
5月3日:島根県が現地で面積などの調査を実施。
5月17日:島根県が現地での調査結果に基づき総反別23町3反3畝歩と官有地台帳に登録し官有地に編入。
5月27日 - 5月28日:日露間で日本海海戦が行われた。
11月17日:第二次日韓協約が締結(事実上、韓国が日本の保護国となった)。
1906年(明治39年)
3月28日:島根県関係者が欝島郡守の沈興澤(朝鮮語版)に日本の竹島領有を伝える。翌日、沈興澤は江原道観察使署理春川郡守の李明来に、独島が日本領になったと報告。
4月29日:李明来、議政府賛政大臣の朴斉純に日本の独島領有の件について注進。朴斉純は5月20日付の指令第三号で「独島領有の説は全く事実無根」とし、「該島の形便と日本人の行動」について調査報告を命じる。
4月30日:中井養三郎を代表とする竹島漁猟合資会社の設立許可申請(同年7月2日許可)。
7月13日:韓国の『皇城新聞(朝鮮語版)』[105]で、欝島郡の範囲について統監府に対し「東西が六十里(約24km)、南北が四十里(約16km)。合わせて二百余里(約80km)」と回答する記事が掲載される。
1910年(明治43年)8月22日:韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
1914年(大正3年):鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。
隠岐郷土館(島根県隠岐の島町)にある竹島の石
大正時代:隠岐五箇村久見在住の橋岡友次郎の後継者である橋岡忠重は、伯父の八幡長四郎、従兄の池田幸一と竹島出漁を毎年繰り返している[104]。
1935年(昭和10年):隠岐五箇村の橋岡忠重が竹島の石を持ち帰り、義甥の脇田茂氏に贈る[104]。
1939年(昭和14年)4月24日:行政区画につき五箇村会が竹島を同村へ編入することを決議。
1940年(昭和15年)8月17日:海軍用地として、竹島が島根県から海軍省(舞鶴鎮守府)へと移管。
ポツダム宣言受諾後
1945年(昭和20年)
9月2日:日本政府代表・軍代表がポツダム宣言を受諾して、降伏文書に調印。
11月1日:海軍省廃止により、竹島が大蔵省へと移管[疑問点 – ノート]。
1946年(昭和21年)
1月29日:SCAPIN-677により、竹島に対する日本政府の施政権が暫定的に停止された[106]。
6月22日:SCAPIN-1033によりマッカーサー・ラインが制定され、竹島周辺海域での漁業活動に制限が加えられた[106]。以後、竹島から13海里以内への立ち入りは原則として禁じられる。
1947年(昭和22年)
6月:外務省は『Minor Islands Adjacent Japan Proper』という小冊子を作成し竹島を日本の固有領土と明記する。
8月20日:朝鮮山岳会[注 8]が竹島を調査(8月16日~8月28日)[108]。
9月16日:SCAPIN-1778 が発令、竹島を爆撃訓練場とし、日本の隠岐および本州西部沿岸住民への事前通知を条件とする。
1948年(昭和23年)
6月8日:米極東空軍の B-29 が竹島を爆撃および機銃掃射し、韓国漁民の死者・行方不明者は14人、負傷者10人。
8月5日:南朝鮮の「憂国老人会(朝鮮語版)」がマッカーサーに対し「独島(トクソム)、波浪島、鬱陵島、対馬」が韓国領との請願書を送付[109]。
8月15日:李承晩、大韓民国建国を宣言し初代大統領に就任。
1949年(昭和24年)
11月19日:シーボルト駐日政治顧問代理は、国務長官宛てに「竹島に対する日本の領土主張は古く正当と思われる」と提言。
12月29日:竹島を日本の領土として明記したサンフランシスコ平和条約の草案が作られる。
1950年(昭和25年)
6月8日:韓国は竹島で「遭難漁民慰霊碑」を除幕。
6月25日:朝鮮戦争勃発。
1951年(昭和26年)
4月5日:英国のサンフランシスコ条約草案が日本が放棄する領土を緯度、経度で記載。竹島は放棄する領土に位置していた。
