私たち分け出された存在が 「個」という殻をまとっている間は、めいめいが “自分だけの答え”を見つけ、あるいは創っていくんだと思っています。
「私はこれこれこういう人間だ」「こう生きる」「これを大切にする」という それぞれの信条に照らし合わせた選択によって。
たとえ何かを丸信じするとしても、丸信じすると決めたのは やはり自分。
だから、どこかに誰にでも当てはまる完璧な答えがあって それを見つけさえすれば幸せになれる、っていうのは、当てのない望みに思えます。
たとえ、神さま御自らのお言葉だろうとも、それを信じる・信じない、実践する・しないの決断は 「個」である自分がするしかないのだから。
自分で選び、自分で結果を引き受ける。。。な~んていうと やたら重く聞こえてしまいそうだけど、なんのことはない、それ抜きで生きるなんて不可能だよ、っていうこと
で、これまで さまざまな媒体・メッセンジャーの方々から たくさんの情報をいただき、ぴんとくるままに選んで組み合わせ、自分なりにやってきたわけですが、ここに思わぬ落とし穴があったんですね。
それは、選び取った情報を いつのまにか 自分なりの解釈で「正解」として固めてしまい、その枠の中でしか判断ができなくなってしまう、ということ。
「あなたの世界は あなたが創っている」という言葉が、「自分のせいなんだから 辛くても仕方ないでしょ」「自業自得」って聞こえて すっかり自信を失ったり。
ネガティブな氣分のときに「否定的な思いは 否定的な現実を引き寄せる」と聞いて、このままじゃいか~ん
と焦って、かえってネガティブのサイクルにどっぷりはまり込んでしまったり。
また、こういう世界の本を何冊も読んでいると、最大公約数とでもいうのかな、共通するメッセージが浮かび上がってくることがままあるんですが、当然ですよね、書かれている方の視点が違うだけで、おおもとはひとつなんだもの。
で、「答えをくださ~い」っていう立場で そういうメッセージをキャッチすると、いつのまにか自分の中で、「これに反したら幸せになれないんだ、決して背いてはいけないんだ」という禁忌と化して 拘束力を持つようになってしまったり。
元の文章はひとつでも、その解釈は人の数だけある。
不安なとき、自信がないときほど そういう指針に頼りたくなるから、そんな心細い思いがしっかり反映した形で取り込まれちゃうことが多いんですね
あとから振り返って、「このメッセージを こんな浅い解釈で掴んでたんだ~
」とか 「こんな歪んだ形で取り込んでたんだ~
」とか 驚いたり呆れたりの多いこと(笑)
でも、なんか「うんうん、わかるわかる」って感じでもあります(^^)
ほんと、ひたむきで一生懸命なんだよね。
ただ、心細くて頼りなくて 自分に自信が持てなくて、だから、確かなものにすがりたい、答えが欲しい、っていう氣持ちに ついついなってしまって。
そういうのも あり
間違いに氣づいて見直せば、それはもう間違いではなくなるんだから
今思うのは、「もっと自分の氣持ちや感情を信じてもいいのかもね」っていうこと。
正しい答えを選ばなきゃ身の破滅、みたいな強迫観念は、過去の暮らしの中で培われた 誤った観念。
家でも学校でも、限られた選択肢の中から正解(相手がOKをくれる答え)を言い当てることばかり繰り返して、長年かけて刷り込まれた思い込みなんだよね。
何でも ほんとうのところを知りたければ、自分で決めて 自分で試してみるしかない。
もちろん、やみくもに突進しろっていうことではなくて、信頼できる人の言葉にはしっかり耳を傾けて、大いに助けてもらえばいいのだけれど。
でも、その人を信頼するかどうかだって、結局は自分で決めなければならないのだから。
しっかりアンテナ張って、よぉく吟味して、でも、最後の最後は 自分の思いに沿って 自分で決める。
一番マズイのは、「正しく選べなかったらどうしよう」という怖れにかられて 立ちすくんで動けなくなること。
この怖れをつかんだまま 五感を超えた世界に臨むのが どれほど怖いことか。。。思い出しても身につまされます(T_T)
でもね、どのみち自分で決める以外の道はないのだし、現に毎瞬毎瞬決めちゃってるんだから。
その積み重ねの上に 今の人生があるんだから。
もし結果に満足いってないのなら、「氣づいたらいつのまにか選んじゃってました」っていうのと 納得して意識的に選ぶのと どっちがいい?っていうことだよね☆
意識的に選んで、結果 うまくいくかいかないかは、実はそう大したことじゃないのです。
うまくいけば「これでいいんだ」、うまくいかなければ「これはしないほうがいいんだ」というデータが得られるだけのこと。
どっちにしても ひとつ賢くなれることに変りはない。
いや、むしろ「失敗したぁぁぁ
」とはっきり自覚できるデータは 成功データ以上に 値千金。
「これは私じゃない」と確信した部分を 自信を持って削り落とし、ほんとうの自分を掘り起こす 貴重な手がかりなのだから。
落ち込んで自信を失ったら、そんな自分を認めるしかない。
そして、「もういいもん、や~めた
」と背を向けるもよし、あきらめ悪くジタバタするもよし、動けないままじっとしてるもよし。
どんな選択をしようと、その先に 必ず見えてくるものがあるから。
多くの人に共通する「こうしたら?」というアドバイスにどうしても納得いかないなら。。。思うがままにやってみるしかないでしょう
それが 今ここの“自分”なのだから。
自分の意に逆らって 正しいと思しき答えを追うばかりじゃ、人の人生をなぞっているだけ、ほんとうに自分を生きていることにはならない。
ひとつであるおおもとから分け出された 数ある視点のひとつ、という意味では、正誤も優劣もない。
おんなじ見方しかなかったら、数ある意味がないもの。
いろいろな価値観があるからいいんだよね。
ある視点を答えとあがめて、自分なりの見方を放棄したら、せっかくこの世に生まれてきた値打ちがなくなってしまう。
思い込みや決め付けの枠を飛び越えた 他とぜんぜん違う自分の選択が、この世界に 斬新な答えをひとつ付け加えることになるのかもしれないよ♪
この世界のどんな視点も意見も それぞれに価値があるけれど、すべてのものが絶えず変化する以上、どんな答えも いずれ身の丈に合わなくなる日がやってくる。
自分の導き出した答えに 自分が捕らわれてしまわないよう、必要と感じたときは、枠を飛び越え 思い切った選択をするのもありだね♪
私たちは ただ探し求めるだけじゃない、私たち自身が 答えでもあるんだよ(^^)