え~っと突然ですが。。。
なんとな~く印象深い話で「ミケランジェロとキリスト像」っていうのがあります。
ミケランジェロの作品のキリスト像を「なんて素晴らしい創作でしょう」とほめたたえる人たちに彼が言うには、
「私がこれを創ったわけではありません。
石の中に主がおられて、『私を出しておくれ』とおっしゃったのです。
だから私は余分なものを削り落としただけ、キリストは最初から石の中におられたのです」
この話、石工と仏像の日本バージョンも聞いたことがあるので、洋の東西を問わず普遍的なお話なのかもね(^^)
で、私ね、「問いと答え」の「答え」って、このキリストさまの像みたいなもんかなって思うんです。
最初からそこにあるって。
引っ張り出されるのを待ってるだけって。
それまでは「問いと答え」なら当然問いが先でしょって思ってたんです。
それが、本などで読んだ多くの情報と 自分のいろいろな体験がマッチした結果、いつの間にやらじわじわ変化してって。
たとえば 1+1=2 っていう数式があったら、答えの「2」っていう数字は 式が現れる前から存在しているわけで。
それが 1+1はいくつ? っていう問いかけによって、初めて光の当たるところに登場してくる、と。
で、「問いと答え」がそういうものだって思えてくると、自分の内側への問いに 必ずどこからか答えが返ってくるのもそう不思議なことじゃないような氣がしてくるんですね。
答えは最初からそこにあって、問われるのを静かに待ってるんだから。
つまり、問いが発生した時点で答えとの出会いは確定、あとは時間の問題だけ、っていうことですね♪
それが信じられるようになってから、答えてもらえず放っておかれるんじゃないか、自分は見捨てられてるんじゃないか、という不安がなくなりました
問えば必ず答えはやってくる。
そうして宇宙は常に私を見守り、導いてくれる。
と同時に、今度は的確な問いを出すことの難しさが身に沁みるようになりました。
そもそもなにか事が起こって、
「なんでなんで?なんでこんなことになっちゃったのぉ~~~!?」
ってあたふたしてる最中は 問いかけどころの騒ぎじゃないですもんね(^^ゞ
狼狽を脇にどけ、氣を落ち着かせて前向きに事に取り組もう、となって初めて、この混乱の元はいったいなんだったのか?と冷静に考えられるようになる。
それでも的外れな問いや曖昧な問いをいくら出しても、的確な答えはもらえない。
ほんとうに難しいのは、「まだ見ぬ答え」じゃなくて 「まだ見ぬ問い」を引っ張り出すことの方だったんですね。。。。
いくら答えが先にそこにあるといっても、正しく問うことをしない限り、そこにあると知ることも 出会うこともできない。
じゃあ、問いはいったいどこから生まれてくるんだろう?と自分の過去を探ってみたら・・・
なんとまぁ、それまで忌み嫌っていたネガティヴな事態や ピンチと思える事柄からだったんだなぁ、これが。
(^◇^;)
考えてみれば、平穏無事で幸せなときは ただそれを味わっていればいいわけで、「なんでこうなるの?」と問おうなんて氣はあまり起こさないもの。
困ったこと、なんとか打開しないといけない事態、もっといい状況にしたいという強い願いなどと出くわして、初めて必死に答えを得ようという氣になるんですものね。
そう思うと、
おお
これがピンチはチャンス、ということだったのかぁ~ \(^o^)/
ピンチは問いを発生させ、答えへと導くことで、私たちに成長するチャンスを与え、器を広げさせてくれてたんですね
まあ なにもかもなんてうまく出来てるんでしょう(*^ー^*)
こうして あちこちでさんざんアタマをぶつけながら、幾多の危機に支えられてどうにかここまでやってこられた私です(笑)
ジェットコースターみたいだったわが道も、多少起伏がなだらかになってくれたかも♪
以前は深い穴の底から助けを求めるがごときだった問いかけも、かなり穏やかにできるようになった・・・かな?(笑)
そして今、先のほうを見渡すと、まだ見えないけど 出会うのを待ってくれている答えが無数に散りばめられてるようで、わくわくと胸がときめいてくるのです
それは 知恵かもしれないし、物かも、場所かも、
人 かもしれない。
見えない糸に結ばれて、私との出逢いをそれと氣づかず待ってくれてる人が、ここから先にたくさんたくさんたくさ~~~んいるんだ、きっと、ね
そう思うと 未来がなんて明るく輝いて見えてくることか
背伸びつま先立ちして大声で叫びたくなってきます、
「きっと逢おうね~、待っててね~、必ず行くからね~~」