6月14日:サンフランシスコ条約草案で、日本の放棄すべき島から竹島が除外される。(日本の保有領土の項は無くなる)
7月6日:SCAPIN-2160 が発令、これに伴い SCAPIN-1778 は廃止され、引き続き竹島を爆撃訓練場とし、隠岐および本州西部沿岸住民への事前通知を条件とする。
7月10日:開城で休戦会談が開始。
7月19日:梁裕燦韓国大使がダレス国務長官顧問と会談し、対馬への領有権主張の取り下げを確認し、同時に「独島」「パラン島」の領有、マッカーサー・ラインの存続を求めた書簡を提出。
8月3日:国務省にて「独島」「パラン島」が確認できないとの認識(ボッグスメモ)。
8月10日:ディーン・ラスク国務次官補から韓国大使に宛てた「ラスク書簡」で、「「独島」が朝鮮の領土であったことも主張されたこともなく、「パラン島」は取り下げられたとみなす。」また、マッカーサー・ラインも存続しないと回答[110]。
9月9日:サンフランシスコ平和条約に49カ国が署名、竹島は放棄すべき領土に明記されず。
<後略>
<前略>
年表
江戸時代
1618年(元和4年):伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛らが、幕府から許可を得て“竹島”(現在の鬱陵島)に渡航。
1692年(元禄5年):“竹島”(現在の鬱陵島)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
1696年(元禄9年):江戸幕府が“竹島”(現在の鬱陵島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が、鬱陵島ならびに于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
1849年(嘉永2年):フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島(現在の竹島)を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩、リアンコールト列岩とも呼ばれる)。
明治以降
1877年(明治10年)3月29日:「竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事」とする太政官の指令が内務省に伝達された。(竹島外一島を参照)
1900年(明治33年)10月25日:大韓帝国勅令41号で鬱陵島を江原道鬱島郡に昇格、同時に石島(韓国では石島を独島と解釈している)も韓国領とした。
明治時代 隠岐五箇村久見在住の橋岡友次郎、池田吉太郎他、地元の有志が、竹島に出漁しアシカや海産物を採取していた[104] 。
1904年(明治37年)
2月6日:日露戦争が勃発。
2月23日:日韓議定書が締結される。
8月23日:第一次日韓協約が締結される。
9月29日:島根県の中井養三郎が、内務省・外務省・農商務省に「りゃんこ島領土編入並に貸下願」を提出。
1905年(明治38年)
1月28日:日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
2月15日:内務省訓第87号により閣議決定の内容について管内に告示するよう指示。
2月22日:島根県告示第40号により閣議決定の内容を告示。
5月3日:島根県が現地で面積などの調査を実施。
5月17日:島根県が現地での調査結果に基づき総反別23町3反3畝歩と官有地台帳に登録し官有地に編入。
5月27日 - 5月28日:日露間で日本海海戦が行われた。
11月17日:第二次日韓協約が締結(事実上、韓国が日本の保護国となった)。
1906年(明治39年)
3月28日:島根県関係者が欝島郡守の沈興澤(朝鮮語版)に日本の竹島領有を伝える。翌日、沈興澤は江原道観察使署理春川郡守の李明来に、独島が日本領になったと報告。
4月29日:李明来、議政府賛政大臣の朴斉純に日本の独島領有の件について注進。朴斉純は5月20日付の指令第三号で「独島領有の説は全く事実無根」とし、「該島の形便と日本人の行動」について調査報告を命じる。
