毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

チャンス到来!

2013年04月04日 13時40分26秒 | ふと思うこと
先日 こちらの日記に 「言葉には ほとんど無意識のうちに 過去の体験から想起されるイメージがついて回る」と書きました。

つまり、言葉を使って暮らしている私たち誰もが、自分の「今」を 過去に左右されているケースが 非常に多いんですね。



長年 自分のいろんな思考癖に悩まされてきたけれど、とりわけ手こずったのが「怒り」。

いったん事あれば 瞬時に点火、怒髪天を衝く勢いで荒れ狂う

それを無理やり押さえ込んで(いい子をウリにしてたからね)外に表さないようにするものだから、消耗度も怨念の溜まり具合も半端なくって



しかし この「怒り」、ひとつひとつをよぉく見てみると、リアルタイムで怒っているものって 実のところ まずないのです。




誰かにいやなことを言われてカッとなる。

怒りの感情が沸き上がってるのは たしかに今。

でも、ちょっと待って。

言われたのが「いやなこと」だと判断したのは なぜ?

それは以前、同じ言葉を 不快なシチュエーションで浴びせられて 怒りを覚え、「これはいやな言葉、怒るべき言葉だ」というレッテルが貼られたから。

もしまったく知らない外国語で同じようなことを言われたら、とっさにどう対応すればいいか迷うはず。

意味がわからなければ、反応も決められない。

反応できたのは、過去の体験から その言葉に自分なりの意味づけをして どう対処するかがすでに決まっていたから。

意味が決まった時点で、その言葉は「怒り」と書かれた心の引き出しに仕分けて入れられてたんだね。



でも。

起こることそのものは、すべて中立。

反応は 自分の意味づけによって決まるけれど、過去はともかく、今それが必ずしも毎回同じ「怒り」である必要はないはず。

氣に留めずにいることもできるし、笑ってやり過ごしても ジョークで応じても構わない。

なのに なぜ ほとんど瞬時に「怒り」と結びついて、ほかの反応が選べないんだろう?



自分をさんざん観察してわかったのは、“最初にその言葉を体験したときの感情が、まだ自分の中で消化できてないから”。



初めてその言葉を言われたとき、言葉そのものだけでなく、前後の状況や 相手のかもしだす雰囲氣などから総合的に なんとなくいや~なものを感じたと思うんです。

でも、幼かったから それをうまく言葉で表現できなかった。

その上、日頃から 感じたことを率直に言い表すことを嫌がられ 禁じられていた。

ある程度の年齢で、素直にすっと感じを言えていたら、たぶんそうそう引きずらなかったと思います。

言葉そのものよりも、その場の空氣から感じ取った不快感と、それを押さえ込んで我慢するしかなかった圧迫感が やり場のない怒りとなり、件の言葉とセットで 心の奥にしまい込まれた。

それ以後、誰かがその言葉を口にするたびに、スイッチが入って、初回に感じたのと同じ不快感&怒りがどっとこみ上げてくる、という自動回路が作られ、使い込まれてますます精度を増していったんですね。

成長して力をつけた自分が システムを解除しに来るまで、それは繰り返し発動する。

いつまでもその言葉につきまとう怒りは、実は「ここに未消化の感情のしこりがあるよ」っていう合図だったと。




つまり、今目の前の相手が自分を怒らせたように見えて、実はそうじゃなかったっていうこと。

その人は たまたまスイッチを押しちゃっただけであって、その人に向けて放ってしまった怒りは、実際には 過去の記憶の再燃でしかなかったんですね。

いわば その人は 合図を送るのを手伝ってくれた“協力者”だったんですね。

そう思うと むしろなんて気の毒な人なんだ~。。。損な役回りを引き受けてくれて(T_T)

視点を変えれば、魂のころから助力を約束し合った学び仲間なんだろうなぁ、きっと。



これはひとつの例だけど、怒りに限らず 振り回されて始末に困る感情は、まずこういうからくりになっているようです。

このからくりが 実感を伴って鮮明に見えてくると、ビッグチャンス到来



そう、自分の力で 長年の悩みをクリアできるのです



また続きを書かせてもらいますね☆