って、ね
なんとな~く印象深い話で「ミケランジェロとキリスト像」っていうのがあります。
ミケランジェロの作品のキリスト像を「なんて素晴らしい創作でしょう」とほめたたえる人たちに彼が言うには、
「私がこれを創ったわけではありません。
石の中に主がおられて、『私を出しておくれ』とおっしゃったのです。
だから私は余分なものを削り落としただけ、キリストは最初から石の中におられたのです」
この話、石工と仏像の日本バージョンも聞いたことがあるので、洋の東西を問わず普遍的なお話なのかもね(^^)
で、私ね、「問いと答え」の「答え」って、このキリストさまの像みたいなもんかなって思うんです。
最初からそこにあるって。
引っ張り出されるのを待ってるだけって。
それまでは「問いと答え」なら当然問いが先でしょって思ってたんです。
それが、本などで読んだ多くの情報と 自分のいろいろな体験がマッチした結果、いつの間にやらじわじわ変化してって。
たとえば 1+1=2 っていう数式があったら、答えの「2」っていう数字は 式が現れる前から存在しているわけで。
それが 1+1はいくつ? っていう問いかけによって、初めて光の当たるところに登場してくる、と。
で、「問いと答え」がそういうものだって思えてくると、自分の内側への問いに 必ずどこからか答えが返ってくるのもそう不思議なことじゃないような氣がしてくるんですね。
答えは最初からそこにあって、問われるのを静かに待ってるんだから。
つまり、問いが発生した時点で答えとの出会いは確定、あとは時間の問題だけ、っていうことですね♪
それが信じられるようになってから、答えてもらえず放っておかれるんじゃないか、自分は見捨てられてるんじゃないか、という不安がなくなりました
問えば必ず答えはやってくる。
そうして宇宙は常に私を見守り、導いてくれる。
と同時に、今度は的確な問いを出すことの難しさが身に沁みるようになりました。
そもそもなにか事が起こって、
「なんでなんで?なんでこんなことになっちゃったのぉ~~~!?」
ってあたふたしてる最中は 問いかけどころの騒ぎじゃないですもんね(^^ゞ
狼狽を脇にどけ、氣を落ち着かせて前向きに事に取り組もう、となって初めて、この混乱の元はいったいなんだったのか?と冷静に考えられるようになる。
それでも的外れな問いや曖昧な問いをいくら出しても、的確な答えはもらえない。
ほんとうに難しいのは、「まだ見ぬ答え」じゃなくて 「まだ見ぬ問い」を引っ張り出すことの方だったんですね。。。。
いくら答えが先にそこにあるといっても、正しく問うことをしない限り、そこにあると知ることも 出会うこともできない。
じゃあ、問いはいったいどこから生まれてくるんだろう?と自分の過去を探ってみたら・・・
なんとまぁ、それまで忌み嫌っていたネガティヴな事態や ピンチと思える事柄からだったんだなぁ、これが。
(^◇^;)
考えてみれば、平穏無事で幸せなときは ただそれを味わっていればいいわけで、「なんでこうなるの?」と問おうなんて氣はあまり起こさないもの。
困ったこと、なんとか打開しないといけない事態、もっといい状況にしたいという強い願いなどと出くわして、初めて必死に答えを得ようという氣になるんですものね。
そう思うと、
おお
これがピンチはチャンス、ということだったのかぁ~ \(^o^)/
ピンチは問いを発生させ、答えへと導くことで、私たちに成長するチャンスを与え、器を広げさせてくれてたんですね
まあ なにもかもなんてうまく出来てるんでしょう(*^ー^*)
こうして あちこちでさんざんアタマをぶつけながら、幾多の危機に支えられてどうにかここまでやってこられた私です(笑)
ジェットコースターみたいだったわが道も、多少起伏がなだらかになってくれたかも♪
以前は深い穴の底から助けを求めるがごときだった問いかけも、かなり穏やかにできるようになった・・・かな?(笑)
そして今、先のほうを見渡すと、まだ見えないけど 出会うのを待ってくれている答えが無数に散りばめられてるようで、わくわくと胸がときめいてくるのです
それは 知恵かもしれないし、物かも、場所かも、
人 かもしれない。
見えない糸に結ばれて、私との出逢いをそれと氣づかず待ってくれてる人が、ここから先にたくさんたくさんたくさ~~~んいるんだ、きっと、ね
そう思うと 未来がなんて明るく輝いて見えてくることか
背伸びつま先立ちして大声で叫びたくなってきます、
「きっと逢おうね~、待っててね~、必ず行くからね~~」
って、ね