4月30日:中井養三郎を代表とする竹島漁猟合資会社の設立許可申請(同年7月2日許可)。
7月13日:韓国の『皇城新聞(朝鮮語版)』[105]で、欝島郡の範囲について統監府に対し「東西が六十里(約24km)、南北が四十里(約16km)。合わせて二百余里(約80km)」と回答する記事が掲載される。
1910年(明治43年)8月22日:韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
1914年(大正3年):鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。
隠岐郷土館(島根県隠岐の島町)にある竹島の石
大正時代:隠岐五箇村久見在住の橋岡友次郎の後継者である橋岡忠重は、伯父の八幡長四郎、従兄の池田幸一と竹島出漁を毎年繰り返している[104]。
1935年(昭和10年):隠岐五箇村の橋岡忠重が竹島の石を持ち帰り、義甥の脇田茂氏に贈る[104]。
1939年(昭和14年)4月24日:行政区画につき五箇村会が竹島を同村へ編入することを決議。
1940年(昭和15年)8月17日:海軍用地として、竹島が島根県から海軍省(舞鶴鎮守府)へと移管。
ポツダム宣言受諾後
1945年(昭和20年)
9月2日:日本政府代表・軍代表がポツダム宣言を受諾して、降伏文書に調印。
11月1日:海軍省廃止により、竹島が大蔵省へと移管[疑問点 – ノート]。
1946年(昭和21年)
1月29日:SCAPIN-677により、竹島に対する日本政府の施政権が暫定的に停止された[106]。
6月22日:SCAPIN-1033によりマッカーサー・ラインが制定され、竹島周辺海域での漁業活動に制限が加えられた[106]。以後、竹島から13海里以内への立ち入りは原則として禁じられる。
1947年(昭和22年)
6月:外務省は『Minor Islands Adjacent Japan Proper』という小冊子を作成し竹島を日本の固有領土と明記する。
8月20日:朝鮮山岳会[注 8]が竹島を調査(8月16日~8月28日)[108]。
9月16日:SCAPIN-1778 が発令、竹島を爆撃訓練場とし、日本の隠岐および本州西部沿岸住民への事前通知を条件とする。
1948年(昭和23年)
6月8日:米極東空軍の B-29 が竹島を爆撃および機銃掃射し、韓国漁民の死者・行方不明者は14人、負傷者10人。
8月5日:南朝鮮の「憂国老人会(朝鮮語版)」がマッカーサーに対し「独島(トクソム)、波浪島、鬱陵島、対馬」が韓国領との請願書を送付[109]。
8月15日:李承晩、大韓民国建国を宣言し初代大統領に就任。
1949年(昭和24年)
11月19日:シーボルト駐日政治顧問代理は、国務長官宛てに「竹島に対する日本の領土主張は古く正当と思われる」と提言。
12月29日:竹島を日本の領土として明記したサンフランシスコ平和条約の草案が作られる。
1950年(昭和25年)
6月8日:韓国は竹島で「遭難漁民慰霊碑」を除幕。
6月25日:朝鮮戦争勃発。
1951年(昭和26年)
4月5日:英国のサンフランシスコ条約草案が日本が放棄する領土を緯度、経度で記載。竹島は放棄する領土に位置していた。
6月14日:サンフランシスコ条約草案で、日本の放棄すべき島から竹島が除外される。(日本の保有領土の項は無くなる)
7月6日:SCAPIN-2160 が発令、これに伴い SCAPIN-1778 は廃止され、引き続き竹島を爆撃訓練場とし、隠岐および本州西部沿岸住民への事前通知を条件とする。
7月10日:開城で休戦会談が開始。
7月19日:梁裕燦韓国大使がダレス国務長官顧問と会談し、対馬への領有権主張の取り下げを確認し、同時に「独島」「パラン島」の領有、マッカーサー・ラインの存続を求めた書簡を提出。
8月3日:国務省にて「独島」「パラン島」が確認できないとの認識(ボッグスメモ)。
8月10日:ディーン・ラスク国務次官補から韓国大使に宛てた「ラスク書簡」で、「「独島」が朝鮮の領土であったことも主張されたこともなく、「パラン島」は取り下げられたとみなす。」また、マッカーサー・ラインも存続しないと回答[110]。
9月9日:サンフランシスコ平和条約に49カ国が署名、竹島は放棄すべき領土に明記されず。
<後略>
呉さんが知っている韓国は平和を愛する国だ。他国を侵略せず、中国の文化を日本に伝える役割を果たしてきたし、日本を敵対国として認識していなかった。中国は無知だったわが国に文化を伝えてくれた兄の国であり、野蛮な国とされていた日本は、韓国が文化を伝えて悟らせた弟の国だったと。
儒教を国教として受け入れ、礼儀を重視していた朝鮮は、兄の国である中国を奉じ、弟の国・日本の面倒を見なければならないという気持ちを持っていたとも。
しかし、1910年の韓日併合により日本の植民地となったことで、民族のプライドは一瞬にして崩れてしまい、私の徹底した愛国心は自然と反日感情につながった。韓国民であれば、このような気持ちを持つのは当然だと思っていた。日本人は加害者、韓国人は被害者。そうした韓国人にとって反日感情の象徴こそ独島ではないだろうかと呉さん。
現在、独島は韓国が実効支配しているが、この問題が国際司法裁判所に持ち込まれた場合、どのような判決が出るのか、分からないと。
独島周辺海域の平和は日本側の自制により保たれていると語っておられるのは、金完燮(キム・ワンソプ)さん。
竹島は日本の領土 竹島周辺海域の平和は日本側の自制により保たれている - 遊爺雑記帳
韓国人にとって、日本が独島を自国の地だと主張するのは、韓国をまだ植民地だと考えているではないか、という気持ちが根底にある。法的根拠から客観的に見れば、竹島と呼んで日本の領土だと主張するのが妥当かもしれない。しかし、韓国人が自国の領土として認識することも全くとんでもない主張とばかり言い切れないと呉さん。
呉さんは、1990年代、日本に留学されたのだそうです。そして次第に、日本に抱いていた先入観が崩れていったと。
「反日韓国に未来はない」の著者、呉善花さんも、学校で教わる日本と、おばあさんが話してくれる統治時代の日本の姿が違い過ぎたが、日本に来てみたら、おばあさんの話の方が正しかったと述べておられますね。
今ここにきて、日本と韓国は再び最悪の冷戦状態を迎えている。韓国では日本語を学ぶ人が減り、日本製品の不買運動まで行われている。果たしてこのような状況が両国においてプラスになるだろうかと呉花梨さん。
私は韓国人であり、独島を竹島と呼ぶことはできないし、独島を韓国の領土だと考えている。しかし、手放しで韓国の領土だと呼んではいけないと考えている。なぜ日本が自国の領土だと主張するのかも考えなくてはならない。それと同様、韓国人の独島に対する考えも日本人に知ってほしいと思うと。
日本人はもはや加害者ではなく、韓国人はもはや被害者ではない。根本的には互いを理解しようとする姿勢が足りないのが原因だと思う。韓国と日本は、互いに信じ合って協力し合えば最強のパートナーになれると確信しているとも。
呉花梨の仰る通りですね。
文中で、金完燮さんの「独島周辺海域の平和は日本側の自制により保たれている」という言葉に触れました。
日韓基本条約を結びスタートした戦後の日韓関係。
その歩みのなかではいろいろありました。関係改善の為、両国政府はいろいろな約束をしてきました。そして文在寅政権となっている今。それらの過去の両国の関係改善の積み重ねがことごとく覆されています。
残念なことです。
冒頭で紹介した東亜日報の記事のバイデン政権の米国高官発言。日米韓が絆を強めていこうとしてきたのですが、トランプ政権だけでなく、バイデン政権でも文在寅政府には期待を失っているのも現状ですね。
# 冒頭の画像は、竹島周辺で軍事訓練する韓国海軍
春を待つ空の巣
杉原由美子氏による絵本「メチのいた島」読み聞かせ - YouTube
↓よろしかったら、お願いします。
元はと言えば、儒教は中国の物だったのに韓国が盲信している民族ですね。